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2016-02-21

息子の怜君が弓道の試験に合格しました。

昨日はまさに春の足音が近づいていることが如実に感じられるような一日で、終日どこにも出かけず家の中で過ごした。

早朝バイトに出かけてゆく娘を駅に送っていったのだが、午後には娘も帰ってきて、私にはしては遅い12時近くまでの土曜日の夜時間を親子で過ごした。3人で珍しくTVを見たり、クロスワードをしたり、私はスマホで文字を打つ練習をしたりした。(すべて妻が私の先生である)

私も家族ラインには参加することになったので、一日に一回は見るようになり昨日はわが家族にとってはうれしい事があった。それは怜君が弓道の試験で3段に合格したという知らせ。

ある面、いまどきの日本人よりもなんいろいろと日本について学び、知っている 娘婿怜君の快挙を私はラインで祝福した。

娘が結婚したことで、こんなにも感じのいい息子が突然できるなんてまさに親ばかならではである。

先週帰省していたばかりなのに、木曜日も水島の仕事で急きょ岡山に帰ってきていて、カルチャーセンターでのレッスンを終えた私と待ち合わせ、二人で遅い夕食をしたのだが、待ち合わせまでのわずかな時間、彼は岡山の徳山道場で稽古をしていた。

その努力が実ったのだ。まあ何事についても言えることだが、苦楽を楽しむくらいの努力を積み重ねないと、体の芯からの光は射さないということではないだろうかと、小生は考える。

私などはあらゆることに努力が足りず、気づくのもおそく、怠惰でのんきな体質をときに持て余しながら、いまも反省しながらなんとか日々を過ごしているという塩梅なのだから。

努力というといかめしいが、集中と弛緩の繰り返しのなかでしか無の境地には至れないし、そこまで持ってゆくには普段の稽古しかない、というのが現時点での私の考え。

これは声を出して読むことにも通じるが、繰り返すことの中からしか新しい声は生まれないのである。
我が家の台所でくつろぐ妻と怜君

日々生きなおしながら、新陳代謝しながら 、単純にシンプルにと、漸くにしてそ私も還暦を超えたころから、身体が動かなくなるにつれて、動けることや声が出せるあらゆることが実は当たり前ではないのだという気づきが深まってきた。

だから、気づいた今ならできそうな気がしているから(確実にできなくなる) 無謀を承知で間違いの喜劇を全幕読んで遊ぶのである。

人間は間違う、だからこそ素晴らしいのだとの側で私は生きたいのだ。血と肉のなかで永遠に彷徨うのが、人間の業。ならばその業を背負って生きるしかない、とぼとぼよたよたでいいのだ。

シェイクスピアはこの世は舞台だといっているが、まったく同感。この世の片隅で、雨上がりの日曜日の朝、他愛もない五十鈴川だよりを虚空にむかって書けるひととき、格別である。



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