8月31日は妻と出逢った日である。私が34歳、妻は26歳。おおよそ30年の歳月が流れたことになる。
いま、この一文を書きながら、やはりどうしてもいささかの感慨にとらわれる。そしてその思いは長女が結婚し、次女が就活をしている今、ようやく子供たちが巣立ってゆく時を迎え、ますます深まってゆく、といった次第である。
今この年齢になったればこそ臆面もなく、厚顔にも書けるのだが、この巡り合いがなかったらおそらく私は、当たり前だがまったく違った人生を歩んでいたにちがいない。
いまはまだ、本人に叱られそうだから書けないし、出会ったのがついこないだのような気がするくらいなので、もう少し枯れてからのこととしたいが、いつ何時、人生何が起こるかわからないので、書けるときにほんの少しでも、とおもうのだ。
いつも私の文章は即興的なので、あちらこちらするがお許しください。
私のこれまでの人生を大雑把にくくると、少年期から思春期はひたすら田舎で遊び夢を育み、青年期は都会で右往左往、人並みに煩悩的に恋と夢におぼれながら働き、妻と家庭を持って落ち着いてからは、ひたすら仕事をしながら家族と共に生き、そしてそれが終わり、芝居でいえば4幕、季節に例えるなら秋を迎えているといったところかもしれない。
このような心境での年齢を迎えられるなんて思いもしなかったが、人生これから先もまったく未知のゾーンなのである。心かけ次第、だからこそ面白いのだ、と私は考える。初めて経験できる世界を前向きに彩る。
何度も書いているが、ゆるやかに下ってゆくこれからを、せっかくの一度限りの人生、大切な人たちと共に、日々悔いなく送ってゆけたら 私にはほかには多く望むことはない。絶対矛盾を抱えながら、貧しくとも贅沢に生きる方法を考え続けたいと思う。
死というものを、どこか心の片隅に時折意識しながら生きるところに、感謝や生命の輝きを実感できる感性が培われてゆくのだと思える。
小学生低学年の頃、やがて死ぬのかと思うと恐ろしかったが、最近はちょっと違う。死はそんなに遠いところにあるものではなくいつも身近にあり、たまたま今日も無事に生きているのだという認識が私の中では深まっている。
死を身近に感じる感性はとくに大切だ、生と死はつながっている。だから、以前にもまして、歳を重ねるにしたがって生きていることに、平々凡々と生きられる今に感謝するようになってきた気がする。
人生をとも生きる伴侶としての妻に巡り合えた幸運は、私の場合たとえようもない。私にこれから先どのような人生時間が遺されているのか皆目わからないが、いよいよこれからは伴侶との時間を大切に過ごしたいとの思いが深まってゆく、秋を告げる雨の朝である。
2015-08-31
2015-08-30
【デモができる象徴的空間】の必要性を説く、木村幹氏の新聞記事に深く同意する。
昨日はデモに出かけるつもりだったのだが、9月の4日金曜日の夜、大阪は梅田での集会に行くことにした。
今日午後2時から、国会議事堂前では10万人規模の集会が、国会議事堂前では行われる予定だ。ゆきたかったが、これも致し方ない。ゆけずとも心は議事堂前に集結している人々とともにある。
新聞によると、若きSEALSの方たちのアクションに刺激された、海外に住む日本人たちの方々もオーバーシーズ(海の向こうデモ)なるアクションを起こしたという。
過激には程遠く、緩やかに柳に風と揺らぎながらも、ささやかにしっかりと根を張る アクションがしつこく展開され始めていることの中に、限りなく自由に身を置きたい、と初老の私も考える。
ネットでの呼びかけに、各々勝手に一人一人がアクションを起こす。そして責任を持って学び、考え節度をもって行動し意思を伝える。平和憲法あればこそである。
意外性のある多様な発想は、若い方々の特権であり、若い時にしかできないことがある、と小生は考える。
少々の社会的に許される範囲での無茶は、やれるときにやっておいた方がいいと私は思う。だが、あくまで責任は自分で負う。(のちのちあのときにやっていればなんてことは、大人の発言とは言えないし私は言いたくない)
オーバーではなく、体を張って何かを為せばきっと何かが、身体の奥深くからの返事が返ってくるものである。普段はボーっとしていても、いざというときには真剣にならなければ。
この夏、2回ほど国会議事堂前に 出かけたが、その経験はいい年齢の私の中にも、若々しいしばらく忘れていたかのような感覚を呼び覚ましてくれた。
ところで 2001年の同時多発テロ以降、私はもっとまじめに世界のことを知らないと、まずいという内なる反省が起き、それは緩やかに続いている。この15年間は、今もすごく時の流れを早く感じるが、反省のおかげで充実した生活が持続できている、ささやかな自覚がある。
さて、わずか1紙だが、新聞も読めるところから読み、定年退職後は時間も余裕ができたので、最近は書評以外にも、じっくりと読みたい記事なんかは切り抜いてから読み、これはという記事は(署名入りの)ノートに(娘たちがの使い古し、余白のあるノートも、もったいないので最近活用している)貼り付けている。
画面の文字は切り抜けないので、やはり私には3次元の新聞や本がいまはいい。でももっと歳をとって切り抜けなったら、文字を大きくできる電子書籍に移行するだろう、軽いし手軽に持ち運びできるから。
ところで、昨日の新聞に神戸大学の教授の木村幹氏が、家族と夏休み東京に行った際 、せっかくの機会なので、子供に日頃は見られないものを見せてやりたいと思って選んだのが、国会議事堂前で繰り広げられていた安保法制に反対するデモだった、とある。
将来、お子さんに政治について考えられる大人になってほしい、その機会として重要だとの親の思いである。こういう柔軟な思考の持ち主の親を持てた子供は幸せだと思う。
お子さんは、父親との国会議事堂前でのデモの記憶を、深く心に刻まれたにちがいない。私には男の子がいないから、うらやましい。
もし私に孫ができ たら、ちょっと記憶に残る体験を孫にはさせてやりたいと思わずにはいられない。話がそれた、木村さんはその記事の最後に、市民がデモを安心してできる【象徴的な空間としての広場】が必要だと述べておられる。
大賛成である。デモ隊の集結する場所は国会議事堂前の狭い歩道の中に制限されるので、人々が 道からあふれてしまい、ゆったりと歩くことさえかなわないのだ。
古代ギリシャには、アゴラと呼ばれる議論の空間 があり、民主主義はそこで育まれていったとある。
成熟した民主主義国家に、大規模な市民が安心して意志表示できるデモのための、(新国立競技場並みの広さがあればいい)大都市圏に数万人が集まれる公園があれば、もっと人々は安心して駆けつけることが可能だと私も思う。
市民が自由に議論、デモンストレーションできる場所と空間が地方にも必要だと 木村教授は述べている。自治体と市民団体協働での連携が必要だと。
今日午後2時から、国会議事堂前では10万人規模の集会が、国会議事堂前では行われる予定だ。ゆきたかったが、これも致し方ない。ゆけずとも心は議事堂前に集結している人々とともにある。
新聞によると、若きSEALSの方たちのアクションに刺激された、海外に住む日本人たちの方々もオーバーシーズ(海の向こうデモ)なるアクションを起こしたという。
過激には程遠く、緩やかに柳に風と揺らぎながらも、ささやかにしっかりと根を張る アクションがしつこく展開され始めていることの中に、限りなく自由に身を置きたい、と初老の私も考える。
ネットでの呼びかけに、各々勝手に一人一人がアクションを起こす。そして責任を持って学び、考え節度をもって行動し意思を伝える。平和憲法あればこそである。
意外性のある多様な発想は、若い方々の特権であり、若い時にしかできないことがある、と小生は考える。
少々の社会的に許される範囲での無茶は、やれるときにやっておいた方がいいと私は思う。だが、あくまで責任は自分で負う。(のちのちあのときにやっていればなんてことは、大人の発言とは言えないし私は言いたくない)
オーバーではなく、体を張って何かを為せばきっと何かが、身体の奥深くからの返事が返ってくるものである。普段はボーっとしていても、いざというときには真剣にならなければ。
この夏、2回ほど国会議事堂前に 出かけたが、その経験はいい年齢の私の中にも、若々しいしばらく忘れていたかのような感覚を呼び覚ましてくれた。
ところで 2001年の同時多発テロ以降、私はもっとまじめに世界のことを知らないと、まずいという内なる反省が起き、それは緩やかに続いている。この15年間は、今もすごく時の流れを早く感じるが、反省のおかげで充実した生活が持続できている、ささやかな自覚がある。
さて、わずか1紙だが、新聞も読めるところから読み、定年退職後は時間も余裕ができたので、最近は書評以外にも、じっくりと読みたい記事なんかは切り抜いてから読み、これはという記事は(署名入りの)ノートに(娘たちがの使い古し、余白のあるノートも、もったいないので最近活用している)貼り付けている。
画面の文字は切り抜けないので、やはり私には3次元の新聞や本がいまはいい。でももっと歳をとって切り抜けなったら、文字を大きくできる電子書籍に移行するだろう、軽いし手軽に持ち運びできるから。
ところで、昨日の新聞に神戸大学の教授の木村幹氏が、家族と夏休み東京に行った際 、せっかくの機会なので、子供に日頃は見られないものを見せてやりたいと思って選んだのが、国会議事堂前で繰り広げられていた安保法制に反対するデモだった、とある。
将来、お子さんに政治について考えられる大人になってほしい、その機会として重要だとの親の思いである。こういう柔軟な思考の持ち主の親を持てた子供は幸せだと思う。
お子さんは、父親との国会議事堂前でのデモの記憶を、深く心に刻まれたにちがいない。私には男の子がいないから、うらやましい。
もし私に孫ができ たら、ちょっと記憶に残る体験を孫にはさせてやりたいと思わずにはいられない。話がそれた、木村さんはその記事の最後に、市民がデモを安心してできる【象徴的な空間としての広場】が必要だと述べておられる。
大賛成である。デモ隊の集結する場所は国会議事堂前の狭い歩道の中に制限されるので、人々が 道からあふれてしまい、ゆったりと歩くことさえかなわないのだ。
古代ギリシャには、アゴラと呼ばれる議論の空間 があり、民主主義はそこで育まれていったとある。
成熟した民主主義国家に、大規模な市民が安心して意志表示できるデモのための、(新国立競技場並みの広さがあればいい)大都市圏に数万人が集まれる公園があれば、もっと人々は安心して駆けつけることが可能だと私も思う。
市民が自由に議論、デモンストレーションできる場所と空間が地方にも必要だと 木村教授は述べている。自治体と市民団体協働での連携が必要だと。
2015-08-29
自分という小さき器で虚心に学び続ける。
起きてから残り湯を浴び、前日の新聞をゆっくりとよんだ。私の場合は何事も体が純粋な時間帯に、特に読み書きはしないと駄目である。
文字を書いたり、読んだりすると私の場合はかなり脳の奥底の想像力が刺激されるような気がしている。
若い頃、読んだり書いたりすることがあれほど苦手であった自分なのだが、どういうわけでこういう自分が育ってきたのかが、判然とはわからない。
ただ若い頃に、特にロンドンで異国体験をしたことで、自分を否応なく客観的に眺めざるを得なくなった事実にすべては起因しているのだと、この年齢になってみて思い知らされる。
もしあの時、何かに突き動かされて海外に出ることがなかったら、きっとこんなにも書いたり読んだりする自分は決して生まれなかったことは断言できる。
小さき自分の中の可能性をささやかに掘り続けてゆくことが、実はかなり面白いことなのだという気づき、実感を与えてくれたのが、初めての海外英国 体験であったのだ。
そしてわたくしごとき、知れば知るほどにこの世は混沌としてきて、真実は限りなくかなたに存在しているのではないかという茫漠的な思いにとらわれる。
真実は、もつれた糸のように複雑怪奇面妖な歴史の上に、私の眼の前に広大無辺無味乾燥な砂漠のように在る、とときに新聞を読んで思うのだ。
さて、M新聞の記者の目という署名入り、伊藤和史記者の一文を(戦後70年歴史に向き合う経験)読んで、しかりとうなずき切り抜いた。
末尾にこうある、歴史を知るとは過去を知り、つまりは自分の今の成り立ちを知り、自分の位置を確かめること。誤った事実を叫んだり、自分に有利な話を探してつまみ食いしたるする場が歴史ではない、と。
そのためには、虚心に学び続ける以外にないと締めくくられる、同感だ。不都合な真実に向き合う以外に、半永久的に幸福な未来時間は人類には訪れない。つたなき一文を書きながら、だからこそ知性、勇気が私には必要だ。
読み書き、時にいまだなにかに突き動かされて行動する。 心ある少数者、先人たちはすべて私のお手本、先生である。
新聞、特に戦後70年の今年、戦争体験者の方々の、今わの際の声(今まで語らなかった)が紙上に多く寄せられたことを、私は私なりに受け止めた。戦争と平和。
想像力全開で、戦争の愚には何としても 異を唱えないと、戦後民主主義教育を受けた私としては納得がゆかないのだ。なんとも穏やかな朝のひと時は、忽然と生まれたものではない。先人たちの血の上に築かれた、尊いというしかない平和。
いきなりだが、セバスチャンサルガドの【人間の労働・大地】という写真集は、限りなく人間への尊厳、人間への賛歌を啓示する。
狭い範囲での愛国者の妄言、妄想的、空疎な言論に惑わされてはならない。あらゆる心からの表現活動、文化芸術、スポーツ、すべて私に働きかけてくる今を生きる感動は、ちゃちな愛国者精神などを遠くはるかに超える、何かだ。
人類は同じルーツから出発し、国などという概念が出来上がってくる太古の世界ではつながっていた。どうしてかくも人類はバラバラになり武器と武器で衝突するようになったのか。知らないことの罪と罰。
再びいきなり、ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟という小説の中で、【大地にひれ伏し、大地に口づけすることを愛しなさい 】とゾシマ長老に言わせているそうだ。竹韻庵で一人、大地にたたずむ。
ドストエフスキーを全訳している亀山郁夫先生は、この言葉を引用し、おごりを捨てて正直になることに救いを見出し、救いを求める心こそが生命力の証だと述べておられる。
文字を書いたり、読んだりすると私の場合はかなり脳の奥底の想像力が刺激されるような気がしている。
若い頃、読んだり書いたりすることがあれほど苦手であった自分なのだが、どういうわけでこういう自分が育ってきたのかが、判然とはわからない。
ただ若い頃に、特にロンドンで異国体験をしたことで、自分を否応なく客観的に眺めざるを得なくなった事実にすべては起因しているのだと、この年齢になってみて思い知らされる。
もしあの時、何かに突き動かされて海外に出ることがなかったら、きっとこんなにも書いたり読んだりする自分は決して生まれなかったことは断言できる。
小さき自分の中の可能性をささやかに掘り続けてゆくことが、実はかなり面白いことなのだという気づき、実感を与えてくれたのが、初めての海外英国 体験であったのだ。
そしてわたくしごとき、知れば知るほどにこの世は混沌としてきて、真実は限りなくかなたに存在しているのではないかという茫漠的な思いにとらわれる。
真実は、もつれた糸のように複雑怪奇面妖な歴史の上に、私の眼の前に広大無辺無味乾燥な砂漠のように在る、とときに新聞を読んで思うのだ。
さて、M新聞の記者の目という署名入り、伊藤和史記者の一文を(戦後70年歴史に向き合う経験)読んで、しかりとうなずき切り抜いた。
末尾にこうある、歴史を知るとは過去を知り、つまりは自分の今の成り立ちを知り、自分の位置を確かめること。誤った事実を叫んだり、自分に有利な話を探してつまみ食いしたるする場が歴史ではない、と。
そのためには、虚心に学び続ける以外にないと締めくくられる、同感だ。不都合な真実に向き合う以外に、半永久的に幸福な未来時間は人類には訪れない。つたなき一文を書きながら、だからこそ知性、勇気が私には必要だ。
読み書き、時にいまだなにかに突き動かされて行動する。 心ある少数者、先人たちはすべて私のお手本、先生である。
新聞、特に戦後70年の今年、戦争体験者の方々の、今わの際の声(今まで語らなかった)が紙上に多く寄せられたことを、私は私なりに受け止めた。戦争と平和。
想像力全開で、戦争の愚には何としても 異を唱えないと、戦後民主主義教育を受けた私としては納得がゆかないのだ。なんとも穏やかな朝のひと時は、忽然と生まれたものではない。先人たちの血の上に築かれた、尊いというしかない平和。
いきなりだが、セバスチャンサルガドの【人間の労働・大地】という写真集は、限りなく人間への尊厳、人間への賛歌を啓示する。
狭い範囲での愛国者の妄言、妄想的、空疎な言論に惑わされてはならない。あらゆる心からの表現活動、文化芸術、スポーツ、すべて私に働きかけてくる今を生きる感動は、ちゃちな愛国者精神などを遠くはるかに超える、何かだ。
人類は同じルーツから出発し、国などという概念が出来上がってくる太古の世界ではつながっていた。どうしてかくも人類はバラバラになり武器と武器で衝突するようになったのか。知らないことの罪と罰。
再びいきなり、ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟という小説の中で、【大地にひれ伏し、大地に口づけすることを愛しなさい 】とゾシマ長老に言わせているそうだ。竹韻庵で一人、大地にたたずむ。
ドストエフスキーを全訳している亀山郁夫先生は、この言葉を引用し、おごりを捨てて正直になることに救いを見出し、救いを求める心こそが生命力の証だと述べておられる。
2015-08-25
今週は、国会議事堂前ではなく関西圏のデモに行くことにしました。
5月、長女の日本での結婚披露宴を終えてから、6月、7月、そして8月と、何か自分を叱咤激励(いまもそうだが)しているかのように、歳も顧みずあちらこちらと動き回った感のある、今年の夏である。(まだ終わってはいないが)
今日は台風のため竹韻庵に行くこともなく、ゆったりと文章が書き進められる。静と動を繰り返しながら日々を新たに生きられる現在を、つましく感謝する。
何事もすべてはバランス、よく働き体全体を動かしよく休み考える。私はプロではないので、つたない文章でも自分で自分の意識を折紡ぐよう集中しないと、書く気が起きない。
さて、週末国会議事堂前に出かけたかったのだが、妻と娘の忠告を受け入れゆくことはよすことにした。心も含め万全の体調でないと長旅でのデモンストレーションは、あとあとにこたえる。先は長いのだ。
だからといって、 デモにゆかないわけではない。京都か、神戸か大阪いずれかのデモに日帰りで参加するつもりである。
在来線のなかで、往復本を読みながら(違憲を唱えた憲法学者の)ちょっと遠くのデモに出かける、なんてのも私なりの遊び心の横溢である。遊び心でデモなんていうと真面目な人たちから不謹慎のそしりを受けそうだが、私自身は大まじめだ。
私も含めて、日本人には個人主義が根付いておらず、堂々と意思表示せず。人の顔色を窺う体質がいまだ、はなはだ強いが、デモの参加者の意識が(物見遊山でまったく構わないと思う)徐々にゆったりと変容しているかのように、私は感じている。
これまではデモに参加しなかったかのような、きわめて普通の私も含めたおじさん、主婦の方とかが、お嬢さんと参加していたり、老若男女が組織とかではなく、自由意思で参加されているのを、現場で私は感じる。
一気には何事も変わらないが、ゆるやかに緩やかに、何かが変わり始めているのを感じる。私自身は群れるのが大の苦手なのだが、小さき生き物、社会的弱者は連帯して、大きな権力に意思表示しないと、長いものまかれてしまう。希望は自分の中にこそ見つけるものだ。
責任を持って、自分の頭で考え、自分の足でもって行動し意思表示できるなんて幸せなことではないか。異なる意見も聞き、なるほどと思えば反省する勇気を持ち、絶えず自分自身デモの渦中でも冷静さを失わないように心かける。
なぜなら、絶対的な善はなく、人間という動物は絶対的に間違うという生き物であるという認識の側に私は立つ。自分を過信せずこれでいいのかいけないのか疑いつつ、行動するしかない。
考え、行動し、反省する中でしか民主主義は(腐敗する)成熟しないという側に、今私は立つ。賛成の側の人たちの意見にも耳を閉じることはしたくない。状況が変わればまた考えも変わるかもしれないが、とにかく今回拙速に法案を決めることに関してはノーである。無関心がもっともいけない。
この間の国会議事堂前のデモで、集会が終わり帰るときに、どこかの団体が参加者に冷たい水を紙コップでふるまっていた。成熟した市民たちが出現している。私もいただいたが、夏の夜のうだる暑さの中、その一杯の水のおいしさは格別だった。暗闇の中での思いやりと無意識の連帯。
私が辺野古に出かけたり、国会議事堂前に出かけたりするのにはほとんど理由はない。個人で現場にゆくことでしか見えてこない感じられない、見知らぬ他者に教えられることがあるのだ。大声あげて叫ぶのではなく、あえて沈黙の意思表示を私は個人でしているだけである。
群れてはいるが、やわな意識で群れているのではないのだ。おのおの汗を流しエネルギーを使ってあらゆるところから集結して、与えられた大切というしかない表現の自由を示しているだけなのである。
いろんな考えの方々が、同じ時間同じ場所で意思表示する。 家の中で、安全な場所で、沈黙していたのでは何も変わらない。あくまでも冷静に、しかし熱く表現しないと、どこか悔いが残る。
安倍総理は、これからも平和国家として国際的に貢献してゆくとおっしゃるが、この道しかないという短絡的なこれまでの軍事にのみ頼る抑止力ではなく、あるいはもっと世界から尊敬され、理解される方法もあるのではないかという、画期的な多元的な知性あふるる法案が、廃案にしたのち出てくるような、国会審議であってほしいと願うのは、単なる絵空事なのであろうか。
国会議事堂前に集結し声を上げた人々のドキュメンタリー映画を、社会学者の小熊英二(字が間違っていたらごめんなさい) さんが撮られたという、ぜひ見てみたい。
今日は台風のため竹韻庵に行くこともなく、ゆったりと文章が書き進められる。静と動を繰り返しながら日々を新たに生きられる現在を、つましく感謝する。
何事もすべてはバランス、よく働き体全体を動かしよく休み考える。私はプロではないので、つたない文章でも自分で自分の意識を折紡ぐよう集中しないと、書く気が起きない。
さて、週末国会議事堂前に出かけたかったのだが、妻と娘の忠告を受け入れゆくことはよすことにした。心も含め万全の体調でないと長旅でのデモンストレーションは、あとあとにこたえる。先は長いのだ。
だからといって、 デモにゆかないわけではない。京都か、神戸か大阪いずれかのデモに日帰りで参加するつもりである。
在来線のなかで、往復本を読みながら(違憲を唱えた憲法学者の)ちょっと遠くのデモに出かける、なんてのも私なりの遊び心の横溢である。遊び心でデモなんていうと真面目な人たちから不謹慎のそしりを受けそうだが、私自身は大まじめだ。
私も含めて、日本人には個人主義が根付いておらず、堂々と意思表示せず。人の顔色を窺う体質がいまだ、はなはだ強いが、デモの参加者の意識が(物見遊山でまったく構わないと思う)徐々にゆったりと変容しているかのように、私は感じている。
これまではデモに参加しなかったかのような、きわめて普通の私も含めたおじさん、主婦の方とかが、お嬢さんと参加していたり、老若男女が組織とかではなく、自由意思で参加されているのを、現場で私は感じる。
一気には何事も変わらないが、ゆるやかに緩やかに、何かが変わり始めているのを感じる。私自身は群れるのが大の苦手なのだが、小さき生き物、社会的弱者は連帯して、大きな権力に意思表示しないと、長いものまかれてしまう。希望は自分の中にこそ見つけるものだ。
責任を持って、自分の頭で考え、自分の足でもって行動し意思表示できるなんて幸せなことではないか。異なる意見も聞き、なるほどと思えば反省する勇気を持ち、絶えず自分自身デモの渦中でも冷静さを失わないように心かける。
なぜなら、絶対的な善はなく、人間という動物は絶対的に間違うという生き物であるという認識の側に私は立つ。自分を過信せずこれでいいのかいけないのか疑いつつ、行動するしかない。
考え、行動し、反省する中でしか民主主義は(腐敗する)成熟しないという側に、今私は立つ。賛成の側の人たちの意見にも耳を閉じることはしたくない。状況が変わればまた考えも変わるかもしれないが、とにかく今回拙速に法案を決めることに関してはノーである。無関心がもっともいけない。
この間の国会議事堂前のデモで、集会が終わり帰るときに、どこかの団体が参加者に冷たい水を紙コップでふるまっていた。成熟した市民たちが出現している。私もいただいたが、夏の夜のうだる暑さの中、その一杯の水のおいしさは格別だった。暗闇の中での思いやりと無意識の連帯。
私が辺野古に出かけたり、国会議事堂前に出かけたりするのにはほとんど理由はない。個人で現場にゆくことでしか見えてこない感じられない、見知らぬ他者に教えられることがあるのだ。大声あげて叫ぶのではなく、あえて沈黙の意思表示を私は個人でしているだけである。
群れてはいるが、やわな意識で群れているのではないのだ。おのおの汗を流しエネルギーを使ってあらゆるところから集結して、与えられた大切というしかない表現の自由を示しているだけなのである。
いろんな考えの方々が、同じ時間同じ場所で意思表示する。 家の中で、安全な場所で、沈黙していたのでは何も変わらない。あくまでも冷静に、しかし熱く表現しないと、どこか悔いが残る。
安倍総理は、これからも平和国家として国際的に貢献してゆくとおっしゃるが、この道しかないという短絡的なこれまでの軍事にのみ頼る抑止力ではなく、あるいはもっと世界から尊敬され、理解される方法もあるのではないかという、画期的な多元的な知性あふるる法案が、廃案にしたのち出てくるような、国会審議であってほしいと願うのは、単なる絵空事なのであろうか。
国会議事堂前に集結し声を上げた人々のドキュメンタリー映画を、社会学者の小熊英二(字が間違っていたらごめんなさい) さんが撮られたという、ぜひ見てみたい。
2015-08-24
中森明夫氏の【又吉直樹と戦時下の文学】の一文を読んで思う。
ほとんど小説を読まない私が、5月大阪岡山往復の在来線の中で一気に読んだ火花という小説が芥川賞をとり、200万部以上、異例の売れ行きだという。
読んだ当時はこんなにも騒がれ、賞を取り、売れるなんて予想もしなかったが、個人的にはなはだ面白く読み、ブログにも書いた記憶がある。
なぜ普段読まない小説を私が読んだのかは判然としない。ピース(平和)という芸名のコンビの芸も見たことはないのに、たまたま又吉さんがNHKの朝の番組に出ていたのを見て、その話しぶりとたたずまいが強く私の印象に残ったのだ。紹介されていたその火花という小説を読みたくなった。
ところで、コラムニストの中森明夫氏がM新聞の日本への発言という月一回のコラムで、【又吉直樹と戦時下の文学】という文章を書いている。
この文章が実に読ませる。戦後70年の節目、安全保障法案が衆議院を通過した翌日に又吉さんが芥川を受賞した。
又吉さんが最も尊敬する作家は太宰治で、人間失格は100回以上読んだというくらいの早熟な文学少年だった。太宰治は第一回の芥川賞の候補であり、川端康成ら選考委員に賞を懇願する手紙を書いたそうだが、賞は得られなかった。
太宰が文学者として創作活動を行ったのは、昭和8年の【思いで】から昭和23年の【グッド・バイ】にいたるわずか15年間。この15年間は、太平洋戦争を中心とする激動の時期、もっとも困難な悪しき時代であったという、評論家奥野健男の一文を中森氏が引用している。太宰治は戦時下の作家であったと。
続いて、アメリカの作家カート・ヴォネガットは、作家とは 炭鉱のカナリアである、誰よりも敏感で危険を(ガスを)察知して死んでしまう社会の警報装置だとの言葉も。
火花が掲載された文芸誌は、昭和8年に小林秀雄が中心になって創刊された雑誌で、5年後掲載作品石川淳の【マルスの歌】が発禁になり、罰金を肩代わりにして発行元として引き取ったのが当時の文芸春秋社主・菊池寛であった、とある。そして、この2年後の昭和10年菊池寛は芥川賞と直木賞を創始する。
芥川龍之介が服毒自殺したのは昭和2年、(将来に対するただぼんやりとした不安)のためという遺書を遺しているという。不安は作家個人ののものではなく、その後の日本の経路を思えば芥川もまた炭鉱のカナリアであったと、中森氏は書いている。
今後又吉直樹さんが(氏のルーツは沖縄)どのような作品を書かれるのか実に興味が湧いてくる。玉川上水で心中死した太宰治の読んだこともない戦時下の作品群を私は読みたくなった。
演劇や文学は時代背景とは切り離せない、まさに時代の深層を映す鏡である。知ることからしか現在はは垣間見えない。
読んだ当時はこんなにも騒がれ、賞を取り、売れるなんて予想もしなかったが、個人的にはなはだ面白く読み、ブログにも書いた記憶がある。
なぜ普段読まない小説を私が読んだのかは判然としない。ピース(平和)という芸名のコンビの芸も見たことはないのに、たまたま又吉さんがNHKの朝の番組に出ていたのを見て、その話しぶりとたたずまいが強く私の印象に残ったのだ。紹介されていたその火花という小説を読みたくなった。
ところで、コラムニストの中森明夫氏がM新聞の日本への発言という月一回のコラムで、【又吉直樹と戦時下の文学】という文章を書いている。
この文章が実に読ませる。戦後70年の節目、安全保障法案が衆議院を通過した翌日に又吉さんが芥川を受賞した。
又吉さんが最も尊敬する作家は太宰治で、人間失格は100回以上読んだというくらいの早熟な文学少年だった。太宰治は第一回の芥川賞の候補であり、川端康成ら選考委員に賞を懇願する手紙を書いたそうだが、賞は得られなかった。
太宰が文学者として創作活動を行ったのは、昭和8年の【思いで】から昭和23年の【グッド・バイ】にいたるわずか15年間。この15年間は、太平洋戦争を中心とする激動の時期、もっとも困難な悪しき時代であったという、評論家奥野健男の一文を中森氏が引用している。太宰治は戦時下の作家であったと。
続いて、アメリカの作家カート・ヴォネガットは、作家とは 炭鉱のカナリアである、誰よりも敏感で危険を(ガスを)察知して死んでしまう社会の警報装置だとの言葉も。
火花が掲載された文芸誌は、昭和8年に小林秀雄が中心になって創刊された雑誌で、5年後掲載作品石川淳の【マルスの歌】が発禁になり、罰金を肩代わりにして発行元として引き取ったのが当時の文芸春秋社主・菊池寛であった、とある。そして、この2年後の昭和10年菊池寛は芥川賞と直木賞を創始する。
芥川龍之介が服毒自殺したのは昭和2年、(将来に対するただぼんやりとした不安)のためという遺書を遺しているという。不安は作家個人ののものではなく、その後の日本の経路を思えば芥川もまた炭鉱のカナリアであったと、中森氏は書いている。
今後又吉直樹さんが(氏のルーツは沖縄)どのような作品を書かれるのか実に興味が湧いてくる。玉川上水で心中死した太宰治の読んだこともない戦時下の作品群を私は読みたくなった。
演劇や文学は時代背景とは切り離せない、まさに時代の深層を映す鏡である。知ることからしか現在はは垣間見えない。
2015-08-23
ささやかに知る、学ぶを、カタツムリのように繰り返す夏の終わり。
再三、私は自分の無知蒙昧さを、五十鈴川だよりで書いているが、ついでというわけではないが思慮の足りなさ、浅薄さもいまだ十分に感じてはいる。
いきなりこんな書き出しでは、自分が何を書きたいのかが判然としないのだが、人間は自分でも制御しきれない想いとか,曰はく言い難い感情に突き動かされたりもする、生き物である。
なぜ、自分がそういう行動をしてしまうのか、またあらゆることに自分の場合いえるのだが、うまく説明できないジレンマに陥る。なぜ、10年以上気になった書評を切り抜いて、手間暇かけてノートに糊で張ったりするのか、よく考えると自分でもよくはわからない。
ブログだってそうだ、好きだから、自己満足だからとか書いているが、よくははわからないのである。なぜ声を出すのか、旅に出かけるのか、山に登るのかとか、あらゆる好きなことを訊かれても、その理由を言葉で明快に説明するのは、哲学的な領域に踏み入らないと無理である。
人間は限りなく自己主張し、自分を正当化し安心する生き物であるということを、自分でも 強く認識している。でも、大人ならば懐疑的に物事を多面的に思考する勇気がないとまずいと思う。
なぜか仮想敵を想定し、自分たちの側が絶対的に正しいと信じて疑わなくなってしまいがちになる。果たして自分たちは正しいのかと、ちょっとは立ち止まりながら考えられるくらいのゆとりなきリーダーにこの国のかじ取りを任せるのには、はなはだの不安を私は直観的に覚える。
私の漠然とした不安が杞憂で終わることを私は心から望む。6月、7月、と国会議事堂前に私は、物見遊山的範囲で、安全保障法案に異議を唱える多くの人々の中の一人として参加した。
そして、八月最後の金曜日揺らぎながら、出かけようか、出かけるのを控えるのか、初老の私は、ハムレットのような心境である。
話は変わる。昨日夕方雑誌を買いに岡山の書店に出かけた。戦後70年を特集している雑誌を買った。ダカーポの特集と、音楽評論家の渋谷陽一氏が責任編集しているSIGHT、と中央公論の3冊。
中央公論に五木寛之さんと社会学者の古市憲寿(のりとし)さんが、50歳の歳の差を感じさせない、若々しい対談が掲載されていてすぐ読んだのだが実に面白く、うーんと唸った。
古市憲寿 さんという社会学者の存在も対談で初めて知ったが、あきらかに優れた今の感性世代が出てきているのを知らされた。それにしても私よりも20歳年上の五木寛之氏の感性のアンテナの若々しさ、思考のしなやかさには恐れ入った。(なぜあのようなしなやかな思考が可能なのか)
老いるのは自然の摂理だが、思考までが柔軟なさを欠いてしまう年配の方々が増えているように思えてならない(自分も含めて)。(五木さんの若々しさは一日にしてならずであるのは言わずもがな)
若くても、離党した、それこそ自己本位、利己丸出し本末転倒武藤議員のような鼻持ちならない輩もいるし、要は年齢ではなく、外見でもなく老いも若きも中身なのだということは、自明の理なのだが、あまりの国の行く末を左右する国会議員のレベルの低さには言葉を失う。
SIGHTという雑誌では、魅力的な識者が読むに値する論を展開し思考の浅い私にいろんな考えを示唆してくれる。やはり虚心に学ぶ、感じるということがいかに大切なことであるかを知らされる。ちょっと油断すると鏡は曇る。あきらめては脳も開花しない。
それにしても、自分を磨くことも反省することも知る謙虚さも学ぶことももなく、他者の痛みを想像することもなく臆面もなく 議員(権力にしがみつく議員のなんと多いこと)が続けられていることが、私は理解できない。
(作家であり臨済宗住職である玄侑宗久さんが、政党政治の危機を福島での佐藤優さんとの対談で述べられていたが、はなはだ個人的にいまの政治家には失望感を禁じ得ない)
立憲主義を(何のために憲法をいただいているのか国の根幹が崩れる)、一方的に一内閣で勝手に解釈 変更したりする今の暴走内閣には個人的に異議を唱え続けるしかない。
集団的自衛権はじめ、憲法改正、国の大事は国民上げての大きな情熱のなかで、ゆっくりと議論熟慮されたのちでないと無知な私は納得がゆかない。
いきなりこんな書き出しでは、自分が何を書きたいのかが判然としないのだが、人間は自分でも制御しきれない想いとか,曰はく言い難い感情に突き動かされたりもする、生き物である。
なぜ、自分がそういう行動をしてしまうのか、またあらゆることに自分の場合いえるのだが、うまく説明できないジレンマに陥る。なぜ、10年以上気になった書評を切り抜いて、手間暇かけてノートに糊で張ったりするのか、よく考えると自分でもよくはわからない。
ブログだってそうだ、好きだから、自己満足だからとか書いているが、よくははわからないのである。なぜ声を出すのか、旅に出かけるのか、山に登るのかとか、あらゆる好きなことを訊かれても、その理由を言葉で明快に説明するのは、哲学的な領域に踏み入らないと無理である。
人間は限りなく自己主張し、自分を正当化し安心する生き物であるということを、自分でも 強く認識している。でも、大人ならば懐疑的に物事を多面的に思考する勇気がないとまずいと思う。
なぜか仮想敵を想定し、自分たちの側が絶対的に正しいと信じて疑わなくなってしまいがちになる。果たして自分たちは正しいのかと、ちょっとは立ち止まりながら考えられるくらいのゆとりなきリーダーにこの国のかじ取りを任せるのには、はなはだの不安を私は直観的に覚える。
私の漠然とした不安が杞憂で終わることを私は心から望む。6月、7月、と国会議事堂前に私は、物見遊山的範囲で、安全保障法案に異議を唱える多くの人々の中の一人として参加した。
そして、八月最後の金曜日揺らぎながら、出かけようか、出かけるのを控えるのか、初老の私は、ハムレットのような心境である。
話は変わる。昨日夕方雑誌を買いに岡山の書店に出かけた。戦後70年を特集している雑誌を買った。ダカーポの特集と、音楽評論家の渋谷陽一氏が責任編集しているSIGHT、と中央公論の3冊。
中央公論に五木寛之さんと社会学者の古市憲寿(のりとし)さんが、50歳の歳の差を感じさせない、若々しい対談が掲載されていてすぐ読んだのだが実に面白く、うーんと唸った。
古市憲寿 さんという社会学者の存在も対談で初めて知ったが、あきらかに優れた今の感性世代が出てきているのを知らされた。それにしても私よりも20歳年上の五木寛之氏の感性のアンテナの若々しさ、思考のしなやかさには恐れ入った。(なぜあのようなしなやかな思考が可能なのか)
老いるのは自然の摂理だが、思考までが柔軟なさを欠いてしまう年配の方々が増えているように思えてならない(自分も含めて)。(五木さんの若々しさは一日にしてならずであるのは言わずもがな)
若くても、離党した、それこそ自己本位、利己丸出し本末転倒武藤議員のような鼻持ちならない輩もいるし、要は年齢ではなく、外見でもなく老いも若きも中身なのだということは、自明の理なのだが、あまりの国の行く末を左右する国会議員のレベルの低さには言葉を失う。
SIGHTという雑誌では、魅力的な識者が読むに値する論を展開し思考の浅い私にいろんな考えを示唆してくれる。やはり虚心に学ぶ、感じるということがいかに大切なことであるかを知らされる。ちょっと油断すると鏡は曇る。あきらめては脳も開花しない。
それにしても、自分を磨くことも反省することも知る謙虚さも学ぶことももなく、他者の痛みを想像することもなく臆面もなく 議員(権力にしがみつく議員のなんと多いこと)が続けられていることが、私は理解できない。
(作家であり臨済宗住職である玄侑宗久さんが、政党政治の危機を福島での佐藤優さんとの対談で述べられていたが、はなはだ個人的にいまの政治家には失望感を禁じ得ない)
立憲主義を(何のために憲法をいただいているのか国の根幹が崩れる)、一方的に一内閣で勝手に解釈 変更したりする今の暴走内閣には個人的に異議を唱え続けるしかない。
集団的自衛権はじめ、憲法改正、国の大事は国民上げての大きな情熱のなかで、ゆっくりと議論熟慮されたのちでないと無知な私は納得がゆかない。
2015-08-20
佐藤優著【知の教室】を読む。
以前、佐藤優さんのことを勝手に先生だと思っていると書いた記憶がある。初めて氏の本を読んだのは【国家の罠】だからもう10年以上も前のことになる。
10年以上前といえば、まだ私は遠距離通勤しながら普通に忙しく働いていたし、落ち着いてじっくりと本を読むなんて暮らしもまだまだできなかった頃に、佐藤優さんの本が私に与えた影響は、やはり大きいと、いまあらためて感じる。
外務省をやめられて、作家として再出発してから今年で丸10年になるという。この間の氏の書かれた著作の数はいったいかほ どの冊数になるのかは見当もつかないが、ただただ半ばあきれ、多面的な左右なんて概念を軽々と飛び越える仕事ぶりには驚かされる。天才的。
氏が国策捜査で逮捕勾留されなければ、ひょっとして佐藤優という稀な作家は誕生しなかったのかもしれないと考えると、まさに神のみがつかさどるこの世の有為転変の流れというしかない。
たまりにたまった火山が爆発したかのような仕事ぶりというしかないし、時代の寵児のように氏に仕事を頼む編集者がひきも切らないということは、何故か?
まさに時代が氏の著作を求め、支持する読者層が増えているということなのだと思う。私もまたその中の一人ということだと思う。
一見簡単に読める対談集から、読んだこともない本(哲学書、宗教書,はじめ多岐の分野の)がわんさか出てくるちょっと難解なまさに佐藤優 を佐藤優ならしめている知の世界の豊饒さが私を、先生といわしむるのである。(キリスト教神学を大学から学び続けている氏は、ある種どこか超越した世界に到達していると、私は感じる)
このような先生がいたらなあ、と自分の年齢を忘れて思わせられるほどに魅力的だ。読んだこともない未知の本が次々と出てきても(出てくるから)氏の本は私には面白い。
キリスト教神学という学問があることすら私は知らなかった。氏はわくわくするくらい未知の世界の扉を開いてくれる。目先の効率的勉強(それはそれで認めてはいる)などには目もくれない。
勝手に私が思うには、氏は自分の頭できちんと読みこなして、自分の文体、(読者層によって文体を変えている)言葉にしているからこそ、つまり言葉に真摯さが満ちあふれているから心に響くのではではないかと。硬軟併せのむ愛と寛容の純粋性。
知的教養のない私が、(心から私はそう思っている)かってに先生としてわずかでも独学するには、とくに読んだこともない分野の、苦手な本を読んでみたいと思わせられる未知の世界の水先案内人としては、氏はまさにこれから先を生きる上で、最適の信頼できる人である。
私の読書は偏っているという自覚があるが、これから少なくなる人生時間の限られた読書j時間は、読んだことのない分野の本を読み、繰り返し読みたくなる本に囲まれて、生きたいとと願う。
ところで10代の終わり世の中にでて数年間、私は五木寛之さんのエッセイ、ゴキブリの歌とか風に吹かれてに、かなり影響を受けた。世界中のアウトロウ、難民デラシネに対する思いも。私が初めての海外放浪留学から1978年、12月、モスクワ鉄道で帰ってきたのは、霧のナホトカ航路の影響だ。
そしていま、この10年近く最も読んでいる作家のひとり佐藤優さんと五木寛之さんが期せずして対談している新書版の本が出た。なぜこの二人がいま対談するのかが、読んでみてすぐ腑に落ちた。
体験感性の作家とこれまた体験論理力の作家の世代を超えたやりとり、謙虚にお互いを認め合っての知的刺激に満ちた対談は、簡単に読めるが、その知的胆力視野の深さ広さは、両者とも遠く日本列島を離れた地点から、世界の行く末を見据えている。
親子ほど年齢が離れているが、博覧強記の55歳の佐藤さんに語り掛ける82歳の五木さんも時に青年に還る若々しさ、そして頼もしく慈愛に満ちた言葉をあとがきでお書きになっている。
佐藤優さんも対談のはじめ、先輩の五木さんにお会いできて光栄ですと語り掛ける。すがすがしい対談集だ。そしてその内容は驚きに満ち、あらためて自分の無知蒙昧を知らされる。
佐藤氏は、今の日本人の責任世代の知的教養の、先進国のなかでのあまりの低さを、深刻に憂いておられる。政治家、官僚、経財界人、教育界含めたあらゆる大切な、国の根幹を担う分野の人材の欠如に。
この国の一人の民として、かすかにではあれ、本物のインテリと思える信頼できる方たちから素直に学びたい。
10年以上前といえば、まだ私は遠距離通勤しながら普通に忙しく働いていたし、落ち着いてじっくりと本を読むなんて暮らしもまだまだできなかった頃に、佐藤優さんの本が私に与えた影響は、やはり大きいと、いまあらためて感じる。
外務省をやめられて、作家として再出発してから今年で丸10年になるという。この間の氏の書かれた著作の数はいったいかほ どの冊数になるのかは見当もつかないが、ただただ半ばあきれ、多面的な左右なんて概念を軽々と飛び越える仕事ぶりには驚かされる。天才的。
氏が国策捜査で逮捕勾留されなければ、ひょっとして佐藤優という稀な作家は誕生しなかったのかもしれないと考えると、まさに神のみがつかさどるこの世の有為転変の流れというしかない。
たまりにたまった火山が爆発したかのような仕事ぶりというしかないし、時代の寵児のように氏に仕事を頼む編集者がひきも切らないということは、何故か?
まさに時代が氏の著作を求め、支持する読者層が増えているということなのだと思う。私もまたその中の一人ということだと思う。
一見簡単に読める対談集から、読んだこともない本(哲学書、宗教書,はじめ多岐の分野の)がわんさか出てくるちょっと難解なまさに佐藤優 を佐藤優ならしめている知の世界の豊饒さが私を、先生といわしむるのである。(キリスト教神学を大学から学び続けている氏は、ある種どこか超越した世界に到達していると、私は感じる)
このような先生がいたらなあ、と自分の年齢を忘れて思わせられるほどに魅力的だ。読んだこともない未知の本が次々と出てきても(出てくるから)氏の本は私には面白い。
キリスト教神学という学問があることすら私は知らなかった。氏はわくわくするくらい未知の世界の扉を開いてくれる。目先の効率的勉強(それはそれで認めてはいる)などには目もくれない。
勝手に私が思うには、氏は自分の頭できちんと読みこなして、自分の文体、(読者層によって文体を変えている)言葉にしているからこそ、つまり言葉に真摯さが満ちあふれているから心に響くのではではないかと。硬軟併せのむ愛と寛容の純粋性。
知的教養のない私が、(心から私はそう思っている)かってに先生としてわずかでも独学するには、とくに読んだこともない分野の、苦手な本を読んでみたいと思わせられる未知の世界の水先案内人としては、氏はまさにこれから先を生きる上で、最適の信頼できる人である。
私の読書は偏っているという自覚があるが、これから少なくなる人生時間の限られた読書j時間は、読んだことのない分野の本を読み、繰り返し読みたくなる本に囲まれて、生きたいとと願う。
ところで10代の終わり世の中にでて数年間、私は五木寛之さんのエッセイ、ゴキブリの歌とか風に吹かれてに、かなり影響を受けた。世界中のアウトロウ、難民デラシネに対する思いも。私が初めての海外放浪留学から1978年、12月、モスクワ鉄道で帰ってきたのは、霧のナホトカ航路の影響だ。
そしていま、この10年近く最も読んでいる作家のひとり佐藤優さんと五木寛之さんが期せずして対談している新書版の本が出た。なぜこの二人がいま対談するのかが、読んでみてすぐ腑に落ちた。
体験感性の作家とこれまた体験論理力の作家の世代を超えたやりとり、謙虚にお互いを認め合っての知的刺激に満ちた対談は、簡単に読めるが、その知的胆力視野の深さ広さは、両者とも遠く日本列島を離れた地点から、世界の行く末を見据えている。
親子ほど年齢が離れているが、博覧強記の55歳の佐藤さんに語り掛ける82歳の五木さんも時に青年に還る若々しさ、そして頼もしく慈愛に満ちた言葉をあとがきでお書きになっている。
佐藤優さんも対談のはじめ、先輩の五木さんにお会いできて光栄ですと語り掛ける。すがすがしい対談集だ。そしてその内容は驚きに満ち、あらためて自分の無知蒙昧を知らされる。
佐藤氏は、今の日本人の責任世代の知的教養の、先進国のなかでのあまりの低さを、深刻に憂いておられる。政治家、官僚、経財界人、教育界含めたあらゆる大切な、国の根幹を担う分野の人材の欠如に。
この国の一人の民として、かすかにではあれ、本物のインテリと思える信頼できる方たちから素直に学びたい。
2015-08-17
お盆は連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇に出かけました。
お盆にはいると同時に、何やら急に涼しくなってきたような気がして少しほっとしています。お盆なのでじっとしていようと思ったのですが、結局は2日ほど大阪までめったに見るチャンスがないものを見に出かけました。
一つは生まれて初めて聞く詩の朗読会と、文学座公演のシェイクスピア作品、トロイラスとクレシダの舞台を見に。
まず詩の朗読会は、戦後70年の節目に、日本、韓国、中国の詩人が母語で連(歌のように)詩を読むという新聞記事を読み、何か気持ちが動いたので、気分転換がてらでかけたのです。
日中韓を代表する4人の詩人、四元康裕・MING DI(中国)・金惠順(キムへジュン)・谷川俊太郎(谷川さんは所用で来られず山田さんという方が代わりに朗読した)が、最初の方の書いた詩から、イメージを大胆に飛翔し新たな詩を限りなく即興に近い形で生み出してゆくという画期的な試み。
詳しくは記しませんが、【海】と【米】と【太陽】をテーマに4人の詩人が連詩を母語で詠まれるのを、生まれて初めて体感しました。大阪は谷町にある大阪文学学校(初めて知りました)という小さなビルの一部屋でその会は行われました。
参加者は関係者以外30人くらいでしたが、九州から来られている人もいました。私みたいな門外漢はおらずいかにも詩が大好きな方たち(言葉を大切にする)の集まりという雰囲気の会でした。
書いた本人がその場で母語で朗読するのを聴けるなんてことはそうはありませんし、何より日中韓がギクシャクしている、まさにこのような時代に、折しも戦後70年の談話を安倍首相が発表するという日に合わせて、あえて大阪(14日)と東京(15日)の片隅でひっそりと行われているということに、詩人の魂を垣間見ました。
一言行ってよかった。ささやかにシェイクスピアの塾を立ち上げたものとして、声を出して朗読するということに、以前にもまして関心が増してきた私です。遊声塾を立ち上げていなかったら出かけなかったかもしれません。
物語とはまた異なる詩人の言葉をもっと読みたくなったし、 遊声塾の面々と時折詩を読んでみたくなりました。いずれにせよ言葉による詩の宇宙は広大無辺、限りなく非日常に我々を解き放ってくれます。まさに詩人は言葉の魔法使いです。このような存在は貴重というしか言葉がない。
さて、翌日再び私は今度は兵庫県立芸術劇場に、トロイラスとクレシダのマチネーを見に出かけました。この芝居はめったに上演されません。文学座で初演されたのは1972年アトリエでのシェイクスピアフェスティバル。
ハムレット・ロミオとジュリエット・そしてトロイラスとクレシダの3本。当時私は二十歳、何という幸運、私はその3本をすべて観ています。ロミオは木村光一さんの演出。残り2本が現在もシェイクスピアシアター を率いる出口典雄さんの演出。3本とも斬新なアイデアあふるる演出でした。
時代の動きがビビッドに反映された現代的でスピーディーな演出は、3作品に共通していて、若かった私は興奮を抑えることができないくらい感動しました。いまでも江守徹さんのハムレット、太地喜和子さんのジュリエット、クレシダの倉野章子さん他、いろんな役者の顔が瞼に浮かびます。
さてもさても、うれしかったのは初演の時トロイラスを演じた小林勝也さんが序詞役と召使いを演じ、あの文学座の試験の時の試験官江守徹さんが、トロイ王・プライアムを演じていたこと。脇をがっちりと固めていました。
あとはもう知らない俳優さんばかり、当たり前あれから43年経つのですから。主役の二人はもちろん、両軍の俳優がマッドマックスばりに自由に気持ちよく感性のおもむくまま演じます。見ていて実に気持ちが良かったです。
文学座ではあれ以来の再演、ほとんど上演されないトロイラスとクレシダという作品。シェイクスピアの作品の中でも多様な評価を持つ多面的解釈が可能な問題作です。
たまたま、今日本のこの時代に再演されている意味が、演出家鵜山仁の意図がこの舞台には濃厚にこめられているのを、私は私なりに実感しました。トロイとギリシャの長い長い戦争の中で繰り返される人間の宿命的ともいえるカルマ、業の世界。
その中で愛を求め、愛に翻弄されるトロイラスとクレシダの不確かな愛の不毛性、そして戦士たちの狂気性は まさに現代の今だからこそ、その作品の豊饒さが際立つとさえいえる内容をもって私には伝わってきた。
ほとんどは文学座の俳優と外部からの俳優の混成で、あの問題作トロイラスとクレシダを演劇化するのに成功していた。俳優の力量がないとシェイクスピアの作品はまず成功しない。なにせあの膨大なセリフを血肉化しないことには、聴いている方の想像力が続かないのだから。それにしてもシェイクスピアの人間を見つめるまなざしの深さには恐れ入る。
とまれ,連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇で私のお盆が終わった感がある。この間のブログで8月は死者に想いを馳せる月と書いたが、この朗読会と観劇は私の中では無意識に深く私の中ではつながっている気がしている。
一つは生まれて初めて聞く詩の朗読会と、文学座公演のシェイクスピア作品、トロイラスとクレシダの舞台を見に。
まず詩の朗読会は、戦後70年の節目に、日本、韓国、中国の詩人が母語で連(歌のように)詩を読むという新聞記事を読み、何か気持ちが動いたので、気分転換がてらでかけたのです。
日中韓を代表する4人の詩人、四元康裕・MING DI(中国)・金惠順(キムへジュン)・谷川俊太郎(谷川さんは所用で来られず山田さんという方が代わりに朗読した)が、最初の方の書いた詩から、イメージを大胆に飛翔し新たな詩を限りなく即興に近い形で生み出してゆくという画期的な試み。
詳しくは記しませんが、【海】と【米】と【太陽】をテーマに4人の詩人が連詩を母語で詠まれるのを、生まれて初めて体感しました。大阪は谷町にある大阪文学学校(初めて知りました)という小さなビルの一部屋でその会は行われました。
参加者は関係者以外30人くらいでしたが、九州から来られている人もいました。私みたいな門外漢はおらずいかにも詩が大好きな方たち(言葉を大切にする)の集まりという雰囲気の会でした。
書いた本人がその場で母語で朗読するのを聴けるなんてことはそうはありませんし、何より日中韓がギクシャクしている、まさにこのような時代に、折しも戦後70年の談話を安倍首相が発表するという日に合わせて、あえて大阪(14日)と東京(15日)の片隅でひっそりと行われているということに、詩人の魂を垣間見ました。
一言行ってよかった。ささやかにシェイクスピアの塾を立ち上げたものとして、声を出して朗読するということに、以前にもまして関心が増してきた私です。遊声塾を立ち上げていなかったら出かけなかったかもしれません。
物語とはまた異なる詩人の言葉をもっと読みたくなったし、 遊声塾の面々と時折詩を読んでみたくなりました。いずれにせよ言葉による詩の宇宙は広大無辺、限りなく非日常に我々を解き放ってくれます。まさに詩人は言葉の魔法使いです。このような存在は貴重というしか言葉がない。
さて、翌日再び私は今度は兵庫県立芸術劇場に、トロイラスとクレシダのマチネーを見に出かけました。この芝居はめったに上演されません。文学座で初演されたのは1972年アトリエでのシェイクスピアフェスティバル。
ハムレット・ロミオとジュリエット・そしてトロイラスとクレシダの3本。当時私は二十歳、何という幸運、私はその3本をすべて観ています。ロミオは木村光一さんの演出。残り2本が現在もシェイクスピアシアター を率いる出口典雄さんの演出。3本とも斬新なアイデアあふるる演出でした。
時代の動きがビビッドに反映された現代的でスピーディーな演出は、3作品に共通していて、若かった私は興奮を抑えることができないくらい感動しました。いまでも江守徹さんのハムレット、太地喜和子さんのジュリエット、クレシダの倉野章子さん他、いろんな役者の顔が瞼に浮かびます。
さてもさても、うれしかったのは初演の時トロイラスを演じた小林勝也さんが序詞役と召使いを演じ、あの文学座の試験の時の試験官江守徹さんが、トロイ王・プライアムを演じていたこと。脇をがっちりと固めていました。
あとはもう知らない俳優さんばかり、当たり前あれから43年経つのですから。主役の二人はもちろん、両軍の俳優がマッドマックスばりに自由に気持ちよく感性のおもむくまま演じます。見ていて実に気持ちが良かったです。
文学座ではあれ以来の再演、ほとんど上演されないトロイラスとクレシダという作品。シェイクスピアの作品の中でも多様な評価を持つ多面的解釈が可能な問題作です。
たまたま、今日本のこの時代に再演されている意味が、演出家鵜山仁の意図がこの舞台には濃厚にこめられているのを、私は私なりに実感しました。トロイとギリシャの長い長い戦争の中で繰り返される人間の宿命的ともいえるカルマ、業の世界。
その中で愛を求め、愛に翻弄されるトロイラスとクレシダの不確かな愛の不毛性、そして戦士たちの狂気性は まさに現代の今だからこそ、その作品の豊饒さが際立つとさえいえる内容をもって私には伝わってきた。
ほとんどは文学座の俳優と外部からの俳優の混成で、あの問題作トロイラスとクレシダを演劇化するのに成功していた。俳優の力量がないとシェイクスピアの作品はまず成功しない。なにせあの膨大なセリフを血肉化しないことには、聴いている方の想像力が続かないのだから。それにしてもシェイクスピアの人間を見つめるまなざしの深さには恐れ入る。
とまれ,連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇で私のお盆が終わった感がある。この間のブログで8月は死者に想いを馳せる月と書いたが、この朗読会と観劇は私の中では無意識に深く私の中ではつながっている気がしている。
2015-08-13
大槌町再訪の旅・雑感。
もう何度も書いたことを、繰り返し書いたりすることが歳と共にますます増えることがあるかもしれないが、きわめて個人的な自己満足ブログなので、限りなく寛容なお気持ちで、御容赦いただきたく思う。
昨日の自分とは、明らかに今日の自分は どことはなしに変化してゆかざる負えないのが、私には真実である。そのことを踏まえながらも、どこかしら普遍的な大事なことを、日々忘れながらも忘れたくはないという、絶対的な矛盾をいまだ生きているような感を否めない私である。
さて、3年半ぶりに訪ねた、大槌町のことをわずかではあれ新鮮な思いのうちに書いておきたい。花巻といえば宮沢賢治であることは、熱心な読者ではない私でも知っている。
そこの近くの、遠野という地名の響きは、私の東北のイメージの代名詞、いつか訪れてみたいという気持ちを私の中に育てていた。59歳の時に起きた未曾有の東北津波原発大震災。
還暦を迎えるにあたりこれまでの人生を振り返るには、どこか異境の地で迎えたいというわがままな感情が私の中に、震災後起きていた。そこでたまたま選んだのが遠野だった。
極端だが、意味もなくただ単に遠野への憧れにも似た旅人感覚が、私を初めての東北への旅に導いたのだ。
当時調べたら、遠野に復興を支援するボランティアセンターがあるのを知り、わずかな時間ではあれ(当時まだ私は夢が原で働いていた)何かしたいと思い初めてボランティア活動の地として、遠野からバスで向かったところが(バスで1時間くらい)大槌町だったのだ。
たった二日間の瓦礫の撤去作業ではあったが、これをたまたま 偶然の思い付きで経験できたことは、私の中では今もって大きな個人的な思い出としてだけではなく、意味のある記憶として、しっかりと残っている。
3年半の歳月は、やはり大槌町の印象をまったく変えていた。厳冬期と真夏という違いも大きかった思うが、やはり瓦礫がまったくといっていいほど,なくなっただけで見た目こうも変わるのだ。
昼食をとった大槌復興食堂もなくなっていた。それが当たり前である。夕方ついて翌日のお昼までのわずかな滞在だったが、K氏と会う予定の時間まで、暑い中、私は朝早くホテルに荷物を預け、2000坪の土地に16年間樹木を植え続けておられ、宮沢賢治の世界観を具現化されているごS夫婦が創られた風のガーデンに向かって歩いた。
峠をこえ、鯨山のふもとにある風のガーデンまでたどり着くのに一時間弱かかった。汗が噴き出た。事前にお電話をしていたので、気持ちよく迎えてくださった。
場所が確認できたので、私は風のガーデンでゆっくりする前に、そこから歩いて30分ほどのところにあるという不動の滝にどうしても行ってみたくなった。今も鯨山の麓にあるという、震災前からかわらず存在するまさに不動の滝に。
私は滝に向かっての広い上り道を再び歩き始めた。山の麓の採石場から復興現場に石や土を運ぶダンプカーがひっきりなしにとおる。ダンプ以外、歩いている人間は私だけだ。登り道なので再び汗が噴き出してくる。歩いても歩いても滝の表示はない。
不安になって何回かダンプの運転手に訊いたのだがみんな県外からの出稼ぎの人で、滝のことなど知らないという。ますます不安になり、何回かあきらめかけたのだが、ここまで来て大槌を象徴する普遍的な滝を記憶に刻みたいとの私の思いは深まる。見ないと、今回の大槌町を訪ねた旅がちょっと物悲しい 。
私は意地でも滝に会いたく、足で地面を踏んだ。そうこうするうち山を削る巨大な採石場が視界に入った。動いているのは、パワーショベルやユンボのみ、あとは砕石や土を積むダンプカーのみ。
山を崩して、新しい住宅地や道路や、そのほかいわば復興計画のために使われるのだ。そのために山が大地が、削り取られてゆく現場を私は見た。途方もない面積、機械を人間が動かし、山は削られ無残というしかない姿をさらしていた。
都会に住む多くの都市人(びと)が、このような現場を見たらどのような思いにかられるだろうか。私は漸くダンプカーから解放され、無人の細くなった未舗装の山道を一人歩いた。
採石場から一気に景観が変わった、人間世界から神の世界へ。細い道のわきを清流が流れている。うっそうとした森の中に滝の存在を確信した。あちらこちらに祠がある。
採石場からさほどの距離ではない場所に、滝は在った。歩くこと一時間 不動の滝が見えた。私は再び大槌にやってきて本当に良かったとの思いに満たされた。
私以外は誰もいないし、人もやってきそうもない、汗だくの体を清めるべく裸になり沐浴をし祈ったた。10秒も浸かっていられないくらい冷たいが、身も心も洗われるとはまさにこのこと、清水がしみた。都合3回浸かった、生き返った。神の世界に帰依する沐浴になった。
たった一人の不動の滝沐浴は生涯忘れることはないだろう。大槌町にこんな素晴らしい滝がある、そのことが 私を穏やかにした。
戻りは下り、軽やかな足取りで風のガーデンに戻り、瓦礫の撤去仲間K氏とは風のガーデンで落合った。丹精された花々のなんとも素敵な風のガーデンで冷たいお茶をいただき、Sご夫婦とは短
い時間ではあったが 、気持ちのいい時間を過ごさせていただき、庭を散策させていただいた。
私はこの風のガーデンと不動の滝にはきっとまたやってくるとの思いを胸に秘め、K氏と共に初めて山形に向かった。
次回は、鯨山というなんとも素敵な名前の山に登りたいと思う。ところで大槌で私が泊まったところの地名が吉里吉里だった。あの井上ひさしさんの名作小説の吉里吉里人の。そして大槌町にはひょっこりひょうたん島のモデルになった島もあるということも知った。
きっと井上ひさし氏は何度も大槌町を訪ねたことがあるに違いない。鯨山の頂上からいつの日にか大槌町を眺めてみたいと私は思った。
夕方、山形の天童市に着いた。山形は井上ひさし氏が生まれたところである。賢治、啄木、太宰、井上ひさしさんがすべてお芝居にしている。きっとこれから元気な間、私は東北一帯を繰り返し旅することになる確信が深まる大槌町再訪の旅となった。
(大槌町から山形に向かう途中、遠野の仮設のボランティアセンターにK氏と立ち寄ったが、すべて取り払われ、跡地には夏の雑草が揺れていた、諸行無常だが山は動かじ)
2015-08-09
セバスチャン・サルガドの写真集は私に希望を植え付ける。
昨日、竹韻庵から帰って昼食後、、疲れていて少し悩んだのだが県立図書館に、セバスチャンサルガの写真集を探しに言ったら、市立図書館にはなかったSAHEL(THE END OF ROAD)という写真集があったので、借りてきた。
英語版の写真集である。1984年から86年にかけてのアフリカ、スーダンで生きる、日本人である私には程遠い環境に生きる人たちの、あまりに過酷というしかない日常、現実を映した写真集である。
このような写真集がなかったら、おそらくは永遠に、私はこの 同時代のはるかかなたの異国の現実を冷静に、じっくりと視ることは叶わなかっただろう。
お盆明けには図書館に返さないといけないが、この間も書いたように、いずれ 出版されているサルガドの写真集は、順次ゆっくりと全部手元に置きたいと思っている。
そのためには、まだまだ元気に動ける有難さ、どんな仕事でもいいから動けるる間はささやかに働いて、お金を有効に使いたい、と思う。一人でも多くの方に写真集を見てもらいたいと思わずにはいられない。
無知蒙昧の上、自分の怠惰な性格は小さいころから自覚していた。そのようなわたしの弱点を見抜いた父親は私を厳しく育てたのだろうと今にして思う。
本当に18歳までの私は、(とくに思春期)時代の波をもろに受け、安易な軟派路線をお気軽に生きてきた自分を世の中に出て初めて痛感した。生きてゆくためには、意に沿わぬ仕事もやらなければ生きてゆけないという現実を。
人間の大地 労働という写真集で、サルガドは世界中の過酷な現場で働く(働かざるを得ない)人々の姿を、映している。
セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画を見てからまだ10日しかたっていないが、今この文章を書いているそばにある、2冊の写真集は限りなくいい意味で重たく、私の奥深いところに働きかけてくる。
それはなぜなのかを、このお盆休みには2冊の写真集を眺めながら過ごしたいと考える私である。 それほどにこの2冊の写真集は普遍的な問いを私に投げかける。
おそらく今も過酷な労働現場を、日本も含め世界中の人々が、かなり労働スタイルが変わったとはいえ、生きているのだろう、そして紛争地域から人々は難民化しているのだろうと、私は推測する。
たかだかの私ごときの頭では考えたとて、お里が知れるとは思うもののサルガドの写真は、私に大切な何か重要な事柄を語り掛けてくる。
私がこれほどまでにサルガドの写真集に惹かれるのはなぜなのかを、今ここで考える気にはならないが、一つだけいえることは、何はともあれ18歳から世の中に出て労働をしながら、糊口をしのいで生き延びてきたということがあり、否応なく労働を管理される側に、身を置いてきたという現実があるからかもしれない。
今も、時折考える。汗をかきながら労働とは?働くとは?世界のあらゆる不条理、富の集中の異常性(に対するあまりの鈍感さ)。富むものとは真逆の生活を否応なく強いられる多くの無数の弱者。
このような世界戦争経済が続く間に、(核爆弾まで浴びた我が国)奇蹟のこの惑星は痛みに傷んでゆく。まさに、サルガドならずとも絶望したくなるが、そこで絶望せず荒れ果てた故郷の原点に立ち返り大地に樹を植え、十数年かけて、森を復活させる一大プロジェクトをご夫婦で立ち上げる。
すごいというしかない。一心同体のあまりに人間らしい夫婦の姿に心底打たれる。サルガドが少年時代を過ごした 生家の広大な土地は見事な森に生まれ還り滝も生まれ、多くの生き物が棲みジャガーも帰ってきたという。
心から絶望したものであるがゆえに、このような希望あふるるプロジェクトが実現したのだと思う。それと生来の気質。ラテンのおおらかさ。 竹韻庵に私もささやかになにか植えたく思う。世界の5分の1の人間が、一本の木を植え20年育てれば、ものすごい酸素が生まれる。奇跡の酸素。
若き日にシェイクスピアの国に行きたくなったように、サルガドを生んだ見果てぬ広さを持った邦に、行ってみたいという夢が私の中で膨らみはじめている。目的がないと私は動けない。
40年以上かけて漸く私は軟派路線からいくばくか、硬派になれそうな自分を感じている。何とかもう少し踏んばらないとあの世の両親に顔向けできないのだ。
英語版の写真集である。1984年から86年にかけてのアフリカ、スーダンで生きる、日本人である私には程遠い環境に生きる人たちの、あまりに過酷というしかない日常、現実を映した写真集である。
このような写真集がなかったら、おそらくは永遠に、私はこの 同時代のはるかかなたの異国の現実を冷静に、じっくりと視ることは叶わなかっただろう。
お盆明けには図書館に返さないといけないが、この間も書いたように、いずれ 出版されているサルガドの写真集は、順次ゆっくりと全部手元に置きたいと思っている。
そのためには、まだまだ元気に動ける有難さ、どんな仕事でもいいから動けるる間はささやかに働いて、お金を有効に使いたい、と思う。一人でも多くの方に写真集を見てもらいたいと思わずにはいられない。
無知蒙昧の上、自分の怠惰な性格は小さいころから自覚していた。そのようなわたしの弱点を見抜いた父親は私を厳しく育てたのだろうと今にして思う。
本当に18歳までの私は、(とくに思春期)時代の波をもろに受け、安易な軟派路線をお気軽に生きてきた自分を世の中に出て初めて痛感した。生きてゆくためには、意に沿わぬ仕事もやらなければ生きてゆけないという現実を。
人間の大地 労働という写真集で、サルガドは世界中の過酷な現場で働く(働かざるを得ない)人々の姿を、映している。
セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画を見てからまだ10日しかたっていないが、今この文章を書いているそばにある、2冊の写真集は限りなくいい意味で重たく、私の奥深いところに働きかけてくる。
それはなぜなのかを、このお盆休みには2冊の写真集を眺めながら過ごしたいと考える私である。 それほどにこの2冊の写真集は普遍的な問いを私に投げかける。
おそらく今も過酷な労働現場を、日本も含め世界中の人々が、かなり労働スタイルが変わったとはいえ、生きているのだろう、そして紛争地域から人々は難民化しているのだろうと、私は推測する。
たかだかの私ごときの頭では考えたとて、お里が知れるとは思うもののサルガドの写真は、私に大切な何か重要な事柄を語り掛けてくる。
私がこれほどまでにサルガドの写真集に惹かれるのはなぜなのかを、今ここで考える気にはならないが、一つだけいえることは、何はともあれ18歳から世の中に出て労働をしながら、糊口をしのいで生き延びてきたということがあり、否応なく労働を管理される側に、身を置いてきたという現実があるからかもしれない。
今も、時折考える。汗をかきながら労働とは?働くとは?世界のあらゆる不条理、富の集中の異常性(に対するあまりの鈍感さ)。富むものとは真逆の生活を否応なく強いられる多くの無数の弱者。
このような世界戦争経済が続く間に、(核爆弾まで浴びた我が国)奇蹟のこの惑星は痛みに傷んでゆく。まさに、サルガドならずとも絶望したくなるが、そこで絶望せず荒れ果てた故郷の原点に立ち返り大地に樹を植え、十数年かけて、森を復活させる一大プロジェクトをご夫婦で立ち上げる。
すごいというしかない。一心同体のあまりに人間らしい夫婦の姿に心底打たれる。サルガドが少年時代を過ごした 生家の広大な土地は見事な森に生まれ還り滝も生まれ、多くの生き物が棲みジャガーも帰ってきたという。
心から絶望したものであるがゆえに、このような希望あふるるプロジェクトが実現したのだと思う。それと生来の気質。ラテンのおおらかさ。 竹韻庵に私もささやかになにか植えたく思う。世界の5分の1の人間が、一本の木を植え20年育てれば、ものすごい酸素が生まれる。奇跡の酸素。
若き日にシェイクスピアの国に行きたくなったように、サルガドを生んだ見果てぬ広さを持った邦に、行ってみたいという夢が私の中で膨らみはじめている。目的がないと私は動けない。
40年以上かけて漸く私は軟派路線からいくばくか、硬派になれそうな自分を感じている。何とかもう少し踏んばらないとあの世の両親に顔向けできないのだ。
2015-08-07
八月は死者に対して想いを馳せるつきです。
私が夏休みの旅に出かけている間に、鶴見俊輔さんがお亡くなりになり、個人的に大好きだった俳優加藤武さんが往ってしまわれた。
鶴見俊輔さんとは、数年前京都の美術館で偶然お目にかかって、恥も外聞もなくサインをいただいたことがある。その時のなんとも言えないたたずまい、恥じらいの表情が思い出される。すごい人はさりげない。
多くの識者がその存在の希少さにおいて、すぐれたコメントを寄せられているので、私には何も書くことはないのだが、自分の中の悪を見据えながら絶えず民主主義とは何かを、考え続けられた生き方には、これからも私は素直に学び続けたいと思う。
一方加藤武、文学座の重臣であられたこの方の舞台作品を、たまたま昨年三越劇場で見ることができた幸運を私は終生忘れることはないだろう。浮世絵師葛飾北斎の年齢を感じさせない若々しさには、度胆を抜かれた。
とくに、あの年齢で飛び上がったしぐさの表現には芸人のど根性を見ました。脳裏に焼き付いています。(アンケートを書いたらお葉書をいただきました宝です)
私もいい年齢なのですから当たり前ですが、今後ますます私にとっての同時代を生きているからこそ知りえた、出会えた素晴らしい方々が、天に召されるのを聞くことが増えてゆくのは必定だと覚悟しています。
他人ごとではなく、こればかりは自分にもいつお呼びの声がかかるか、こればかりはわかりません。だからこそ一日一日、この世で生きられる奇蹟を、私は私なりに悔いなく生きねばと、思っています。
とはいうものの、そんなに七面倒臭く考えなくともいいのでは、とも思います。死んだ後のことまではしりません。要はその人らしく人生を全うできること(覚悟)こそが肝要と私は思います。
還暦過ぎてからは、なにゃら一段と昔に還ったかのように、自由自在とはいきませんが、わがままに、人にどう思われようが、自分の内なる声の赴くままにとの思いです。
読んではいないのに、これもお亡くなりになった赤瀬川源平さんがお書きになった老人力というタイトルが頭に浮かびます。人間は生きている限りにおいて、悩める姿をさらしながらも、この世の素晴らしさにしがみついてゆく側に立ちたいと 、私は思います。
それにはどうしたらいいのかを、また悩みつつ楽しむのです。悩まなかったら人生とは、何とつまらないことであることか、小生にとって、まさに悩める子羊をやめないことが、生きてゆくということかもしれません。
ともあれ、八月は日本人にとって死者に思いをはせるつきです。この暑さの中、地獄を徘徊した方々の言葉に耳を傾け、今を生きられる平凡極まる幸福をかみしめないわけにはゆきません。
安全保障法案の行く末が、初老の私には気がかりです。なるようにしかならないと、安易を決め込む前にブログを書くことも含めて、日々揺れ動き名がながらも、各々が自分のやれる範囲で示威行為をする。
戦後70年の節目にこの法案が可決したら、先々やっぱりあの時などといわないように、どのような未来を自分が望むのかを、私はひとりの人間として考えたく思います。
利己的自分にはおさらば、かけがえのない人類の未来の他者のことを、想像するとかすかに自分に何ができるのかが見えてくるような気がします。
8月最後の金曜日は 、もうひと踏ん張り国会議事堂前に駆けつけようか思案中です。大きなうねりにならないとメディアは取り上げてくれないし、熱い人々と共に現場にいたい、初老の私です。
鶴見俊輔さんとは、数年前京都の美術館で偶然お目にかかって、恥も外聞もなくサインをいただいたことがある。その時のなんとも言えないたたずまい、恥じらいの表情が思い出される。すごい人はさりげない。
多くの識者がその存在の希少さにおいて、すぐれたコメントを寄せられているので、私には何も書くことはないのだが、自分の中の悪を見据えながら絶えず民主主義とは何かを、考え続けられた生き方には、これからも私は素直に学び続けたいと思う。
一方加藤武、文学座の重臣であられたこの方の舞台作品を、たまたま昨年三越劇場で見ることができた幸運を私は終生忘れることはないだろう。浮世絵師葛飾北斎の年齢を感じさせない若々しさには、度胆を抜かれた。
とくに、あの年齢で飛び上がったしぐさの表現には芸人のど根性を見ました。脳裏に焼き付いています。(アンケートを書いたらお葉書をいただきました宝です)
私もいい年齢なのですから当たり前ですが、今後ますます私にとっての同時代を生きているからこそ知りえた、出会えた素晴らしい方々が、天に召されるのを聞くことが増えてゆくのは必定だと覚悟しています。
他人ごとではなく、こればかりは自分にもいつお呼びの声がかかるか、こればかりはわかりません。だからこそ一日一日、この世で生きられる奇蹟を、私は私なりに悔いなく生きねばと、思っています。
とはいうものの、そんなに七面倒臭く考えなくともいいのでは、とも思います。死んだ後のことまではしりません。要はその人らしく人生を全うできること(覚悟)こそが肝要と私は思います。
還暦過ぎてからは、なにゃら一段と昔に還ったかのように、自由自在とはいきませんが、わがままに、人にどう思われようが、自分の内なる声の赴くままにとの思いです。
読んではいないのに、これもお亡くなりになった赤瀬川源平さんがお書きになった老人力というタイトルが頭に浮かびます。人間は生きている限りにおいて、悩める姿をさらしながらも、この世の素晴らしさにしがみついてゆく側に立ちたいと 、私は思います。
それにはどうしたらいいのかを、また悩みつつ楽しむのです。悩まなかったら人生とは、何とつまらないことであることか、小生にとって、まさに悩める子羊をやめないことが、生きてゆくということかもしれません。
ともあれ、八月は日本人にとって死者に思いをはせるつきです。この暑さの中、地獄を徘徊した方々の言葉に耳を傾け、今を生きられる平凡極まる幸福をかみしめないわけにはゆきません。
安全保障法案の行く末が、初老の私には気がかりです。なるようにしかならないと、安易を決め込む前にブログを書くことも含めて、日々揺れ動き名がながらも、各々が自分のやれる範囲で示威行為をする。
戦後70年の節目にこの法案が可決したら、先々やっぱりあの時などといわないように、どのような未来を自分が望むのかを、私はひとりの人間として考えたく思います。
利己的自分にはおさらば、かけがえのない人類の未来の他者のことを、想像するとかすかに自分に何ができるのかが見えてくるような気がします。
8月最後の金曜日は 、もうひと踏ん張り国会議事堂前に駆けつけようか思案中です。大きなうねりにならないとメディアは取り上げてくれないし、熱い人々と共に現場にいたい、初老の私です。
セバスチャンサルガドをかすかに意識しながら竹韻庵で体を動かす。
S氏が所有している山荘の管理を午前中のみフリーで、働くようになってから今日も含め、7日間ほど竹韻庵に通っている。
なにしろこの暑さなので、普段の半分も体が動いてくれないといった中での作業なのだが、とりあえずはやれるところから、自分なりに自分の体を動かしながら進めてゆくしかない。
山荘の周囲が雑木に覆われてきており、その撤去とその雑木の焼却がしばしの間の作業ということになる。カズラがまとわりついていて、なんともはや手ごわい中での作業。
この暑さの中で、生木を燃やすのは、ほとんど苦行のような感じ、初老の体に汗がふき出してくる。だが、ひとりでの山作業がどことはなしに、私は気に入っている。
まったく自分のリズムでできるからである。仕事という意識は私にはない。一人里山で遊んでいるといった塩梅で過ごさせていただいている。
ところで、セバスチャンサルガドの自伝を読み終えた。今回の旅でサルガドという存在を知りえたことの喜びは、日に日に増してきている。
旅から帰った日に、市の図書館に彼の写真集を探しに行ったら、一冊だけ1994年に出版された、人間の労働をテーマにした写真集があり、それがいま私の手元にある。すごいというしかない。
15000円の写真集、岩波書店から発行されている。図書館の本は返さないとけないので 、いずれ私はサルガドの写真集は、全部手元に置きたいと考えている。
これほどまで、に私はサルガドの世界に魅了されている自分を、どこか有難く、この年でサルガドの存在を知りえたことの嬉しさは、なんと表現してよいのか、格別の出来事というほかはない気がしている。
昔、西アフリカの太鼓のリズムに触れた時、何としても生きている間に、現地に行きたいと思ったものだが、久方ぶりに可能なら元気なうちに、中南米に行ってみたくなっている。
わけても、セバスチャンサルガドを生んだブラジルに 。五十鈴川だよりを開いた方は、チャンスがあったら是非サルガドのドキュメンタリー映画を見てほしい。
わずか2時間で、サルガドの軌跡を、奇跡的に描くことに成功している。このような離れ業は、ヴィムベンダースと、息子のジュリア―ノサルガドによる共同監督だからこそ、成しえたのかもしれない。
それほどまでに私にとっては、魂の奥底まで踏み入ってくるとしか言いようのない作品に、私は出会ってしまった。
うれしくもいまだその余韻に浸りながら、竹韻庵で体を動かしているといったところなのだ。純粋な魂の持ち主だからこそ。このような奇蹟というしかない写真集が年代別(40年間の、今も新しい作品に挑んでいる)に時代と格闘しながら生み出されているのだろう。
私が、昨日今日知ったサルガドの大いなる仕事に 、寸評を書く愚は控えたい。ただたった一つ書いておきたいことは、今後死ぬまでサルガドの写真集を眺めて過ごしたいということである。
生命の源の土というものと触れ合える竹韻庵で、地面を踏みしめながら汗をかき、大いなる魂の持ち主である、サルガドの世界とどこかで、意識がかすかにつながっていると勝手に思えるということは、ささやかな今を生きる私の幸せである。
それにしても、何度も何度も絶望を潜り抜けたからこそこのような奇跡的というしかない、黙示録的写真集が提示されているのだろう。
映画を見ながら涙がにじみ出てきたが、本を読んでも同じように涙が出てきた。自分という器がまだ何かに揺り動かされるということ、が確認できる夏を私は生きている。
なにしろこの暑さなので、普段の半分も体が動いてくれないといった中での作業なのだが、とりあえずはやれるところから、自分なりに自分の体を動かしながら進めてゆくしかない。
山荘の周囲が雑木に覆われてきており、その撤去とその雑木の焼却がしばしの間の作業ということになる。カズラがまとわりついていて、なんともはや手ごわい中での作業。
この暑さの中で、生木を燃やすのは、ほとんど苦行のような感じ、初老の体に汗がふき出してくる。だが、ひとりでの山作業がどことはなしに、私は気に入っている。
まったく自分のリズムでできるからである。仕事という意識は私にはない。一人里山で遊んでいるといった塩梅で過ごさせていただいている。
ところで、セバスチャンサルガドの自伝を読み終えた。今回の旅でサルガドという存在を知りえたことの喜びは、日に日に増してきている。
旅から帰った日に、市の図書館に彼の写真集を探しに行ったら、一冊だけ1994年に出版された、人間の労働をテーマにした写真集があり、それがいま私の手元にある。すごいというしかない。
15000円の写真集、岩波書店から発行されている。図書館の本は返さないとけないので 、いずれ私はサルガドの写真集は、全部手元に置きたいと考えている。
これほどまで、に私はサルガドの世界に魅了されている自分を、どこか有難く、この年でサルガドの存在を知りえたことの嬉しさは、なんと表現してよいのか、格別の出来事というほかはない気がしている。
昔、西アフリカの太鼓のリズムに触れた時、何としても生きている間に、現地に行きたいと思ったものだが、久方ぶりに可能なら元気なうちに、中南米に行ってみたくなっている。
わけても、セバスチャンサルガドを生んだブラジルに 。五十鈴川だよりを開いた方は、チャンスがあったら是非サルガドのドキュメンタリー映画を見てほしい。
わずか2時間で、サルガドの軌跡を、奇跡的に描くことに成功している。このような離れ業は、ヴィムベンダースと、息子のジュリア―ノサルガドによる共同監督だからこそ、成しえたのかもしれない。
それほどまでに私にとっては、魂の奥底まで踏み入ってくるとしか言いようのない作品に、私は出会ってしまった。
うれしくもいまだその余韻に浸りながら、竹韻庵で体を動かしているといったところなのだ。純粋な魂の持ち主だからこそ。このような奇蹟というしかない写真集が年代別(40年間の、今も新しい作品に挑んでいる)に時代と格闘しながら生み出されているのだろう。
私が、昨日今日知ったサルガドの大いなる仕事に 、寸評を書く愚は控えたい。ただたった一つ書いておきたいことは、今後死ぬまでサルガドの写真集を眺めて過ごしたいということである。
生命の源の土というものと触れ合える竹韻庵で、地面を踏みしめながら汗をかき、大いなる魂の持ち主である、サルガドの世界とどこかで、意識がかすかにつながっていると勝手に思えるということは、ささやかな今を生きる私の幸せである。
それにしても、何度も何度も絶望を潜り抜けたからこそこのような奇跡的というしかない、黙示録的写真集が提示されているのだろう。
映画を見ながら涙がにじみ出てきたが、本を読んでも同じように涙が出てきた。自分という器がまだ何かに揺り動かされるということ、が確認できる夏を私は生きている。
2015-08-03
2015年、私の老春夏休みの旅が終わりました。
まるまる一週間の旅は十数年ぶり,63歳猛暑の中の記憶に残る旅となった。
出かける前の自分と、今この一文を書いている自分は,あきらかにかすかな変化が起こったと書けることが、やはり旅の重さなのだとあらためて感じる。
何度も書いているが、かすかに自分が変化し続ける間は、拙文ブログが書き続けられるのではないかとという、いわば生きている楽しみを、私は持続したく念っている。
出発日27日は、朝五時半西大寺発の電車、ずっと東海道線を乗継北上、車中で本を読んでは景色を眺め、疲れたら目を閉じて休むということを繰り返しながら大阪、名古屋、静岡、東京を通過、栃木県那須塩原駅に着いたのが、午後8時半。
若き日富良野で知り合い(彼は北大生でした)、彼の結婚式以来20年ぶりの再会、I氏が駅に迎えに来てくれていた。
彼の顔を見た瞬間、あっという間に若き日に還り、 まずやはり来てよかったとの思いが、こみ上げてきた。
独立して十数年、立派な獣医師となり一回り存在感が大きくなっていた。駅の近くに家があり、奥さんは大学生のお嬢さんのところに出かけられていてお留守とのことで、結局この日は彼の家に泊まることに。
彼の家で20年あっていなかったとは思えないくらい話が弾み、再会の祝杯時間はあっという間に就寝時間へ、続きは大槌の帰りにすることにしシャワーを浴びてすぐに眠りの世界に落ちた。
火曜日28日朝、5時47分の電車で黒磯を出発、I氏が駅まで車で送ってくれた。福島、仙台、一関、花巻と乗継、いよいよ釜石線に乗り換え釜石に夕方5時前に着いた。(二日間で25時間電車に揺られていたことになる)
そこからバスに乗り換え、30分、3年半ぶり大槌町に着いた。瓦礫は片付いていたが 町の人たちの暮らしはまだまだこれからだという印象、車とダンプが動いているばかりで、人の姿がまるで見えない。前回は真冬、今回は夏印象がまるで違った。
仮設のホテルを役場で探してもらいそこに直行した。翌日29日水曜日、仕事がお休みの、ともに瓦礫の撤去作業をしたK氏がわざわざ仕事先の山形から大槌まで(片道4時間)来てくださり、これまた3年半ぶりの再会。(大槌のことは、日を改めて 書きます)なんとも暖かいお人柄、東北は秋田のご出身、この方も一生お付き合いしたい方のおひとりです。
結局、この日はK氏とともに山形の天童市に彼の車で移動、泊まることに。天童市に着いたのが夕方5時過ぎ、K氏と温泉(NPOが経営する庶民行き付けの大衆浴場)に入り、二人で居酒屋で夕食。駅まで歩いて10分もかからないところにあるホテルに泊まったがやすくて広くて快適だった。
30日、木曜日朝7時27分の電車で天童から山形へ出て、そこから米沢へ。列車の待ち時間を利用し3時間ほど暑い中上杉神社などを歩き回る、落ち着いた良き街だった。だが、暑い夏にはやはり観光などはしない方が身のためだと再確認。東北も日中は本当に暑かった。
米沢から、福島、郡山、と乗継、再び5時前那須塩原駅へ。I氏が再び迎えに来てくださり、何とそのまま、塩原の300年間続いている古い温泉宿へ。その日は二人でそこへ泊るようにI氏が手配を済ませていた。
きれいな川を望みながらの森林浴露天風呂が最高でした。二人して裸でゆっくりと、旧交を温めることができた。20年ぶりであれ何であれ、お互いいい感じで再会のひと時を持てる相手なんて御仁はそうはあるものではない。
かなりハードな移動旅が続いてたので、この温泉宿の湯は63歳の体には、まさに骨身にしみました。寡黙なI氏の粋というしかない計らいと、(おもてなし) がひときわしみました。
二人しての宿での夕食、朝食とも申し分なく、語る話題も尽きることなく、たまさかの友との異次元の語らいは至福の旅時間となりました。結局3回私はこの湯につかり疲れをいやしました。またいつの日にか妻と共に訪れたく思いました。
翌日31日金曜日宿の玄関で記念撮影のあと、獣医師としての氏の仕事を午前中見学させていただいた。最初の農家では初めて種付けする氏の慣れた無駄のない動きに、驚きました。3件の家畜を飼っている農家を訪ねましたが、彼の誠実な仕事ぶりを、皆さんが頼りにしているのが伝わってきました。最後の農家では、乳牛がこの暑さで亡くなっている現場を見ました。
お昼前、塩原の駅まで送ってもらい I氏とお別れしましたが、このような意外性のあるうれしい再会はそうあるものでははありません。縁を大切に生きるしかありません。
氏は私より 一回り若いのですが、世代を超えてお付き合いできる貴重な友人です。温泉旅を私にプレゼントしてくれました。いつの日にか彼が仕事をリタイアしたら、私も何かお祝をしたいと思いながら、那須塩原を後にしました。
一転せわしない東京へ。東京には午後4時半ごろ、いつもの三田の宿に落ち着き、一休みしシャワーを浴びたのち国会議事堂前の集会に参加しました。毎週金曜日の夜は、SEALDsの方たちが安全保障法案に異を唱える集会を継続しているので、私も個人として応援に出かけたのです。
集会が終わるまで3時間現場にいましたが、前回よりはるかに多くの人たちが参加していました。6月の前回は雨でしたが今回はブルームーンの満月が出ていて見守っていました。夜になってもうだる暑さが続き、熱気と人の波で、想像以上の盛り上がりを体で感じました。
いちいち名前は書きませんが、著名なマスコミにもよく出る経済学者とか、大学教授、政治家も個人レベルで参加しながら、時折マイクを持ち語り掛けていました。高校生主催の集会(日曜日代々木で行う)の告知も高校生男女が二人で直接語り掛け、次々に自分の言葉で意思表示するのには感動しました。
若い方々がいよいよ本格的に動き始めているという波のうねりが起きつつある予感がしました。ここは軽薄を絵にかいたおじさんとしては、何らかの形で応援しないと、情けなき思いです。
一人の著名な方が、夏の終わりまでに、この国会議事堂を10万人が取り囲むくらいの人が、法案に反対の意思表示をすれば 、廃案にできるかもしれないと、声をあげていました。
五十鈴川だよりを開いてくださる方にもお声掛けしたく思います。何らかの形で参加していただければと。集会を終え、ひとり溜池山王駅まで歩き、そこから麻布まででて、宿まで東京タワーを背に歩きました。
遅くなり一人外食もする気が起きず、宿でゆっくりとお湯につかり、疲れた足をもみ、果物とおにぎりと、ビールとお茶の簡単な夜食を済ませました。このデモの模様をメディアが伝えていないかチャンネルを回したのですが、TBSがわずかにちょっと取り上げていただけで他局は全くNHKはじめ取り上げていませんでした。
横になったものの、疲れているはずなのになぜか目がさえて、珍しくなかなか寝付けませんでした。
旅最後の日、三田の駅に荷物を預け朝の銀座でゆっくり朝食。銀座の裏通りの並木座(昔今はありませんがよく映画を見ました)あたりが私は大好きなのです。
8月1日。この日は映画の日でした。この日私は3本の映画を見ました。銀座のみゆき座でチャップリンの贈り物、私の親友が出ている自主製作映画を渋谷のアップリンクで、そして夜7時から文化村の、ㇽシネマで、伝説の写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画(監督はヴィムベンダースと、サルガドの息子さんのジュリア―のサルガドの二人)
セバスチャンサルガドのドキュメンタリー映画を旅の最後に見ることができた,出合ったこと、が今回の旅の白眉、最高の出来事となったことをとりあえず五十鈴川だよりに書いておきます。
映画を見終え、セバスチャン・サルガドの本を買い、夜行列車に乗るために田町で荷物をだし東京駅に向かいました。11時10分発まで時間があり夕食をしていなかったので、八重洲の地下のレストラン東京で、旅の終わりの祝杯を自分ひとりで上げました。
もちろん生ビールで、つまみは定番の餃子のみ、あのビールのおいしかったこと。約1時間盛りだくさんの今回の旅を反芻しながら 、生きて元気だからこその老春旅、家族はじめあらゆることにに感謝しました。
数十年ぶりの夜行列車は思ったよりも快適でした。すぐに眠りにおち気が付くと名古屋でした。顔を洗い少し体を動かし、コーヒーをのみ、さっそくサルガド氏の自伝を読み始めましたら、一気に引き込まれ西大寺に着くころには三分の二は読み終えていました。
このような写真家が現存していることは、私を大いに勇気づけ何やらこれから先の時間を有意味に生きてゆくためのエネルギーをサルガドさんご夫婦は、私に与え続けてくれるような存在になりそうです。
朝少し書いて、山陽カルチャーから帰って昼食を済ませ、少し昼寝をしたのちうだる暑さのなか、いささか朦朧としながら書きました。どのような旅であったのかが、ささやかにお伝えできればと思います。
8月2日、日曜日午後1時西大寺駅に着き旅は終わりました。炎天の中妻が迎えに来てくれました。
出かける前の自分と、今この一文を書いている自分は,あきらかにかすかな変化が起こったと書けることが、やはり旅の重さなのだとあらためて感じる。
何度も書いているが、かすかに自分が変化し続ける間は、拙文ブログが書き続けられるのではないかとという、いわば生きている楽しみを、私は持続したく念っている。
出発日27日は、朝五時半西大寺発の電車、ずっと東海道線を乗継北上、車中で本を読んでは景色を眺め、疲れたら目を閉じて休むということを繰り返しながら大阪、名古屋、静岡、東京を通過、栃木県那須塩原駅に着いたのが、午後8時半。
若き日富良野で知り合い(彼は北大生でした)、彼の結婚式以来20年ぶりの再会、I氏が駅に迎えに来てくれていた。
彼の顔を見た瞬間、あっという間に若き日に還り、 まずやはり来てよかったとの思いが、こみ上げてきた。
独立して十数年、立派な獣医師となり一回り存在感が大きくなっていた。駅の近くに家があり、奥さんは大学生のお嬢さんのところに出かけられていてお留守とのことで、結局この日は彼の家に泊まることに。
彼の家で20年あっていなかったとは思えないくらい話が弾み、再会の祝杯時間はあっという間に就寝時間へ、続きは大槌の帰りにすることにしシャワーを浴びてすぐに眠りの世界に落ちた。
火曜日28日朝、5時47分の電車で黒磯を出発、I氏が駅まで車で送ってくれた。福島、仙台、一関、花巻と乗継、いよいよ釜石線に乗り換え釜石に夕方5時前に着いた。(二日間で25時間電車に揺られていたことになる)
そこからバスに乗り換え、30分、3年半ぶり大槌町に着いた。瓦礫は片付いていたが 町の人たちの暮らしはまだまだこれからだという印象、車とダンプが動いているばかりで、人の姿がまるで見えない。前回は真冬、今回は夏印象がまるで違った。
仮設のホテルを役場で探してもらいそこに直行した。翌日29日水曜日、仕事がお休みの、ともに瓦礫の撤去作業をしたK氏がわざわざ仕事先の山形から大槌まで(片道4時間)来てくださり、これまた3年半ぶりの再会。(大槌のことは、日を改めて 書きます)なんとも暖かいお人柄、東北は秋田のご出身、この方も一生お付き合いしたい方のおひとりです。
結局、この日はK氏とともに山形の天童市に彼の車で移動、泊まることに。天童市に着いたのが夕方5時過ぎ、K氏と温泉(NPOが経営する庶民行き付けの大衆浴場)に入り、二人で居酒屋で夕食。駅まで歩いて10分もかからないところにあるホテルに泊まったがやすくて広くて快適だった。
30日、木曜日朝7時27分の電車で天童から山形へ出て、そこから米沢へ。列車の待ち時間を利用し3時間ほど暑い中上杉神社などを歩き回る、落ち着いた良き街だった。だが、暑い夏にはやはり観光などはしない方が身のためだと再確認。東北も日中は本当に暑かった。
米沢から、福島、郡山、と乗継、再び5時前那須塩原駅へ。I氏が再び迎えに来てくださり、何とそのまま、塩原の300年間続いている古い温泉宿へ。その日は二人でそこへ泊るようにI氏が手配を済ませていた。
きれいな川を望みながらの森林浴露天風呂が最高でした。二人して裸でゆっくりと、旧交を温めることができた。20年ぶりであれ何であれ、お互いいい感じで再会のひと時を持てる相手なんて御仁はそうはあるものではない。
かなりハードな移動旅が続いてたので、この温泉宿の湯は63歳の体には、まさに骨身にしみました。寡黙なI氏の粋というしかない計らいと、(おもてなし) がひときわしみました。
二人しての宿での夕食、朝食とも申し分なく、語る話題も尽きることなく、たまさかの友との異次元の語らいは至福の旅時間となりました。結局3回私はこの湯につかり疲れをいやしました。またいつの日にか妻と共に訪れたく思いました。
翌日31日金曜日宿の玄関で記念撮影のあと、獣医師としての氏の仕事を午前中見学させていただいた。最初の農家では初めて種付けする氏の慣れた無駄のない動きに、驚きました。3件の家畜を飼っている農家を訪ねましたが、彼の誠実な仕事ぶりを、皆さんが頼りにしているのが伝わってきました。最後の農家では、乳牛がこの暑さで亡くなっている現場を見ました。
お昼前、塩原の駅まで送ってもらい I氏とお別れしましたが、このような意外性のあるうれしい再会はそうあるものでははありません。縁を大切に生きるしかありません。
氏は私より 一回り若いのですが、世代を超えてお付き合いできる貴重な友人です。温泉旅を私にプレゼントしてくれました。いつの日にか彼が仕事をリタイアしたら、私も何かお祝をしたいと思いながら、那須塩原を後にしました。
一転せわしない東京へ。東京には午後4時半ごろ、いつもの三田の宿に落ち着き、一休みしシャワーを浴びたのち国会議事堂前の集会に参加しました。毎週金曜日の夜は、SEALDsの方たちが安全保障法案に異を唱える集会を継続しているので、私も個人として応援に出かけたのです。
集会が終わるまで3時間現場にいましたが、前回よりはるかに多くの人たちが参加していました。6月の前回は雨でしたが今回はブルームーンの満月が出ていて見守っていました。夜になってもうだる暑さが続き、熱気と人の波で、想像以上の盛り上がりを体で感じました。
いちいち名前は書きませんが、著名なマスコミにもよく出る経済学者とか、大学教授、政治家も個人レベルで参加しながら、時折マイクを持ち語り掛けていました。高校生主催の集会(日曜日代々木で行う)の告知も高校生男女が二人で直接語り掛け、次々に自分の言葉で意思表示するのには感動しました。
若い方々がいよいよ本格的に動き始めているという波のうねりが起きつつある予感がしました。ここは軽薄を絵にかいたおじさんとしては、何らかの形で応援しないと、情けなき思いです。
一人の著名な方が、夏の終わりまでに、この国会議事堂を10万人が取り囲むくらいの人が、法案に反対の意思表示をすれば 、廃案にできるかもしれないと、声をあげていました。
五十鈴川だよりを開いてくださる方にもお声掛けしたく思います。何らかの形で参加していただければと。集会を終え、ひとり溜池山王駅まで歩き、そこから麻布まででて、宿まで東京タワーを背に歩きました。
遅くなり一人外食もする気が起きず、宿でゆっくりとお湯につかり、疲れた足をもみ、果物とおにぎりと、ビールとお茶の簡単な夜食を済ませました。このデモの模様をメディアが伝えていないかチャンネルを回したのですが、TBSがわずかにちょっと取り上げていただけで他局は全くNHKはじめ取り上げていませんでした。
横になったものの、疲れているはずなのになぜか目がさえて、珍しくなかなか寝付けませんでした。
旅最後の日、三田の駅に荷物を預け朝の銀座でゆっくり朝食。銀座の裏通りの並木座(昔今はありませんがよく映画を見ました)あたりが私は大好きなのです。
8月1日。この日は映画の日でした。この日私は3本の映画を見ました。銀座のみゆき座でチャップリンの贈り物、私の親友が出ている自主製作映画を渋谷のアップリンクで、そして夜7時から文化村の、ㇽシネマで、伝説の写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画(監督はヴィムベンダースと、サルガドの息子さんのジュリア―のサルガドの二人)
セバスチャンサルガドのドキュメンタリー映画を旅の最後に見ることができた,出合ったこと、が今回の旅の白眉、最高の出来事となったことをとりあえず五十鈴川だよりに書いておきます。
映画を見終え、セバスチャン・サルガドの本を買い、夜行列車に乗るために田町で荷物をだし東京駅に向かいました。11時10分発まで時間があり夕食をしていなかったので、八重洲の地下のレストラン東京で、旅の終わりの祝杯を自分ひとりで上げました。
もちろん生ビールで、つまみは定番の餃子のみ、あのビールのおいしかったこと。約1時間盛りだくさんの今回の旅を反芻しながら 、生きて元気だからこその老春旅、家族はじめあらゆることにに感謝しました。
数十年ぶりの夜行列車は思ったよりも快適でした。すぐに眠りにおち気が付くと名古屋でした。顔を洗い少し体を動かし、コーヒーをのみ、さっそくサルガド氏の自伝を読み始めましたら、一気に引き込まれ西大寺に着くころには三分の二は読み終えていました。
このような写真家が現存していることは、私を大いに勇気づけ何やらこれから先の時間を有意味に生きてゆくためのエネルギーをサルガドさんご夫婦は、私に与え続けてくれるような存在になりそうです。
朝少し書いて、山陽カルチャーから帰って昼食を済ませ、少し昼寝をしたのちうだる暑さのなか、いささか朦朧としながら書きました。どのような旅であったのかが、ささやかにお伝えできればと思います。
8月2日、日曜日午後1時西大寺駅に着き旅は終わりました。炎天の中妻が迎えに来てくれました。
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