ついこないだまでの暑さがどこへ行ったのかと思わせるほどに雨が続き、今朝も雨音で眼がさめた。起きたばかりで頭は全然動いていないが、一気に涼しくなりこのまま秋が来るのかもわからず、何か天候がおかしいことは、多くの人が感じているのではないかという気がする。天変地異。
それにしても、列島各地をおそう集中豪雨はすさまじい、そのうえ竜巻。こうも自然災害がニュースで伝えられると、まさに災害列島というしかない暗鬱な思いにとらわれる。自分に被害が及ばない限り、そのような立場に置かれない限り、実感できない哀しさ。
家族そろって、平凡につましくその日その日が、質実に送れるということのなんという、当たり前の在り難さ。当たり前が当たり前ではないのだということに気づくまで、どれほどの時間が流れ過ぎたのかということをこの年になりようやく思い知る。
歳と共にこれはいいことだと自分でも思うのだが、金銭や物にたいする執着が(もともとあまりない)いちだんと減りつつあるのを感じている。移動しない限り、お金はさほど必要ではないということを、退職後(前からも)私はかなり実践しつつある。
出来る限りお金や物に振り回されない生き方のようなことが可能か、というようなことを意識的に生活している。先日も書いたがこれは身近に生活している母からの影響が多分に大きい。煩悩を抱えつつも、可能な限りつましくも生きる術を身につけたく思うのだ。
母や妻を見ていると、命を育む女性という存在は、男性の私には謎のように、母なる大地という言葉が、まさに至言だとおもわせるに十分である。他の女性は知らないが、一番身近なこの二人と数十年接していて、私は多くを望まない生き方に、限りなく惹かれてゆく自分を感じている。
私の場合、健康に動く身体と本、御米、さえあれば、一日は充分に有効に過ごせる今の暮らしである。
資本主義、発展の幻想、消費税、TPP,心の大恐慌時代がきているとしか思えない。心を豊かにしない経済活動や文化活動、お金で空気や海や山や川、愛や芸術や音楽を買う(買えると考える)という途方もない倒錯、果たして人を幸福にするはずだったお金の価値はどこにいったのか、哲学的に考察することが今一番必要な時代ではないのかという気がしてならない。
限りなくつましい生き方の中から私の中に見えてきた事。何はなくとも時は流れ、何もない、何も持たない、軽やかさに自分が救われるのだ。雨音を聴く、雨に打たれる花この葉を眺める、夜が明ける。何も持たずにこの世に生を受け、何も持たずあの世に還る。
このようなことを書くと、何やら悟ったかのような感、無きにしも非ずだが、若いころ世界のいろんな国を旅してきて思うのは、大人の国というのは静かであり、経済的な繁栄には遠い国の人びとの方が、眼が活き活きと輝き人間らしさに満ちていた真実である。
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