毎日ではなくとも4年近くブログを書きつづけてきて思うことは、よくもまあ他愛もない個人的徒然を書きつづけたという思いが最近している。以前は能天気に綴れたのだが、また今後だって、書くことに関しては、何とはなしに何とでもつづれはするのだが、どういうわけなのかは分からないが、グルーミイな気分にとらわれてしまう初老の秋のわたしだ。
いきなりこんなことを書くと、何やら元気がないように思われるかもしれないが、体調はとてもよく、個人的には充実した暮らしができる今の生活を、心から嬉しく思っている。
ただ、世の中の流れの大勢からは完全に自分がずれているのを感じるし、今後はそのずれを自覚的に生きてゆく中で、自分の居場所が見つけられれば良しとしよう、そんな思いにとらわれる最近だ。
さて、先週土日一泊二日、各駅停車の旅で、一度ゆきたかった上関町、祝い島に行くことができた。声高かにではなく、しずかに今のままの暮らしでいい、ということを信条に原発に反対ではなく、不要を30年以上にわたって島民(400人)が続けている祝い島。
結論から書けば、今後私はハッキリとこのように生きてゆけばいいのだということを教えて頂く旅となった。着いたのが夕方5時近く、日暮れまで島を少し散歩(小雨の中、島の中腹まで登ってみた)集落は港の一帯に集中していて、迷路のような路地に家がひしめいている。
翌日、祝い島でもっともゆきたかった、今回の旅の目的、平亀次郎(明治13年生まれ)さんの家族が親子3代で山を開墾し築き上げたという棚田を見るために、朝食後8時過ぎに出発した。宿からおおよそ3・5キロ、歩いていると日が差してきて汗が噴き出してきた。
途中誰にも出会わず、そろそろかなという感じで下りのカーブを曲がると、いきなり見事というしかない、そそり立つ岩壁の棚田が視界に飛び込んできた。まさに息をのむ偉容の棚田。山から出た石を利用して積んだというその棚田は、遠く佐多岬が一望できる抜群の場所に在った。
誰もいないその棚田の上を見上げると、青空の中に色づく稲穂が見える。棚田によじ登ってみた。絶壁の棚田に見事な稲穂が頭を垂れていた。そこからの眺めの良さ。久しぶりに心底感動した。
天空に浮かぶ棚田。棚田の下の中央に黒く塗られた作業ハウスがあるのだが、これがまたなんとも言えないたたずまい。これこそは棚田も含め真の意味での世界遺産だと、個人的に私は思った。
一人時間を過ごし、帰り道を歩いていると向こうから耕運機の音がする。すれ違い、挨拶すると息子さんの平萬次さん80歳であった。耕運機にのせて頂き再び棚田へ。直接平さんから、今は亡き亀次郎さんのことをうかがう事ができた。
80歳とは思えない、そのお元気さに先ず私は打たれた。聴けば小屋も亀次郎さんが山から松を切りだし、大鋸でひいて建てたのだという。子孫が飢えないように山を切り開き、棚田を作るという発想に、まさに明治人の意気、気骨を感じずにはいられなかった。
70過ぎてからは、作業小屋の2畳半位の囲炉裏のある部屋に寝泊まりして作業を続けられていたという、まさに、庶民無名列伝というしかない。
機械に頼らず、3世代で、家族であれほどの棚田の石を積み上げるど根性には、言葉がない。原発に頼らないと生きられないという、途方もない倒錯。30年以上にわたって黙々と原発不要を発信する島民の思いの中に、亀次郎さんのDNAが流れているように私には思えた。
帰りの船の時間が迫っていて、平さんと長くは御話は出来なかったが、お会いでき握手できただけでも幸運だった。家族のために、足るを知る生活で充分だという平さんの言葉は、おそらくこれからの私の足元を照らし続けるだろう。
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