うずたかく積まれたまきは何とも言えない |
私の冬のささやかな楽しみのひとつは、薪ストーブのそばで夕食後寝るまでのわずかな時間をすごすことです。もう14年間使っていますが、おそらくもっと歳を重ね、いよいよ薪割りもできない老人になってしまったら、眼鏡をかけて冬の夜長をこのストーブのそばで、本を読んでうとうとしている自分の姿を想像します。
この何とも言えない温かみを知ってしまったので、他の暖房器具では、私の心は温まらないのです。この間に使う薪の調達は、冬の私の仕事です。つまびらかには書きませんが、お休みの日の大事な私の仕事は、薪作りです。
夢が原でもこの20年くらい、斧で割り木を作っていたので、すっかり私は薪割りが趣味という域にまで達したかのように、好きになりました。夢が原での私の薪割りは二刀流で、これは私が編み出したやり方なので、我流なのでお勧めは出来ません。我が家で割るときは、斧一本で割りますが、これがとてもいいトレーニングになるのです。
昨日もお昼まで、ずっと薪作りを続けました。もうこれでこの冬は充分間に合うくらい作ることができました。私が薪を割り、妻が木の皮とか、屑がたくさん出るので(チェーンソーの屑とか)それを片付ける、コンビでの作業なのですが、妻も最近ではすっかり薪ストーブの虜になっていますから、身体を使う労働も楽しんでやっています。
もうおそらくこのブログを始めたころから、繰り返し書いていると思いますが、やはり何事も急いだら、怪我をします。斧をコントロールするには、身体と心が上手く合っていないと無理なのです。これはあらゆる仕事、労働に通じることだったのですが、この半世紀で、ヒトは自分の身体(の奥深いところを)を使うということを、ほとんどといっていいくらいしなくても生きてゆけるようになった(と錯覚している)がために、自分の身体であるのに、自分の身体のことが、解らなくなっているのではないかという気がします。
まっとうに自分の身体を動かして、その労働に報いる形でサラリーを得ていた半世紀前までは、まっとうな感覚の大人が(第一次労働や手仕事、身体全部を使ってする、あらゆる仕事は、心の豊かさも育て、ヒトの痛みもわかった)わんさかいたように思います。
マネーゲームで得た金と、一日身体を使って得た金の、本質的な価値の違いが、まったく分らない大人たち社会の恐ろしさを、佐藤優さんも憂いています。金儲けよりもものを作ることに喜びを見だすヒトの多い国、社会の方がまっとうだと思います。社会をよりよくするためにお金を使う、富がどこかに集中し、そのお金が不気味なことに使われるような社会は、私は御免です。貧しくても笑っていられる社会がいいのです。
肉体が、文明という快適幻想に、すっかり覆い尽くされつつあるのではなないかというのが、この数十年の私の認識です。大きないかんともしがたい流れには、抗するべくもないのですが、だからと言って、手をこまねいている必要もないではないかというのが、私の認識です。
文明(その恩恵には充分感謝しつつも)幻想に、一抹の疑問を持つ者としては、小さきことを、先ず自分の暮らしの中で、実践することくらいしかない、身体が動くうちに自分の身体を使うことの中で、何かささやかに、機械や数字にあやつられない、まっとうな、昔人たちの、声なき声を聴きとる訓練を、とりあえず虚空の下、斧で薪を割りながら、思念中です。冷えていたからだもぽかぽかし、血が温まります。
そういえば、上京した田舎者の私を、血は立ったまま眠っている、という言葉で私を驚かせた寺山修二が亡くなってから、今年30年になります。
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