3月10日、今日は亡き母の命日です。そして一度に10万人以上の方がなくなったという東京大空襲のあった日、そして明日は東日本大震災原発事故から丸二年です。あれよあれよという間に時が流れ、あっという間にいろんなことが風化してゆく、ように思える。
岡山で暮らしていると、フクシマのことも、私自身、悲しいかな身をきられるような実感の乏しさ、想像力の欠如はいかんともしがたく、日々の平凡な日常の中にまるで何事もなかったかのように収れんしてゆくことの不気味さを、そこはかとなく感じる。無痛無思考感覚。
個人的に、厳冬期から3月にかけては、家族の(義父、両親)亡くなった日や、妻や私の誕生日が、交互に訪れてくる季節なので、否応なく死と生について思いを馳せることが多く、この時期に(この十数年)今年何を企画するのかということを考えてきました。
ネパールの音楽、ペルシャ音楽、中村哲先生の講演会、南インドの古典舞踊劇クーリヤッタム、アレクセイと泉,プージェー、光、邦楽番外地などなど、なんとか、子育てしながら、この厳しい時代に、ひとりの庶民の立場で(妻の限りない理解の中で)企画が続けられている、幸運は、言葉にはならない。
どんなことも、念い、動き、悩み、考え続けることの中からしか企画のひらめき、情熱は湧いてきようもない。若いころから全く物事を知らないことが、逆に私を奮い立たせてきたようにも思えます、何ごとも当たって、やってみないことには解らないという永遠の真理。下手な理念より、ひとつの実行、愚者の一念。
空振りを繰り返し、何度も恥をかき、才能のあるなしなんかを気にせず、自分を信じて企画を続けてきました。その湧いてくる熱のようなことの、自己分析的なことは今しばらく置くとしても、おそらくこれからの私は、死者たちの声なき声に、もっともっと耳を傾ける力を身につけてゆきたいという思いにとらわれている。
知らないことが恥ではなく、知っていて何もしないことが、恥ずかしいという思いなのである。素直に耳を傾け、虚心坦懐にすぐれた作品(あらゆる先人たちの言霊、音霊、魂の発露、うまい下手とかコンクール一位とかではなく、揺るがない根のある表現者)の声なき声を、今を生きる私の精神と身体で聴きとる訓練をし、恥をかきつつ自分自身表現もし、企画もする。
音楽会、声を出す塾(大人・子供対象)、DVD映画会、トーク・朗読会、講演会、なんであれ、私の身体を通してボーダレスに表現してゆく。日高奉文が独りのタレントとして、残りの人生の時間を(自己表現できる間)4月から新に出発します。
私のブログを読んでくださっている方は御存じだと思いますが、オロというチベットの映画の自主上映(秋に予定)。それから、ヒダカトモフミ・61歳人生途上トーク&朗読会第一弾を、先ずは5月に企画します。
折々は、一番先にブログ五十鈴川だよりでお伝えしますので、可能ならパソコンをされる方は、お気に入りに入れてチェックして下さるとうれしいです。可能な限りは通信的案内も100通くらいは出し続けたく思っています、縁のある方々に。
ヒダカトモフミ個人応援会員も一年一年募ってゆきます。どうか御支援くださいますようお願いします。
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