夢が原で過ごす時間も何やら私にとっては、秒読み取いう感じになってきました。丸21年間ひとつの職場にいたことがない人間としては、やはりよほどの何かの巡り合わせというほかないくらい、私にはジャストフィットの職場であったのだと思う。
がしかし、何事にも潮時、時の流れ、決断しなければならない時というものがある。やがてはいつに日にか、ゆっくり夢が原のことも、また、その前までのことも振り返ることがあるかもしれないが、今はただ、今日一日をしっかりと働く、生きるということしか考えていない、自分がいる。
もうおそらく、することはないかもしれない茅をそぐ単調な作業をこのところ寒い中続けているのだが、そのことが全く苦にならない、無心で体を動かせる自分がいる。気がつくとあっという間に一日が経ち、身支度を整え自宅に向かう。
夢が原から新倉敷までは車、電車の中ではくたびれた体に栄養になる本を(行きと帰りでは読む本が異なる)読む。あっという間に西大寺に着く。とっぷりと日が暮れ、家まで歩く。3か所角を曲がると家の明かりが見える。
一足先に帰って、妻が薪ストーブに火を入れ部屋を温めてくれている。妻との愛犬メルの散歩、夕飯と週に4日はまるで、判を押したかのような平凡の極みのような生活が、昨年の邦楽番外地を終えてから続いている。
もうあとわずかで、そのような生活も終わりになる。こんなことを書くと何やら侘しさを伴うが、私の中では意外とすっきりしているのだ。自己分析的な趣味は持ち合わせていない、性格的なものかもしれないが、ケセラセラ、人生はなるようにしかならない、その時点で万事を尽くす、という感じで生きてきたのだから。
今後のことも考えないではなく、考えていると言った按配で、多寡をくくっているのではなく、今日一日をきちんと、3月末まで働きたいという心境。ただ、4月から22年ぶり生活が一変するということに関して素直に嬉しい。
夢が原からある意味では、解放されるのだ。何かを断つことによってしか、新しい世界は見えてこない。私としては今後どのような展開の人生になるにせよ、何かに導かれるままに、無理なく自分の感覚に添った生き方を模索してみたいのだ。幸いというしかない伴侶に恵まれ、これからの身の振り方は、4月1日から、身体を動かしながらゆっくり考えたい。
昨日の朝屋敷はうっすらと雪化粧をしていました |
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