全編英語で書かれた娘の卒業論文 |
後ろ髪をひかれながらも、私がこの世を去るときに、共に燃やしてもらいたい、頂いた便りや写真、またこれまで企画したポスターやチラシなどどうしても処分できないものを除いて、昨年暮れから、時間をかけてゆっくりと処分している。
この数年、2階の書斎に足を入れるのが、実はすごく億劫になっていたのだが(私はこの数年ほとんどの時間を一回の和室で過ごしている、ブログも正座して書いている、ときおり胡坐も書きますが)思い切って足を踏み入れ、整理を始めているのである。
東京を去るときに、かなりの本なども処分したのだが、18歳から20代の終わりまでに、生きるのに忙しく、なかなか腰を落ち着けて読めなかった、若い時だからこそ背伸びして乏しいお小遣いの中で、買い求めた本が(難解な演劇書や観念的な本が多い)いまだ棚の中に眠っている。
おそらくはもう読むことはないのだとは思うのだが、手放せないのである。手にするとその本を買った当時のあれやこれやが、思い出されてきてたちまち、もの思いに耽ってしまう。したがって、整理は遅々として進まないのだ。
性格的に私はきれい好きだとは思うが、整理好きとはいえない私なのである。その欠点を我妻は補って余りある能力の持ち主なので、彼女に相談すると的確に助言してくれるので、私も思いきれるのである。
それにしても、人間とは記憶の生き物、人それぞれいろんな事象にこだわり、執着して生きていることであるかと、我ながら途方に暮れ呆れてしまう。でもそれがまだ現時点での私なのであるから、還暦を過ぎたとはいえ、様々な煩悩を抱え、凡人としての現在を生きる他はないのだ。
というわけで、お休みの日に時間を区切って、なんとか3月末までには、書斎に入るのが億劫にならない程度には、片付け、整理し過去の思いのもろもろを内包しながら、次なる新しい人生の時間に進みたい、と考えている。
立ち止り深呼吸しながら、転機にあらゆる整理するということは、やはりとても大切なことだと痛感する。いくつになっても若いころの多感な時期に、感動したり経験したことが、自分のその後の人生に大きな影響を与え続けている、ということがあらためて覚るのだ。
加齢と共に、感動するばねは自然と弱まってゆくのが、当然のことなのかもしれないが、感動するということは人間に与えられている最高の宝のような感情であると、深く認識している私にとっては、その感情だけは、一日でも長く持ち続けたいので、そのためにはどうしたらいいのかを乏しい頭で、身体を動かしながら、読み書きしながら考え続けたい。
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