ブログを書き始めて3年以上経ちますが、2月5日は父の命日でした、という書き出しで書くのは初めてです。先日父の書き遺してくれた文章について少し触れました。
私の少年期から思春期にかけて立ちはだかった大きな存在としての父のことは、おそらく私がこの世を去る刹那まで、意識というものがはっきりしている間は、消えることなくときおり、浮かびあがり、繰り返し生き続ける、そんな気がします。
思い出す父のことなど、書けるときに書いておこうと、最近そんな気にいなっています。(もちろん母のことも、この両親あっての私なのだということを思い知る最近の私です)
先ほどお線香を立て、何も考えず手を合わせました。年々落ち着いて手を合わせられる自分がいます。私が世の中に出た18歳の時、父は53歳でした。振り返ると父が元気なうちに父の少年時代や戦前のことをもっと、個人的な体験として聞いておきたかったという後悔の念が私にはあります。
引き揚げ体験のことは、大変だったというのみで、多くは語りませんでした。藤原てい著・流れる星は生きている・を読んで全くその通りだったと語るのを高校生くらいの頃聞いたことがあります。(後年この本を読みましたが、日本人必読の本だと思います)
ゆっくり里帰りできるようになったのは、私が岡山に移住してからです、当時父は70代半ばになっていました。私の娘達にもお年玉をくれる好々爺になっていました。小学生の時のあの怖い父親の片鱗はもうどこにもありませんでした。5人兄姉弟、4番目の私は両親にたいして何も親孝行出来なかったことがいまだに、心のどこかで悔やまれます。
母は西大寺で私の企画したインド音楽を一度だけ聞いてくれましたが(インド音楽に身をゆだね、気持ち良さそうに寝ていた姿を思い出します)、父はとうと私が企画したものは、一度も耳にすることはありませんでした。
ただたった一つよかったのは、娘たちの記憶の中に両親の姿が残っているということです。父が亡くなり、お葬式の時、臆面もなく涙する私の姿を長女はハッキリ記憶していると言います。
娘たちに、小さいころ私が過した故郷を感知してもらいたく、節約しながら車に娘たちをのせて、何度も連れて帰りました。夜仮眠をとりながら(娘たちはシートを倒して横になって寝むれるくらい小さかった)走り、早朝、高千穂に着いて、そこで娘たちと誰もいない清流の水で顔を洗いました。頻度は少ないにもせよ、私の故郷は彼女たちの中にもいくばくかは伝わったかと思います。
お金が浜で(サーフィンで有名)小学生の娘たちは何度も波遊びをしました。波と興じる娘たちの姿は、まるで夢か幻のようにいまだ私の脳裏にくっきりと焼き付いています。
娘たちは大きくなりました。これからまた時が流れます。ようやく、やっとここまでたどり着きました。
ちょっとピンボケでごめんなさい |
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