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2013-02-13

歩くということの、新しい喜びを昨日少し感じました。

福島の雪に覆われていた砕けた防波堤

昨年の還暦の誕生日は、岩手県、遠野のボランティアセンターで迎えたことは、今でもはっきり脳裏に刻まれている。あれから1年がまたたく間に過ぎたのだが、私の中ではいろんな意味で、あれから自分が少しずつ変化してきていることが自覚できる。

 

あの被災地の現場を、わずかな時間ではあったけれども、全身で寒い中感じられたことは、今もささやかに、私にどんなことがあっても生きてゆかねばならないという、何か言葉化できない、感情を植え付けたように感じながら、一年後、先ほど起きて61歳の生誕の朝を静かに迎えている。

 

話は変わりますが、私はほとんど人生の訓話のような本は読まないのですが、妻が図書館から借りてきた本を犬のメルが悪さして、図書館には買って返すことになったのだが、たまたまその本を手にした(天台宗の千日回峰行を2回もやられている、御住職の本、単純ですばらしい)ことから、最近のことなのだが急に歩くことに興味が湧いてきつつあるのだ。

 

私のことだからまた急に関心がなくなるかもしれないのだが、思いついたら吉日ということで、昨日はお休みでしたので、天気も良かったし、自宅から東岡山まで歩いてみることにしたのですが、これが思いのほか、ひとりで楽しく歩くことができたのは、意外な発見でした。

 

身体を動かすということは、夢が原でこの21年間普通の生活をしている方に比べたら、随分動かしているとは思いますが、長い距離を歩くということは普段あまり意識してやったことはないので、意識してやってみいたいという自分が、最近います。

 

ある程度の距離を、さほど億劫にならずに、歩くことが楽しめるというのは、年齢を重ねれば重ねるほど、楽しく、また嬉しいことなのではないかということが、昨日歩いてみてハッキリ自分の中で覚ったのである。

 

西大寺から東岡山まで9キロくらいですが、1時間20分で歩くことができました。これから天気のいい休日は、お結びを持って歩くことを、あえて意識的にやってみようという気になっています。何故こうも寝たきり老人が増えてきつつあるのかということに関しての私なりの考えは、やはり体を現代人は昔の人と比較して動かさなくなったから、ということに尽きるのではないかというのが、現時点での私の結論です。姿勢が悪い。

 

だから、私はいよいよもってこれからは、歩く、身体を動かす、声を出す、読み書く、人と話す、こんなことを意識して心かけたいと思う、61歳ほやほやの朝です。

 

 

 

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