この一年、夢が原のことは、ほとんど触れておりませんが。来年の春からは新たな人生を生きることになりますし、頭の中の意識を変えたいということもあります。通勤生活も余すところ、お正月を挟みあと4カ月となりました。週に4日を噛みしめるように働いています。
18歳、上京する時から、何かを決断する際、どんな境遇になろうとも、けっして後悔しないように生きてきました。二十歳の時、いちど日本を外から見てみたいと思ったこと、(自費留学なので、アルバイトに明け暮れ実現するまで、5年かかりました)帰って、27歳で文学座を受けた時。31歳で富良野塾に行ったとき。34歳でアフリカに行ったとき。40歳で夢が原を受けた時など。
この21年間は、右往左往してきた私の人生から見れば、めずらしく一か所に落ち着いた、充実した時間が送れた(いまはまだ振り返ることはしませんが)ことは、かえすがえすも幸運なことであったと、実感します。それまで、夢多き多くの時間を生きてきた私に、中世(夢が原)という名前の職場が与えられたのですから。
この21年間、朝起きるのがつらい日はあっても、職場にゆきたくないと思ったことは一度もありません。それほどまでに、夢が原は私には合っていた、初めての職場でした。21年間、我ながらよく通ったと思いますし、壮年期をこんなにも充実して過ごせたことは、今後、いよいよ晩年ライフを生きてゆく上で、限りなく豊かな、土壌を私の中にもたらしてくれたという実感が私の中にあります。
だからこそ、私は夢が原を卒業し、次のステップに足を踏み出したいという、決断をしたのだと思います。
何事にも、自分にしか感知しえない潮時というものが、あるのだということしか今は言えません。
決断したら、振り返らずこれまで通り、前を向いて歩むしかありません。いつも一人で決めてきました。そんな私の生き方を、幸せなことにわずかな方ではありますが、見守って支えてくださいました。感謝の一年しかありません。だからこそ、私は還暦まで生き延びることができたのです。
今後も私に与えられた時間を、大切に生きてゆく、極めて当たり前のことを、私なりに普通に過してゆくということの思いしか今はありません。良寛さんのように、あるがままの寿命というものを、見据えながら、私ごときながら、日々を送れる喜びを見つけてゆきたく思います。
性格的なDNAは不変なのかもしれませんが、可能なら根本的にライフスタイルを変えてゆきたいという念いが私の中に起こっています。いうにいわれぬ湧きあがる思いというのは、つまりは生きているからしか起こり得ないのですから。
こんなことを書くつもりでは全くなかったのですが、休日の朝パソコンを開いたら、こんなブログになってしまいました。人間という生き物(私のことです)はまったくもって自分の思い通りにはならない、やっかいな存在です。娘が起きてきました。メルの声、妻の声が聞こえてきます。一日の始まりです。
添田唖蝉坊が在りし日訪ねた玉島の羽黒神社 |
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