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2012-10-27

邦楽番外地・11月25日が近づいてきて思う


9月7日の邦楽番外地を終えて、11月25日に玉島の円通寺で、午後2時半から土取さんの独演会をすることにしましたが、あれよあれよと、時が流れもう一月をきってしまいました。

 

個人でやっているので、ほんとうに人が来てくれるのか、邦楽番外地だけは今まで、企画してきた中で最も反応が鈍いので、正直大変なのです。でもぼやくのは私の性に合いません、賽は投げられ決断したのは私なのですから、当日までやれる限りのことをやってみます。企画できる間は、当たって砕けるの精神力がなかったら、とても企画はできません。

 

不思議なのですが、苦労した企画ほど心に残るのは、何故なのでしょう。ともあれ、本番まであと何回か、聴きに来てくださいのお願いを、このブログを通じてすることになるかと思います(溺れる者はわらをもつかむの心境)、演歌に関心が弱くとも来られた方は、意外な世界を体感することになることに、きっとなります。どうか友人知人お誘いい合わせの上、いらしてくださいと、私としてはお願いするのみです。

 

さて話題を変えて、企画のことを別にすれば、個人的には体調も回復し、極めて充実した秋を過しています。身体にとてもいい気候で、何よりも本を読む時間の幸福は、個読ならではのものです。若いころに読んで、理解できなかった本とか、読み進むのに気が重かったような本が、歳と共にしみいるように読めるようになってきた自分を、(ようやく穏やかな時間が過ごせるようになってきて)感じるのです。

 

どんなことでもそうですが、好きなことは続けられます。添田唖蝉坊演歌の歌詞ですが、あんたこの世に何しに生まれてきたの、という問いは、自分に問い続けられる感覚が(あるいは勇気が)ある間は、生きてゆくあらゆることの時間を過しながら、考えるに足る永遠の問い、なのではないかと個人的に私は考えます。(それが企画を生む)それがこの年になると、ある意味でもっとも贅沢な時間の過ごし方かもしれないという気がするのです。

 

なにもない空間、私が尊敬する世界的演劇人ピーターブルックの名著です。プロジェクトEMPTYSACEは私が企画する際使用している標示。恐れ多くも、かってに少し変えて使わせてもらっています。この地球という惑星に、裸で生まれて裸で死ぬ。

 

私が土取利行さんの世界に惹かれるのは、言葉では言い表し得ぬ、まだ人類が言葉を持ちえていないころから、ヒトという生き物にとって・音とは何かという問い・を、また音を発する身体についての考察を一貫して続け、そしていま,唄(歌)とは何かという、根源的な問いを演歌を通じて、現代社会に鋭く投げかけているというその一点に、音楽家という枠ではとらえられない、真の意味での芸術家というしかない行為を感じるからです。

 

持たない演劇、肉体の神秘を演劇化することに生涯を終えた、ポーランドが生んだ、稀なこれまた世界的な演劇人、イエジェイ・グロトフスキーは・演劇とは出会いであると・言っています。異質なものとの出会い、あるいは尊敬のなかから崇高な何かが生まれてくる。

 

この二人の天才の書物に、若いころ演劇をたまたま学んだおかげで、巡り合えた私は幸運だったとこの年になって、思います。

 

 

 

 

 

 
1971年に買った(私が19歳の時)初版本

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