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2012-08-23

山本美香さんのご冥福を祈ります

山陽新聞の記事(伝える人がいないと伝わらない)

シリアのアレッポで、日本人女性ジャーナリストが銃撃されて亡くなったというニュースと、銀座でオリンピック選手団がパレードしたニュースは、私の中であまりにも対照的で、何の整理も意見も言える立場にはないのだが、どう表現していいかわからないくらいに、世相は混沌の度合いを増してきているように感じるのは、私だけだろうか。

 

信頼している表現者、藤原新也さんのWMを開いてみると、やはりすぐにシリアで亡くなられた、山本さんのことに触れておられたし、銀座のパレードに対する違和感も述べられていた。

 

そのほか、竹島や尖閣諸島の領土問題に関するニュースなど、一個人の能力を超えたあらゆる大問題が山積みのまま、未整理のまま浮遊状態で、日々生きてゆかざるを得ないというのが、私の庶民的な日々の思いである。福島の原子力事故その後も、つぎつぎと流されるいわば新しいニュースの陰で、日増しに弱くなってゆく現実があるように感じる。

 

そのいかんともしがたい、忘れられてゆく(自分のことです)日々を生きながらも、ささやかにではあれ、感覚のアンテナを立てていないと、暑さと共に、無感覚になってゆくのではないかという怖れが、かろうじてまだ私の中にはある。

 

そのような移ろう日々の思いの中で、私にとっての大きな企画である、9月7日の邦楽番外地の告知記事が昨日の山陽新聞(実によくまとめられている)に出た。その記事を読んだ方から、チケットがほしいという電話を(1人だけですが)頂いた。今の世相の中、明治、大正時代時代の演歌師の唄に耳を傾けてみようという琴線の持ち主が、どれくらいいらっしゃるのかは、企画者としては皆目わからないというのが正直な気持ちです。

 

ただ私にとっての企画というのは、何回も書いていますが、重い荷物を担いでの山登りのようなものなので(一年に1回か、2回が限界)わたしにとっては、かなりの冒険なのです。わずかではあってもかまわない、なんとか生きて企画ができればいいのですから。誰も来なくなったら出来ないのですが、ハラハラドキドキしながらも来てくださる、素敵な(私にとっての)御客様がいるのですから。

 

私のように、戦後の物質的に豊かな世界に大部分を生きてきた者にとっては、これからどのような時代がやってくるのかということに関しては、かなり悲観的にならざるを得ないような状況がひたひたと押し寄せてきているのではないかという思いを禁じえない。

 

時代は変わる。ヒトも変わる。だけれども、変わらないものも存在する、それは何か、そのことを考え続ける中からしか、私にとってのささやかな企画は生まれてこない。

 

自在な遊び心、しかないというのが、現在の私の認識だ。ややもすると遊ぶということは誤解を招きやすいが、学ぶことも、働くことも含めて、分けて考えること自体が、精神を窮屈にさせるという気がしてならない。

 

還暦で一巡り、これからは可能な限り遊べる間は、身も心も開放して正直に遊ぶ。遊びをせんとや生まれけん、という言葉の意味は限りなく深い。

 

シリアで亡くなられた山本美香さん、覚悟してジャーナリストの道を選ばれたのだと思う。何かを知らせ、伝えることに命を賭ける人もいる。

アレッポという地で亡くなられた、彼女のことは私の胸から消えることはない。

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