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2012-08-28

Kさんご夫婦と出会い、至福のひとときを過ごしました。

こじんまりとした夢の砦

21年通った、中世夢が原を辞めるということは、やはりいろんな意味で、なかなか余人には、伝えにくい思いがあることもあるのですが、昨年の暮れ退院した時点から私の中では、一度全てをリセットしないことには、やがて悔いが残るということを、直感的に自覚し決断しました。ここにいたのでは、新しいヒトとの出会いの可能性は限りなく、少なくなるという思いです。

 

まだ来年の3月末までは働きますが、意識が変わるとやはり緩やかに全てが変わってゆくということを感じつつ、これからの未来の自分自身の生き方を見つめながら働いています。

 

そんな中の昨日、本当に久しぶりに、夢が原を辞めるという決断をしてよかったと思える出来事がありました。この数年私の企画する音楽会の音響をして下さっているY氏が、私に逢わせたい御夫婦がいる、とのことで、何かピーンと来るものを感じた私は、Y氏にお会いしたい旨伝えたら、すぐにアレンジしてくれ、お会いすることが叶いました。

 

詳しくは記す余裕がないのですが、関東から移住され、その素敵な生き方を選択された、K御夫婦の住処は庭瀬の駅からから車で10分位の里山の近くの田園風景の中に在りました。すぐそばをきれいな用水路が流れています。家の内には、なんとヤギが飼われていて迎えてくれました。古い民家を改造し、ガラスアート(素晴らしいステンドグラスの数々)とカフェ(棚には絵本がぎっしり)をされ、静かで落ち着いた晩節の生活が感じられる、何とも素敵な空間(豪華さの対極にある)でした。

 

初めてお会いするのにいきなりうちとけ、本当に久しぶり、記憶に残るほどに私自身がいろんなことを話す(まるで積年の思いが吹きこぼれたように)ことができたのは、ひとえにK御夫婦の飾らない、懐の深さがあるからこそ、私はまな板の上の鯉のように、お話が途切れることなく、気持ちよく転がったのだろうと、今ブログを書きながら感じています。

 

それほどに、なんとも言えない安心できる雰囲気が、Kさんち、には充満していたのです。書きながら、またゆきたい思いに駆られます。お二人は毎月第三土曜日、昔の名画の上映会(私もKさんのお宅で毎月何か企画したくなりました)もされています。なんとKさんは、日本を代表する名監督、木下恵介氏の甥ごさんなのです。びっくりです。

 

 

驚きは次々に起こり、当日は所用でゆけないのに、私の企画の9月7日のチケットも3枚購入して下さり、何と、いきいき(呼吸・意気)遊心塾にも参加したいと、奥様がおっしゃってくださったのです。感覚的に通じ合える、意気に感じる、遊びあえる塾仲間が増える、嬉しい。私の考える塾は、声と身体を動かして遊ぶことが基本です。

 

やはりヒトとの出会いの中からしか、豊かな関係性は生まれてこないのだという思いが私を包みました。初めて、夢が原を辞める決断をしてよかったと思いました。

 

夢が原を辞める決断をしなかったら、先ずKさん御夫婦にお会いする可能性は限りなく低かったと思います。大好きな月を眺めながら、帰路につきました。

 

 

2012-08-23

山本美香さんのご冥福を祈ります

山陽新聞の記事(伝える人がいないと伝わらない)

シリアのアレッポで、日本人女性ジャーナリストが銃撃されて亡くなったというニュースと、銀座でオリンピック選手団がパレードしたニュースは、私の中であまりにも対照的で、何の整理も意見も言える立場にはないのだが、どう表現していいかわからないくらいに、世相は混沌の度合いを増してきているように感じるのは、私だけだろうか。

 

信頼している表現者、藤原新也さんのWMを開いてみると、やはりすぐにシリアで亡くなられた、山本さんのことに触れておられたし、銀座のパレードに対する違和感も述べられていた。

 

そのほか、竹島や尖閣諸島の領土問題に関するニュースなど、一個人の能力を超えたあらゆる大問題が山積みのまま、未整理のまま浮遊状態で、日々生きてゆかざるを得ないというのが、私の庶民的な日々の思いである。福島の原子力事故その後も、つぎつぎと流されるいわば新しいニュースの陰で、日増しに弱くなってゆく現実があるように感じる。

 

そのいかんともしがたい、忘れられてゆく(自分のことです)日々を生きながらも、ささやかにではあれ、感覚のアンテナを立てていないと、暑さと共に、無感覚になってゆくのではないかという怖れが、かろうじてまだ私の中にはある。

 

そのような移ろう日々の思いの中で、私にとっての大きな企画である、9月7日の邦楽番外地の告知記事が昨日の山陽新聞(実によくまとめられている)に出た。その記事を読んだ方から、チケットがほしいという電話を(1人だけですが)頂いた。今の世相の中、明治、大正時代時代の演歌師の唄に耳を傾けてみようという琴線の持ち主が、どれくらいいらっしゃるのかは、企画者としては皆目わからないというのが正直な気持ちです。

 

ただ私にとっての企画というのは、何回も書いていますが、重い荷物を担いでの山登りのようなものなので(一年に1回か、2回が限界)わたしにとっては、かなりの冒険なのです。わずかではあってもかまわない、なんとか生きて企画ができればいいのですから。誰も来なくなったら出来ないのですが、ハラハラドキドキしながらも来てくださる、素敵な(私にとっての)御客様がいるのですから。

 

私のように、戦後の物質的に豊かな世界に大部分を生きてきた者にとっては、これからどのような時代がやってくるのかということに関しては、かなり悲観的にならざるを得ないような状況がひたひたと押し寄せてきているのではないかという思いを禁じえない。

 

時代は変わる。ヒトも変わる。だけれども、変わらないものも存在する、それは何か、そのことを考え続ける中からしか、私にとってのささやかな企画は生まれてこない。

 

自在な遊び心、しかないというのが、現在の私の認識だ。ややもすると遊ぶということは誤解を招きやすいが、学ぶことも、働くことも含めて、分けて考えること自体が、精神を窮屈にさせるという気がしてならない。

 

還暦で一巡り、これからは可能な限り遊べる間は、身も心も開放して正直に遊ぶ。遊びをせんとや生まれけん、という言葉の意味は限りなく深い。

 

シリアで亡くなられた山本美香さん、覚悟してジャーナリストの道を選ばれたのだと思う。何かを知らせ、伝えることに命を賭ける人もいる。

アレッポという地で亡くなられた、彼女のことは私の胸から消えることはない。

2012-08-19

手で書いている、素敵な文章を、猛暑のなか見つけました

書くという行為は、消えつつある中、手で書いている文章をこれからは見つけてゆきたい

かすかに始発電車の音が聞こえ、夜が明けてきた五時半過ぎ、なにも考えずボーっとしながら、パソコンに向かっている。歳のせいばかりではないようにも思えるのだが、この何とも言えない湿度が高く、温度も高いいわゆる日本の夏に、いささか参っている私の身体である。でも生きているから、何か書きたい。



猛暑の最中、この2カ月週4日働きながら、9月7日の企画イベントに向かっているので、自分で決めたこととはいえ、苦戦しながら、青息吐息の夏を過している。しかし、生来の能天気体質といいますか、後ろを振り返らない性癖は、何とかは死ななきゃ治らないという感じなのです。



21年間、いろんな企画をやってきておりますが、本当に人が来てくれるのだろうかという、言うに言われぬ不安感は、おそらく企画を辞めない限り、私の脳裏から消えることはないでしょう。自分で言うのもなんですが、よくもまあ、なんとか企画が続けられている我が身の幸運を、謙虚に感謝しています。



何度も綱渡りのような企画をしながら、止めないというのは、何故なのかという問いは、今はまだ考えたくはないというのが、正直な気持ちです。やがて身体が企画することを欲しなくなったときに、まだ思考能力があれば、その折にゆっくり考えてもいいし、父親がいろんな思いを胸にしながらも、何も語らず(語れず)、潔くあっけらかんと、あちら側に往かれたように、私もかくありたいという父の血が流れているようです。



こんなことを書くつもりではなかったのに、書いてしまうところが、身体は正直です。さて話は変わり、これからのいかんともしがたい、先の見えない晩年ライフをいかにお金に頼らず生き抜いてゆくかという知恵を、昨年マイコプラズマ肺炎を患い、10日ほど入院し、退院してからおおよそ10カ月私なりに実践しています。



その結果、私はいきいき遊心塾(意気・粋・遊心塾)を始めたのですが(今のところまだ試行錯誤段階ですが、私自身が実に楽しいのです)、自分の身体で、遊ぶというのか、自分に気づくということが(発見する)、面白いのです。



またもや話変わり昨日の午後、冷房もかけず汗をたらし(ガマの油のように)ながら、溜まった新聞を約2時間かけて主に、書評と文化面を中心に読んでいたら、山田稔という作家(82歳)の忘れられたニッポン(あいまいさというエッセイ)という文章に目が引き付けられました。その中に、江戸中期の俳人横井也有(やゆう)の狂歌が引用されていました。



くどふなる・気短になる愚痴になる・思いつくこと皆古ふなる。とありました。

もうひとつ、詩人伊藤新吉の言葉も。



私はこれからは愚痴を大事にしようと思っている。愚痴は人生最後のレジスタンスだからである。こう書いたとき、彼は九十五歳だった。



本物のインテリジェンスがにじみ出るような、何か自分と響き合うような、感性の文章に巡り合うのを、見つけた時はささやかに幸福になる。一円もかからない喜び。



こないだ聴いた土取さんが歌う演歌の中に、あなたこの世に何しに生まれてきたの、というフレーズがありましたが、人生の持ち時間が少なくなるにつれて、この永遠の問いは、今後もやむことなく、私の中でささやきつづけるような気がします。ささやかなくなったら、ブログを書くことも、おそらく無くなるだろうという気がいたします。

2012-08-17

土取利行さんの邦楽番外地を聴きに行きました

立光学舎の中で音楽会開かれた

前回、岐阜県は郡上八幡にある土取利行さんの住んでいる立光学舎で行われた、邦楽番外地、明治大正演歌の世界の音楽会を聴きに出かけたことはお伝えしましたが、音楽会のことについては触れていませんでした。



今年2月厳冬期に訪れて以来、半年ぶりの立光学舎についたのは午後二時半、周りの景色は雪の世界から一変していた。郡上八幡の市内から、10キロくらい離れた清流吉田川のすぐそばに立光学舎は在る。



午後3時、地元や遠方から来られた、熱心な御客様でほぼ満員の中、郡上の唄から静かに始まった。つぎつぎと、初めて耳にする昔の日本の唄がおおよそ15曲、土取さんの語りと共に進んでいった。演説が演歌に変化したのが、語源の由来、そんなことすら私なんかの世代は知らないままに生きてきたのだ。



商業主義とは無縁の世界の中で、いわゆる庶民が街角で歌っていた私の知らない歌の数々を、パーカッショ二ストの土取さんが今は亡き桃山さんになり代わって歌うという、なんとも形容しがたい不思議な音楽体験をした音楽会となった。先人たちの念いが土取さんに乗り移り伝わってくる。真の音楽家はやはり、シャーマンなのだと思う。



桃山さんは土取さんが、桃山さんの三味線を手にして、歌っているのを耳にし、冥界でおそらくびっくりされていると思う。土取さんもよもやまさか、桃山さんが添田知道さんから習った演歌を、自分が歌うことになろうとは思いもしなかったに違いない。



確実に言えることは、土取さんが桃山さんの思いを受け継いで、今という不気味な時代に、このような形で、先人たちの命を籠めた魂の唄の数々を復元して、ライブという形で会を開いてくれなかったら、と考えると、これこそが芸術家の仕事である、としかいえないし、思えない。



さて、もうすぐ西大寺でも聴くことができるのだから、是非直接、添田唖蝉坊、知道、親子二代、明治大正演歌の世界を、土取さんの唄声で聴いてもらいたいと、企画者は一人でも多くの方にと願わずにはいられない。どのような歌の数々が披露されたのかは、ここでは触れないことにします。

2012-08-15

涼しく快適、忙中閑あり集中読書旅

郡上八幡への往復でゆっくり読むことができました

日月を利用し一泊二日、土取利行さんと桃山春衣さんが25年くらい前に創られた芸能堂、いわゆる御二人の思いが込められた、岐阜県は郡上八幡にある・立光学舎・で行われた、邦楽番外地という音楽会を聴きに行ってきました。



メンバーは9月7日、西大寺観音院に来てくれるメンバーと同じなので、企画者として、何としても事前に聴いておきたかったのです。



お盆まえ、慌ただしくはあったのですが、読みたい本を手に岡山から岐阜は行きも帰りも在来線の旅(私は時代とずれているのもありますが、在来線のゆっくり旅が好きなのです、おまけにお金はかからない、早い遅いと言うだけで時間は一定なのですから)岐阜から郡上八幡はバスを利用しました。



おかげで、ゆっくりと本を読む時間を持つことができました。読んだ本は福岡で石風社という、小さな骨のある本の出版を30年続けておられるHさんが、これまでにあちらこちらに書かれた文章をまとめた本。タイトルは・出版屋(ほんや)の考え休むににたり。



買ったのではなく、著者がわざわざ送ってくださったのだ。一口に30年、このような時代安きに流れず、地方で(この言い方はあまり好きではないがいたしかたない)出版社を持続経営するというのは、生半可な努力で出来るものではない。



なぜ、そのようなことができたのかという事実の重みは本を読んでみて、私なりに得心することができた。著者の一途でぶきっちょな歩みが、やや硬質な文体でつづられている。



無知蒙昧で、なんとか還暦まで生き延びることができ、この20年間息も絶え絶えでなんとか企画を続けてきて、いよいよこれから個人的にいろんな意味で再出発しようとしている私にとっては、まさにグッドタイミングというしかない本に出会うこととなった。これからの私の人生への著者の心使いがしみた。



何事も、機縁、運命、定め、生まれ、出会いと別れの中で誠実に事を成していれば(もちろん能力の中で、過信せず)こその30年なのだという重みが、この本にはある。



それにしても、本を読む(そして自分で考え、動く)ということが、いかほどに大切であるかということ。知るということの重み、の時間を増やすためにも日高事務所で再出発したのだ。

2012-08-11

いきいき遊心塾(遊悠塾改め)・ゆっくりまいります

今日のブログの文章とは何の関係もありません

なんとも言えず、嬉しい休日の朝です。退屈しない、次々にやりたいことやらねばならないことに、追われる日々が続きます。そんなときは、心と体の調整をします。



今はまだ週4日働いているので、完全に何もしない、いわゆるボーっと過ごすと言いますか、無為に(体操をします)過ごすということが、極めて少ない生活なのです。



でも休日の日だけは、時間にしばられないので、いわゆる無為に過ごせる時間がとれるので、身体の気の流れの悪い部分を動かして、コンディションを整えることができるのが嬉しいのです。



私塾を始めてから、いちだんと自分の身体を意識して過ごすようになってきた自分を感じます。自分の身体と向かい合うということを、私も含めてですが、現代人はあまりにも、日々生きるのに忙しく、おろそかにしているのではないかという、反省が私の中にすごくあるのです。



もっと言うなら、ほとんど自分自身の身体を深く意識することなく、生きてきたのではないかという自責の念が、私をして還暦リストラクションに向かわせているという、認識なのです。



遊心塾(遊悠塾改め)では、声が出る身体というかけがえのない自分の器を、意識するということをやりたく思います。それとヒトとヒトがたまゆら、偶然この塾で出会うということの、豊かな縁・関係性を深めてゆくということ。



先日、玉島在住の女性が私の塾に関心を持っておられ、お会いしました。ほとんどPRもしていない中、私の案内を出した、御縁のある方からでしたので、逢ってみたかったのです。



その方とは思いもかけずカフェで2時間近くお話をしたのですが、遊心塾に反応して下さる方というのは、当たり前ですが想像した以上に、真摯に生きておられる印象を持ち始めています。



参加される方との出会いが、私にいろんな新たな気づきの扉を開いてくれます。遊心塾に参加者が一人増え二人となりました。

2012-08-09

遊びをせんとや生まれけん(遊悠塾の基本理念です)

白川先生(心から尊敬する大先生)は・遊・という文字が最もお好きだったそうです

18歳から、かなりスリリングな人生を選択してきて、40歳から60歳まで、世間的にはいわゆる安定した職業につき、来年4月からは、再びスリリングなどう転ぶかわからない生き方を選択した私だが、(自分で言うのもなんだが)なんとも言えない充実した時間を、この5ヶ月間過している。



頭と体ということを分けて考えるということを私はとらない。頭はからだの中にあるわけだから、身体が健康でないと、頭は健康に物事を考えられないのである。気持ちよく物事を考えられる健やかな身体を持っているということが、つくづくいちばんの幸せ、贅沢なのだということを、ようやくこの年にして実感している私だ。



さてお休みの今日、とある方からの依頼で、夏休みの子供たち(小学生に毎週3回)に声を出す喜びを教えてほしいとの依頼があり、出掛ける前のひととき、ブログを書いているのだが、どんな子供たちに出会えるのか、少し楽しみな私なのである。



私自身の自己紹介も兼ねて、竹トンボの創り方も教えたく、それなりの準備をし、声に出すテキストも用意した。いい意味での予期しないことが起こるというのは、限りなく脳細胞が、活気づくということが私自身分かっているから、60歳から再出発したのだ。



いきいき遊悠塾は中高年対象としたが、来年4月からは日曜日にして、年齢には関係ない塾にしようとの思いが、私の中に膨らんできつつある。何事も始めて見ないことにはわからないことがあるのだ。遊悠塾はまだ始まったばかり、思考錯誤を重ねながら、ゆっくり船出してゆきたいと、考えるのだ。



話変わり、遊悠塾に参加したいけれども、西大寺までは通えないという方から、気持ちのいい御丁寧なお葉書を頂いた。迷ったのだが、その方にお電話したところ、通いうあう何かを感じたので、その方と今日の夕方お会いすることにした。



来年からは、遊悠塾は依頼があれば、こちらからも自由自在に出掛ける塾にします。内容は基本的に声をだし、身体を動かすことを基本にしながら、何よりもヒトとヒトが、自然にコミュニケーションできる、今を生きていることの喜びを、分かちあう塾を目指します。



老若男女がさわやかに集い、すがすがしい風通しのいい塾ができたら、夢のようです。思いついたら吉日、は私の座右の銘。一人一人の方との出会いを大切に育む塾にします。



良きヒトと出会って、良き時間を生きて過す、これに優る喜びはありません。








2012-08-06

暑中お見舞い申し上げます

佐野眞一著・あんぽん・暑さを忘れさせてくれる。

私の企画を応援して下さる、御縁深き皆様、心より暑中お見舞い申し上げます。



さて、もうかなりの方には、日高事務所立ち上げ企画土取利行さんによる邦楽番外地・添田唖蝉坊と添田知道・明治大正演歌の世界(9月7日)の案内は出しました。これがおそらく最後の案内になるかと思います。



私の暮らしている街・西大寺の観音院で、世界的パーカッショ二ストである土取利行さんが、奥様であられた、故・桃山春衣さんの三絃を手に、桃山さんも習われた、唖蝉坊・知道親子の唄を歌ってくださいます。



私は土取さんとは35年前、私の尊敬する世界的演劇人、ピーターブルック演出の舞台をたまたまロンドンで見て出会いました。土取さんはブルックの主宰するパリの国際劇団の音楽監督を40年近く続け(9時間の伝説的舞台、インドの長編叙事詩マハーバーラタ、の音楽は、世界の音の調査から始まり、10年以上かけて創られている)て来られた、異色の経歴の音の探究者です。(孤高を保つ芸術家とも言える)



私は、土取さんから今に至るも、ささやかに影響を受け続けている、私にとっては未知の音の世界の豊かさを教えてくれた水先案内人です。



その御縁で、4年前に亡くなられた、桃山春衣さんとも巡り合いました。詳細は省きますが、桃山さんに出会えたことの幸せは、歳を重ねるにつれて深まってくるのを感じるようになりました。私が実人生で巡り合うことのできた、希有な芸術家というしかない、真の意味での日本のうたの世界を追求し、逝去されました。



今回、遺された桃山さんの魂の仕事を受け継ぎ、土取さんが歌ってくださいます。



企画者として、一人でも多くの方に聴いていただくたく思います。足を運んでくださるようにお願いいたします。友人知人の方々にも、是非お声かけくださいますよう、切にお願い申し上げます。



蝉しぐれを耳に、皆様の安寧を祈りつつ。



2012年・8月2日(木)日高奉文・自宅にて。



上記の一文は、個人協賛して下さった方がたに、出したものです。このブログを開いてくださっている方々にも、心から暑中お見舞い申し上げます。