玄関のアサガオ(私の妻は工夫することが好きです) |
仕事を60歳で辞めることの選択は、経済的なことを考えると、はなはだ負の選択という気は私だってするのである。笑われるかもしれないことは承知で書かせていただくのだが、考えられる力があるうちに考え、身体が動くうちに行動をしいないことには、悔いが残る。
そのようなときに、まさに坂口恭平さんのような世界観の持ち主に出会うのも、これもまたなにかの御縁というしかない感じが、する。リストラというと、首切りのようなマイナスイメージだが、本来の意味でのリストラクション、再構築。あらゆる意味での再点検を私は、還暦を機にやってみることを、始めたのだ。
全てのことを、懐疑してみるという行為を、この4月から始めているのだ。その中で最もわれわれ中高年が、(日本人のほとんどが)おびえているのが、お金がなかったらどうしようということなのかもしれない。かくゆう私だって、現代社会を生きるためには、いかんともしがたく、必要な物ではあることは認めるものの(約束事としての貨幣という意味で)
いまや、お金とは何かということの根本を、考えることもなく使わされていて、使えば使うほど、また使わなければいけないかのような、夢幻的(無限)歯車回転を無自覚に行っているのではないかという、懐疑。
そのようなことの多岐にわたる生活のいちいちを、還暦を機にリストラすることを、私はかなり意識的に始めたのだ。まだ4カ月たったばかりだが、何やら精神がすごく風通しがいいのである。自由になるお金が限りなく少ない(来年からは失職するわけですから)中での生活ということを、限界まで私は限りなく意識して、生活してみたいのである。可能ならそのような生活を、楽しみたいとさえ考えている。時間ができるのだから。
坂口さんが出会った、すぐれて未来生活を見透かしたかのような、ある種哲学的生活とさえ、呼べるかのような実践者が東京を中心とした大都市の路上で、(地面に最も近いところ川べりでほか)生活していたということは、何かの暗示、黙示録とさえ呼べる気がする。
またその方々のところを訪ね、微に入り細に入りレポートしてくれた彼の本は、コペルニクス展開を、われわれの硬直しがちなライフスタイルに、そんなに息苦しく型にはまって考えなくたっていいじゃんと、思わせるほどにじゅうぶんな、軽いフットワークのレポートなのだ。だから、だから全国から応援や支援者が現れているのだと思う。
何故こんなにも、病院が繁盛するのか、健康産業が、軍需産業が、学習塾が・・・・。考えるときりがないほどに、懐疑の世界は尽きない。
ところで、これから9月7日の(金)ポスター配布に、ゆかねばならないのでここで一端思考を辞めますが、この懐疑するという思考行為は、生きているということの確認ということでは、最もお金のかからない、安上がりな今や私にとって贅沢な時間なのです。
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