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2012-07-14

オロに心が洗われました

上映会します。その節はどうかよろしくお願いします

正直、私は今の日本の大人たちの、かなりの大人たちには絶望している。そんななか、自分はどうなのかと問うことの中で、ささやかに生きている。もうほとんどTVのニュースなどは、面と向かっては、見ない私が10年以上いる。



こんなにも暗澹とするような、ニュースが繰り返し流れるようになってから、この国はいったい何年の歳月が流れているのか、そのような時代状況の中、我が家の二人の娘は生きてきたのだと思うと、ある種ぞっとする。よくもまあ苦しいこともあっただろうに、極めて普通に育っているのを、親ばかとして感謝する。



還暦は過ぎたが(年なんか関係ない)、人間である以上考えないといけないと考える自分がいまだいる。考えても仕方がないという考えが、社会に蔓延しているかのように感じるのは、私だけだろうか。むかしから、絶望とは愚か者の結論というではないか、私は自分が窮地に置かれると(いまだってそうだ)その底で考えることによってなんとか生き延びてきた。



五十鈴川だよりは、できるだけ希望を自分のなかに見つけるために、書いているようなところがある。オーバーかもしれないが、書くことによって自分を慰安しているようなところがあるのだ。あの大作家、お亡くなりになった吉本隆明さんでさえ、自己慰安のために書きはじめた、と書いているのを読んで、我が意を得た。



ところで、3日ほど上京してきた。かけがえのない友人たちに逢い、そのうちの一人の友人が(先輩です)撮影した、オロ(チベット少年の名前)という映画を、着いた日と帰る直前2回渋谷のユーロスペースで見た。いまの日本の子供たちの置かれている状況とのあまりの相違を感じながら、静かに、豊かに他者を思いやれる精神世界がチベット民族の一人の少年の中に息づいている、そのことにしーんと打たれた。心が浄化された。



6歳でチベットを離れ異国(インドのダラムサラ)で亡命難民として暮らすオロ。過酷な環境の中で、仏と共に生きてきたチベット民族の奥深さが、オロの中に脈々と受け継がれている。今の我々の暮らしとはあまりの違いの中を生きるオロ。私が亡くしたものが、このフィルムには余すところなくあると、私には思えた。



このような映画を作り、われわれに届けてくれる心ある日本人だっているのである。そのようなフィルムを撮ったスタッフの一人が、私の友人なのである。



私に出来ることは、岡山でこのフィルムの上映会を企画することである。




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