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2012-07-31

猛暑の夏の中、本を読む

桃山さんの本は声に出して繰り返し読むことにしました

熱帯夜が続く中、私はよく眠れているとおもうが、ブログはますますもって、朝しか文を書けない、還暦の夏である。



年と共に本を読むようになってきた私には、50代になり、そしていよいよ60歳代になり、いつでもそばにあり、意識に何らかの影響を与えてくれるという意味では、いよいよもって、書物は晩年の身近な一番の友となりそうだということを、もう何度も書いているが、さすがにこうも暑いと、日中本を読む気にはなかなかなれない。



それでも、本は手放せず、蟻のように汗を書きながらでも、読み進みたくなる本に、出会っている私の現在の、真夏の暮らしである。無知蒙昧で世の中に出て、なんとか生き延びてきた私であるが、もし本を読む楽しさ(知的世界の発見)を見つけられなかったらと思うと、本当にゾッとする。



今私が読んでいる本は、松岡正剛さんの千夜千冊番外録・3・11を読む、である。60冊の本が取り上げられている。私には難しい本も取り上げられているが、書物を読む(本に出会う)ことの水先案内人としては、かってに先生だと思っている私としては、一言でいえば、素晴らしい本というしかない。もしこのブログを開いている方がいれば、お勧めする。



それから、これは何度も手にした本ではあるのだが、青土社から出ている・桃山春衣著・梁塵秘抄うたの旅。これは先週から、遊悠塾で声に出して読んでいる。桃山さんの梁塵秘抄への思いが、深く綴られている、貴重というしかない本(このような本を書いた人は他にいない)である。



声に出して読んでみると、在りし日の桃山さんの声が甦ってくる。桃山さんが、命をかけて取り組んでいた、日本のうた、特に梁塵秘抄への思いが伝わってくる。私ごときようやっと、少しは桃山さんの仕事のわずかを、理解できる年齢になってきたような、按配なのである。幸い残された本やCDがあるから、読み込み、繰り返し聴くことによって、希有なお仕事に生涯を尽くした桃山さんから、これからも学んでゆきたいと思う。



9月7日のポスターには、桃山春衣さんに捧げる・という文言を入れさせてもらった。このような素晴らしいというしかない、真の意味での芸術家としての人生を全うされた桃山さんに、私は何故か、自分の人生で巡り合ってしまったのも、御縁だったのだなあと、ただ、還暦の今、蝉しぐれを聴きながら、9月7日に向かう、猛暑の夏を生きている私である。




2012-07-29

猛暑の中、チラシ配布行脚に動き回る

なんとか250人・との思いのポスター

猛暑というしかない暑い夏が続いています。さすがにポスター配布に動くのはきつい、しかし、時間を見つけて、ひと月で7割近くのポスターやチラシを、あちらこちらに持ってゆくことができました。



なんとか、オリンピックが終わるまでに、(お盆前までに)終えたいと思っています。さすがにこうも暑いと、身体の(意識の)コンディションを整えるのが、大変なのですが、何よりも、あらゆる意味での再出発企画として選んだ土取利行さんによる、邦楽番外地、添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌の世界、この年齢になったからこそ企画できるという嬉しさが私にはあります。かっての日本人の唄の精神世界の素晴らしさ。



手書きのチケット、250枚なんとか完売したく私なりに、夢が原の仕事、日高事務所の仕事、同時にこなしながら、地道な動きを蟻のように続けています。だから、何と言うのでしょうか、いい時間が流れてゆくように過ぎてゆきます。



遊悠塾も、今のところ生徒さんはお一人ですが、熱心に来られていて、すでに6回、毎週充実した時間を過しています。このような生徒が、10人以上集まれば、きっと豊かで楽しい塾がとの確信が、最近持てるようになってきました。二人きりで、贅沢な時間を過しています(まるで別世界の)。



日高事務所の本格的な始まりは、来年からなのですが、それに向けて動きはじめて、早4カ月、とにもかくにもこれからの5年間は身体と頭を動かす、特に体を動かすという意味では大切で貴重な企画者としての5年間になるので、ひとつひとつの企画を(つまりは晩年時間を)悔いなくとの思いなのです。



おかげさまで、妻をはじめとする私を応援して下さる方々のお力で、なんとか日高事務所は第一歩を踏み出せそうです。



第一回企画の場所は、私の住む街、西大寺の観音院の大広間ですから、岡山を中心にPRしているのですが、先週備前のとある方を15年ぶりくらいに訪ねましたところ、その方は、何と桃山晴衣さんのことを知っていて、一度、唄を聴いてみたかったとおっしゃってくださいました。



その方は女性ですが、よく訪ねて来てくださったと、その場でなんと15枚のチケットを買ってくださったのです。インターネットもされず、静かに芸術を愛しながら、暮らしておられる方もいるのです。直接歩いてPRし思いを伝える、明治大正時代の演歌師たちがやっていたことです。

足で歩いて、思いを伝える企画を、日高事務所は企画します。邦楽番外地、是非いらしてください。いつでもチケットの行商には参りますので。




2012-07-22

意識的に懐疑することを思考する

玄関のアサガオ(私の妻は工夫することが好きです)

仕事を60歳で辞めることの選択は、経済的なことを考えると、はなはだ負の選択という気は私だってするのである。笑われるかもしれないことは承知で書かせていただくのだが、考えられる力があるうちに考え、身体が動くうちに行動をしいないことには、悔いが残る。



そのようなときに、まさに坂口恭平さんのような世界観の持ち主に出会うのも、これもまたなにかの御縁というしかない感じが、する。リストラというと、首切りのようなマイナスイメージだが、本来の意味でのリストラクション、再構築。あらゆる意味での再点検を私は、還暦を機にやってみることを、始めたのだ。



全てのことを、懐疑してみるという行為を、この4月から始めているのだ。その中で最もわれわれ中高年が、(日本人のほとんどが)おびえているのが、お金がなかったらどうしようということなのかもしれない。かくゆう私だって、現代社会を生きるためには、いかんともしがたく、必要な物ではあることは認めるものの(約束事としての貨幣という意味で)

いまや、お金とは何かということの根本を、考えることもなく使わされていて、使えば使うほど、また使わなければいけないかのような、夢幻的(無限)歯車回転を無自覚に行っているのではないかという、懐疑。



そのようなことの多岐にわたる生活のいちいちを、還暦を機にリストラすることを、私はかなり意識的に始めたのだ。まだ4カ月たったばかりだが、何やら精神がすごく風通しがいいのである。自由になるお金が限りなく少ない(来年からは失職するわけですから)中での生活ということを、限界まで私は限りなく意識して、生活してみたいのである。可能ならそのような生活を、楽しみたいとさえ考えている。時間ができるのだから。



坂口さんが出会った、すぐれて未来生活を見透かしたかのような、ある種哲学的生活とさえ、呼べるかのような実践者が東京を中心とした大都市の路上で、(地面に最も近いところ川べりでほか)生活していたということは、何かの暗示、黙示録とさえ呼べる気がする。



またその方々のところを訪ね、微に入り細に入りレポートしてくれた彼の本は、コペルニクス展開を、われわれの硬直しがちなライフスタイルに、そんなに息苦しく型にはまって考えなくたっていいじゃんと、思わせるほどにじゅうぶんな、軽いフットワークのレポートなのだ。だから、だから全国から応援や支援者が現れているのだと思う。



何故こんなにも、病院が繁盛するのか、健康産業が、軍需産業が、学習塾が・・・・。考えるときりがないほどに、懐疑の世界は尽きない。



ところで、これから9月7日の(金)ポスター配布に、ゆかねばならないのでここで一端思考を辞めますが、この懐疑するという思考行為は、生きているということの確認ということでは、最もお金のかからない、安上がりな今や私にとって贅沢な時間なのです。

2012-07-21

坂口恭平さんの本に出会いました


遊びをせんとや生まれけん・子供のような好奇心満載の彼の本

0円ハウス、というタイトルの新聞記事が目に飛び込んできたとき、私はすぐの新聞記事を切り抜いた。



先日上京した時、東京駅の北口にある丸善の4階に、松岡正剛さんの選んだ本のコーナー(松丸本舗)がある。上京したら、私は必ずここに立ち寄る。私が畏怖する読書人であり、世界を編集することを、意識的にやり続けておられる、知的巨人が選んだ本の数々が、現在進行形で棚ぞろえしてあり、迷路のように、書物の宇宙をさまよえるような空間になっていて、私のお気に入りの場所なのである。



さて、あまり時間がなかったのだが、企画者として絶対ゆかなければアンテナが、錆びついてしまうような気がする私としては、開店早々のまだお客の姿もまばらな気持ちのいい空間を、30分近くさまよっていたら、0円ハウスの著者の坂口恭平氏の本が、無造作にぽつんと横に置かれているのが眼に入った。この本の置き方がにくい、遊び心満載。



見た瞬間、新聞記事の著者だとわかったので、すぐに買い求めて、帰りの新幹線の中で読み始めたのだが、これがなんとも痛快な発想と、希有な行動力、実行力の持ち主でしか書けない、ユニークな本というしかない事実に、私はいささか虚を突かれ、還暦おじさんとしてはそのしなやかさ、若さに、素直に感動したのだ。



これから先のことはともかく、とにもかくにも、マンネリもここに極まれりというくらいに、時代の閉塞感、硬直化、思考停止が進む中でこのように、まさにアスファルトを引っ剥がし、風通しのいい、原っぱの思考を運んできてくれたという意味では、まさに時代の寵児、ある種の天才の出現とも呼べる気がしている。



いつの時代も若者が時代を変える。著者ほどの視点も、発想力もない私ではあるけれども、かなりの部分に共感どころではなく、まさのそうだそうだと膝を叩き、久しぶりの爽快感が私の身体をまさに風のように吹き抜けたのだ。



何よりも五十鈴川だより、でお伝えします。検索して自分の感性でご確認ください。書きたいことはいろいろあるのだが、原発問題にせよ、あらゆる諸問題に、戦わないという姿勢に一番共感を覚えます。



蛇足だが、このかけがえのない水の惑星は、お金で成り立ってはいないのである。私は愚かな人間であることを自覚しています。お金は人間の幸福追求のために使うものなのです。坂口君が実践しているように。



私の人生の残り時間、日高事務所を立ち上げた意味、今後の企画の芯、方向性がかなり鮮明に見えてきた気がします。お金では買えない気持ちのいいヒトやモノとの関係性を再構築、発見する。



あらゆる芸術や、文化は(洞窟壁画の時代から)何よりも人の心のバランスのために、必要不可欠であったのだと思います。大いに若い坂口君から学びながら(彼が出会ったユニークを通り越した、路上の生活実践者たちを私は尊敬する)、これからの人生をなにはなくともささやかに温かく充実させたいと思わずにはいられない。

2012-07-15

人生の無上の喜びの時間を友人と過ごしました

三田のこの界隈を散策するのが私とK氏の楽しみ、、東京は江戸とつながっています

東京から岡山に帰る前夜、6人の友人が、東京は四谷に集結して、旧交を温める懇親会の心が温まる時間を持つことができた。私の再出発をお祝いして下さいました。



会場を見つけてくれたのは、私の友人の中ではちょっと異色の四谷に弁護士事務所を抱えるS氏、(とても早口で、要点を的確に話す達人、さすがは弁護士と感心する、眼光鋭くこの人の前では悪いことは出来なくなる)



後五人のメンバーも寸描する。書けるときに書いておかないと。



カメラマンのT氏(オロのフィルムの撮影監督、私の友人の中では最もゆっくり話をし、ヒトの話を聴くことができる器の大きく深い人、世界のあらゆるところを撮影しているから、日高事務所では、彼の撮ったいろんな映像を、と企画者の想像力は羽ばたく)



紅一点S女史、(アフリカを何度も旅し、スワヒリ語の講師もしたりしながら、家業を手伝い、お母さんのケアーもしている、肝っ玉の大きい、頼れる母性豊かな人)



音響技師のS氏、(今回の土取さんのPAでもわずかな謝礼で東京から駆けつけてくれる。自分の世界をきちんと持っている職人気質のプロ。とにかく会場にこの人がいるだけで、音に関してはもちろんそうだが、それ以外にも細かい目配りができるので安心できる。責任感が強く議論ができ、いたらない私は刺激を受け反省する)



アサヒビールのI氏、(知り合ってから17年くらいになる、彼のおかげで私の企画の協賛が始まったのだが、もう今やアサヒビールは関係なく、個人的にビールでも飲もうよ、なんて気軽に声をかけられる関係になってきた。穏やかな優しい人柄は、皆に愛される奇特な人)



最後はK氏、消防防災の技師をしている、(ロンドンで知り合って35年、今に至るも全く利害のない関係が続いている。岡山での大きな企画には、ほとんど手弁当でボランティアにかけつけて、後片付けまでしてくれる、オーバーではなく影のような生き方を、心から楽しんでいるある種の達人。私の人生の青春不遇時代を最もよく知る、唯一の貴重な友人)



ちなみに、わたしが上京する時の宿は、K氏が手配してくれる格安の三田にある、宿泊所。私の東京での隠れ家。三田のこの界隈が素晴らしい(この界隈のことはまた書きます)いつもここで彼と落ち合い行動し、またな、と別れる。彼と私は又旅渡世人のような関係である。



このような素敵な仲間に恵まれているから、私は岡山でささやかに私らしく頑張れるのである。付き合いの時間の長短はあるものの、私にとっては魅力的な面々と、一同に逢うなんてことは、もうなかなかに叶わぬような気がするので、今回の上京は大正解でした。



最後の夜、三田の宿泊所の屋上で、ライトアップされた東京タワーを見ながらK氏と、しばしのお別れ酒を、楽しんだ。9月の土取さんには来てくれるそうです。



還暦を過ぎ、これからの人生を生きていく上での最上の時間は、本当に自分のやりたいことをやり、それを終えた後、肝胆相照らす友とのくつろぎの時を共に過ごす、これに勝る喜びはない、そのようなことが改めて、再確認できた、今回の上京の旅でした。


2012-07-14

オロに心が洗われました

上映会します。その節はどうかよろしくお願いします

正直、私は今の日本の大人たちの、かなりの大人たちには絶望している。そんななか、自分はどうなのかと問うことの中で、ささやかに生きている。もうほとんどTVのニュースなどは、面と向かっては、見ない私が10年以上いる。



こんなにも暗澹とするような、ニュースが繰り返し流れるようになってから、この国はいったい何年の歳月が流れているのか、そのような時代状況の中、我が家の二人の娘は生きてきたのだと思うと、ある種ぞっとする。よくもまあ苦しいこともあっただろうに、極めて普通に育っているのを、親ばかとして感謝する。



還暦は過ぎたが(年なんか関係ない)、人間である以上考えないといけないと考える自分がいまだいる。考えても仕方がないという考えが、社会に蔓延しているかのように感じるのは、私だけだろうか。むかしから、絶望とは愚か者の結論というではないか、私は自分が窮地に置かれると(いまだってそうだ)その底で考えることによってなんとか生き延びてきた。



五十鈴川だよりは、できるだけ希望を自分のなかに見つけるために、書いているようなところがある。オーバーかもしれないが、書くことによって自分を慰安しているようなところがあるのだ。あの大作家、お亡くなりになった吉本隆明さんでさえ、自己慰安のために書きはじめた、と書いているのを読んで、我が意を得た。



ところで、3日ほど上京してきた。かけがえのない友人たちに逢い、そのうちの一人の友人が(先輩です)撮影した、オロ(チベット少年の名前)という映画を、着いた日と帰る直前2回渋谷のユーロスペースで見た。いまの日本の子供たちの置かれている状況とのあまりの相違を感じながら、静かに、豊かに他者を思いやれる精神世界がチベット民族の一人の少年の中に息づいている、そのことにしーんと打たれた。心が浄化された。



6歳でチベットを離れ異国(インドのダラムサラ)で亡命難民として暮らすオロ。過酷な環境の中で、仏と共に生きてきたチベット民族の奥深さが、オロの中に脈々と受け継がれている。今の我々の暮らしとはあまりの違いの中を生きるオロ。私が亡くしたものが、このフィルムには余すところなくあると、私には思えた。



このような映画を作り、われわれに届けてくれる心ある日本人だっているのである。そのようなフィルムを撮ったスタッフの一人が、私の友人なのである。



私に出来ることは、岡山でこのフィルムの上映会を企画することである。




2012-07-09

久しぶりに上京する日の朝に思う

脱原子力を目指すたった一人の自民党議員

東京では、何万人もの方たちが原発再稼働も含めた、政府の原子力発電に対する政策に対して反発のデモが行われている。岡山に住んでいると、そのあまりの温度差に(自分も含めて)何か釈然としないものを、私自身感じながら生きている。



20年前娘が2歳の時、岡山に移住した大きな理由の一つは、もし何事かが東京で勃発したら、想像したら居ても立っても居られない気がしたのも理由の一つである。



田舎育ちの私は、空気のいい穏やかなところで子育てをしたいと、思ったのである。あれから、20年がたち、まさかの原発事故が我が国で起こってしまった。



そのことに関しての一切の責任や、深いところでの事故検証も国民には知らされないまま、福島の方々は置き去りにされ、または離散し、その解決も放置し、またもや原発を動かそうとしている、日本という我が国にたいして、私も含めた国民は、責任を持って意思表示しないといけないと、考える。



先日の、藤原新也さんのブログは(朝日新聞に掲載した)、鋭く政府に切り込んでいて、胸に迫る。全く同感する。(誰でも読める)いまわれわれが、有史以来どのような状況に庶民がおかれているのかを、庶民がまずしっかり考えなくて、いったいどうするのかという気が、庶民の私はするのである。だからブログを書かずにはいられないのだ。



丸山健二さんのブログは、もっと過激な言葉がるる綴られている。このような言葉に反応してしまう感覚を、持ってしまう私は囲炉裏通信の読者にも是非知らせたいと、まあいわば余計なお節介かもしれないことを、こうやって書かずにはいられないのである。



ところで、話は変わり今日から4日間、上京します。日高事務所の今後のために、いろんな人に御挨拶したり、48年ぶり音信のとれた、小学校6年生の時の同級生に会ったり、友人の関わったチベットの映画を見たり、と多様な用事での久しぶりの、上京である。



企画をする人間としてはやはり、最低2回は上京しないと、感性が弱まるような気におそわれる。企画者にとってあまりにも居心地がいいという、岡山の空気ばかりは吸っていられないというのが、正直な気持ちなのである。



それと、これも何回か書いているが、東京は18歳から22年間を過している、私にとっては、特別な思いのある大都市であり、そこで出会った、大切な年来の友人に逢えるということはかけがえのない喜びなのである。

2012-07-04

人類存亡の危機を生きている認識

10年くらい前自主上映しました

あっという間あに7月4日の朝です。9月7日のチラシとポスターができてからはなかなか、ブログを書く時間がとれない私です。以前無理し続けて書いて、身体がダウンしたのでとにかく無理しないで、退院してからはよく寝るようにしているのです。



そのおかげでしょうか、この8カ月発熱していません。昔は必ず季節の変わり目には、体調を崩したのですが、めずらしいことです。日高事務所を立ち上げるからなのかもしれません、いい緊張感というか、やりたいことに全てのエネルギーを注げる時間が来たという、嬉しさが私の全身を包んでくれているという気がしています。



封書作業をし、手紙を書いたり、ポスターを配布したり、コピーしに行ったり、郵便局に行ったり、声を出したり、体操したり、本を読んだり、メルと散歩、などなどしていると、休日の時間は瞬く間に過ぎてゆくというわけです。



朝が早い私は、夕食までが一日の労働と決めています。夕食後は、音楽と本を読む時間、すぐに睡魔に襲われるという日々なのです。



話は変わり、東京では原発に反対する、デモの参加者が日に日に増えているとのことです。私はこれまでの人生で、一度だけ東京にいたころ、原発反対のデモに出たことがあります。イデオロギーが苦手な私は、後にも先にもこの一回だけしかデモに出たことがありません。



おそらく東京に住んでいたら、私はデモに参加しますし、岡山でも休日であれば参加したいと思います。自分の意思表示をハッキリしたいと思います。このブログでも何度も書きていますが、安全な水や、食べ物、家族、友人、命あっての人生でなくて、何があっての人生なのか、という基本的な原理が、ゆゆしきことに理解されないという、なんというおぞましい現実。



放射能に汚染されて、そこに住めないという方たち、そこで生きなければならないという現実の方々のことを、同じ日本人としてどのように認識し考えたらいいのか、ということから、眼をそむけてはならないと思います。



鴨方に住む、ペシャワール会のMさんが、夏休み福島の子供たちを招くということなので、私も何かやれることを、考えます。お金に汚染され、放射能の恐ろしさに想像が及ばないとしたら、それは現代にきる、民主国家の日本人としては、あまりにも情けないというしかありません。