GWに入った。今日午後次女家族が2泊3日帰ってくる。孫の葉君7月で3才に会うのは久しぶりである。意味も何もなくただ嬉しい。こればかりはお爺になったものでないと味わうことのない、老いゆくなかでの何かが与えてくださった喜びとでもいうしかない。これ以上は、爺バカのそしりを免れないので、打つのは控える。
さて、今年も4ヶ月が経とうとしているが、このGWはひとくぎりという意味で、本当にありがたいお休みである。自分でも古稀を過ぎてお陰さま、お陰さまと、まるで念仏を唱えたくなるほどの、健康で穏やかな日々が過ごせていることにたいしての感謝は、喩えようもない。
この4ヶ月の間に、私の日々の生活の中で起こった出来事の折々は、努めて五十鈴川だよりに打つようにしているが、それにしても穏やかな日々の生活の中で、にわかに予期せぬ嬉しい出来事が続くと、心中貧乏性の私は、いささかあらぬ心配をしてしまいかねないが、ままよなるようにしかならないし、水は流れる方に流れる。私は私のあるがままの流れに身を任せている。
丸4年ぶりに、奇特なリーディング音読参加者とのレッスンを5回ほど終えて、GWに入ったのだが、私にとっては色々な意味でよいOFF時間である。これからに向けて私自身が学び、充電するためのまたとない時間が過ごせるからである。
それにしても、古稀を過ぎてから自分でもあちらこちらに出掛けなくなった自分がいる。明かに老いてきているのだという自覚が進む最近の私なのだが、私はその事を肯定的に前向きに考え、リーディング音読だけはできるだけ錆び付かないように、と心かけている。
その一番の根拠は、リーディング音読の参加者が継続して参加しているという事実である。一番嬉しいのは、個人レッスンでもやりたいという参加者がいることだ。その事実、私のレッスンについてきてくださる参加者は、私自身の今を生きるバロメーターである。
これは肉体労働にも言える。実力が伴わなければ、肉体労働はできない。18才から日銭を稼いで生きてきた私は、いい意味でのその日暮らし感覚がある。ギリギリ生活を今に至るも生きている、という感覚が抜けない。繰り返すがいい意味でである。ギリギリで踏ん張り、わけのわからないフラジャイルな自分と向かい合う感覚を生きる。
音読も草刈りも私の中では根っこは同じなのだという感覚がある。丁寧に刈る、丁寧に音読する。持続力、集中力、根気力。その事を理解してくれる(くれなくてもいっこうにかまわない)かたは少ないが、わかってくれるひとはいる。
わかってくれなくても、私のレッスンに何かを感じる感性がある方がいるから、継続しての参加者がいるのだと、ささやかにどこか自負している。そして思う、何とシェイクスピアを音読することはエネルギーがいることかと。毎回のレッスンを終えるとくたくたに疲れる。だが心地よい疲れである。
妻丹精の我が家のバラの花 |
自分で言うのもなんだが61才でシェイクスピアの音読を30年ぶりに再開して10年以上、今私はシェイクスピアのリーディングが以前にもまして、肉体的には大変だが楽しい。それはレッスンしがいのある生徒さんに巡り会えているからである。
毎回のレッスン、参加者の顔を思い浮かべながらどのシーンをリーディングしてもらおうかと、テキストを私自身がぶつぶついいながら考えている時間が楽しいのである。私自身の人生の持ち時間は(元気に音読できる時間)限られているので、取り急ぎ今年一年で、やる気のある参加者には、できるだけ多くの作品群の、魅力的登場人物の台詞の抜粋リーディングをやりたいと考えている。
そのためには、私自身があまり読んだことのない作品を、松岡和子先生の翻訳で初心にかえってしっかりと音読したいのである。孫が帰ったら、私のGWのかなりの時間は、シェイクスピア作品の音読に充てることになる。