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2022-11-30

2022年、11月最後の朝の五十鈴川だより、です。 

 今日で11月も終わり、だがこんなことを臆面もなく打てるのは、やはり古稀を迎え面の皮が厚くなってきた証左だろう。東京から戻ってきて6日間タブレットに触れていなかった。その間なにをしていたのか、当たり前だが他のことをしていたのである。年を重ねると、あらゆることの、動作を始め物事の対処、他がゆっくりとし鈍くなってくる。

文章を打つことだってそうである。コロナ渦以前は、なにかと気が急いたりしていたのが、まるで急かなくなってきたのは、老いの効用か、コロナのお陰ではないかとさえ、最近は考えるようになってきている。色々と打ちたいことがあるのだが、優先順位で思い付くよしなしごとを打ちたい。


さて、先週の土曜日、妻と二人で繁りに繁ってこのままでは鬱陶しいまでに延びた月桂樹の枝や幹を思いきって剪定した。片付け作業まで夫婦二人でやりほぼ半日を費やしたのだが、よき時間が流れた。狭い家の敷地に日が射すようになり、うっとうしさがなくなり、2階の部屋からの眺めも気持ちよくなった。

平日の午前中は、雨の日以外はアウトドア肉体労働に従事しているし、毎日何かかにかとやることがあり、私の晩秋古稀時間は過ぎ行くのである。枯れ葉の季節はイブモンタンの歌声がラジオから流れたりしてくる、しみじみ聞き入るのである。若き日の出来事に思いを馳せながら。

とここまで打って話を変える。月桂樹の剪定を終え少し冬のストーブの薪の準備を終えた翌日の日曜日、協賛応援をしてくださった(今もポツリポツリ入金がある)方々十数人に、殴り書きの一筆を万年筆で書き投函した。要した時間は、五十鈴川だよりを打つよりも何倍もの時間を費やした。が、わたしのこころは実に秋晴れのような爽快感に包まれた。

野暮なのでこれ以上はつまびらかには打たないが、古稀を迎え、手書きで筆や万年筆で文字を書くということが、こんなにも楽しいということの気付きが、より鮮明に深まったのである。いつの日か、企画や音読ができなくなったときに、最後にやりたいことがよりクリアーになったのである。当たり前だが、お便りは出したい相手があってこそ成り立つ訳であるから。

半世紀以上の人生で巡り会えた宝石のような友人知人、このような奇特な奇縁で巡り会えた方々の支えで、私は今を限りなく充実して生きていられるのだ。即興的に万年筆で文字が、言葉が紡ぎ出される、ありがたい。

もう古稀である。心が萎えたり萎れたりするような、映像や言葉には還暦以後極端に触れないようにしている。限りある人生、お会いして気持ちが上向く人や、物語、音楽やお話、等々に大切な一日を過ごしている。11月からいよいよ本格的に気持ちをリフレッシュ、松岡和子先生の翻訳でシェイクスピア作品の音読を始めている。

今年の8月、松岡和子先生との偶然の再会、そしてこの間の上京で寸暇お会いして、私のなかで松岡先生の翻訳で、もう一度シェイクスピア作品を音読しながら、つきることのない学び直しを始めている。明日の午後I子さんが我が家日にやって来る。ハムレットから始めている。苦しくも楽しい。他にも始めたことがあるのだが、それは又、次回打つことにする。

2022-11-23

東京に帰る日の朝、次女のマンションで五十鈴川だよりを打つ。

 三鷹にも吉祥寺にも歩いて30分くらいの距離に、次女の住むマンションはある。長女のところにも、次女のところにもリーディングルームがあるので、私は娘たちのところを訪れる度に五十鈴川だよりを打つ時には、このリーディングルームを使う。

雨のマンションでお散歩からかえっておやつを食べる葉君

今朝はまだ誰もいない。まるで我が家のように落ち着いて文章が打てるのがことのほかありがたい。デジタルにはまるで弱く、自宅以外では五十鈴川だよりを打ったことはなかったのだが、昨年古稀の生誕プレゼントに、娘たち夫婦4人がタブレットをプレゼントしてくれたお陰で、家以外でもタブレットを持参、このようにどこでも気が向くときに打てる。

今日は岡山に帰る日の朝である。昨日の青空が嘘のように、一転雨で気温も低く、予報では10度くらい気温が下がるらしい。いよいよ冬間近である。もの悲し秋の草笛、なんてフレーズが古稀男の頭に浮かぶ。雨に濡れた落ち葉と冷たい雨は、いやでもある種の感傷に、私のようなタイプは耽ってしまいがちである。

だが、今回の上京旅といい、前回10月の沖縄での旅といい、二月連続で私にとっては実りの多い旅となったお陰で、陰鬱な雨模様なのだが、私の心はどこか穏やかに岡山に帰れそうである。今日は次女家族とお昼を済ませ、夕方には岡山に戻る。長女のところに3泊、次女のところに2泊した。野暮を承知で打たせていただくが、娘たちの旦那さんとの相性関係性がスムースでなかったら、なかなかに心からの安心感をともなってのステイは、この時代なかなか難しい。

だが、ありがたいことに、私の場合ほとんどなんの気兼ねもなくステイできるのは、二人の義理の息子が大人だからである。時代について行けない、ついてゆく気もないデジタル音痴の私であるが、どういうわけかデジタル世代といってもいいのに、義理の息子たちとの関係性がスムースであるのが、どこか私には不思議であり、又ありがたいのである。

ほとんど浦島太郎といっていいほどに、世間とはずれあっている感覚を、私は常に感じながらとりあえず自分の居場所で、生活している。そのような古稀男の私が10年ぶりに突然変異のように、企画が辛うじてやれたりするのは、娘たち世代との信頼できる関係性があればこそである。

おそらく来年の多嘉良カナさんの企画も、娘たちとの関係性があればこそ実現できるのだと、想うとうれしい、ただその一言である。多嘉良カナさんのチラシ用の写真も、T氏のご尽力で届いた。ワールドカップが始まりどこか騒がしい世相だが、生活まるごと抱え、しずかに日々の生活を基本に、来年春の企画を見据え、牛歩で老人らしく進みたい。

2022-11-22

昼は大親友K氏に、夜は大先輩S氏に御馳走になり、じーんと幸せな一日をいただきました、そして想う。

 昨日夜から、次女のところに移動し、わずかであれ記録的に昨日の出来事を、うち綴っておきたい。昨日は長女のところでレイさん指導のもと、望晃くんのために午前中絵本を2冊読んで録音した後、お昼前に稲城から川崎に出て河合さんと待ち合わせ、美味しい焼き肉ランチをご馳走になって、午後3時過ぎ飯田橋に移動。

フェアモントホテルで、25年ぶりくらいにSさんと旧交を暖めるあためるべく落ち合った。わずか一度しかお目にかかったことがないにもかかわらず、あっという間に旧交が暖まるのに、時間はほとんど不要であった。

清水さんが週一回発行している新聞

やあやあ、と会話が途切れなかったのが不思議という他はないくらいに、旧知の間柄、以心伝心で思いが伝わりよき時間が流れたことが、いま五十鈴川だよりをうちながら、縁というものの目に見えない強き糸に、自分が支えられている幸運のお導きにいたく感謝するしかない。

お昼をご馳走してくれたK氏は、出会って44年の年齢も近い大親友。直にお会いするのが2度目のS氏は、私より10才くらい先輩である。長くなるのではしょるが、S氏は終戦のとき2才か3才で、台湾からの引き上げ者、日本が台湾を統治していた時代のS氏の祖父のご本を上梓したりしておられる。(とにかく昭和男の香りを残す、いい男である)

私の両親もまた、北朝鮮からの引き上げ者なので、その事の奇異なる引き上げ者としての末裔である私とのご縁が、S氏と私を結びつけている。とてもではないが、一気に五十鈴川だよりでのs氏との再会に至る過程を記す時間はないが、娘や義理の息子たちに、私の大切な友人を五十鈴川だよりに、きちんと記しておきたいのである。

さて、ホテルで暫しお茶の時間を過ごした後、そこから夕闇迫るなか歩いて、馴染みの町神楽坂に移動、とある感じのいい庶民的な老舗の路地裏の焼き鳥やさんに移動。久しぶりに外でビールで再会の乾杯をし、美味しい焼き鳥他をほうばり、ビールのあとほんの少し熱燗をいただき、S氏と歓談語り合った。2時間近いひとときが瞬く間に流れた。臆面もなく打つ、ほんと幸せであった。

事実として書くが、高齢者同士の再会の【ある夜の出来事】としてはまるで映画のワンシーンにでもなるかのような一夜であった。お互い元気であればこその幸福な再会。いまもS氏の声のトーンが耳にこびりついている。人生の晩秋の時間の得難い人との再会語らいは、かくもヒトを幸福感で満たすのである。そのことのありがたさをきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

S氏は、私の孫や娘たちに群馬の名産のお菓子を、お土産にわざわざ持参してくださった。S氏は大人であり、紳士であり、いまではもう死語になりつつあるが、古きよき昭和という時代を体現している、まれなパトロニストである。芸術や文化の大切さを日々唱え、願いながら今も現役で、歩き回って私のような輩とも交誼を重ねてくださる、私にとってのまれ人なのだということを、再認識した一夜の出来事であった。お元気で、また。

2022-11-21

娘のところで、2回目の五十鈴川だよりを打つ。雨の晩秋の稲城の朝に想う。

 月曜日、長女のところに3泊して迎えた朝である。望晃君が保育園に出掛けるのを見送り、つかの間五十鈴川だよりタイム。

一昨日は稲城の隣にある、よみうりランドで次女家族もやって来て、全員でイルミネーションネーションに彩られた晩秋の紅葉と落ち葉のよみうりランドで、私も年齢を暫し忘れて、久方家族時間を堪能できた喜びを、忘れないうちにきちんと打っておきたい。

ノア君が作った見事な作品

夕飯を稲城のとあるスーパーで、お弁当他色々買い求めてからよみうりランドに直行した。全員ゴンドラにのって、美しくイルミネーションで彩られた園内を中空から中心部に移動した。ショウを楽しんだりしながら園内を散策し、少し肌寒いなか夕食タイム。次女の息子葉くん(まもなく1歳4ヶ月)もノア君(4才8ヶ月)もともに夕飯お弁当時間を過ごしたこと、きちんと打っておきたい。(二家族はきちんと身の丈に会う生活をしていた)

昨日は、午前中京王多摩センターにある、幼児を遊ばせる施設や、丘陵地帯の落ち葉舞散る公園を散策したりしてノア君とはすごした。二人の孫はとにかくよく遊ぶ。遊ぶことが、遊べることが、自分自身と遊ぶことがいちばん大切なのである。昼食はスシローで。昼食後萌さんや葉君とはお別れし、稲城に戻ってお昼ね。お昼寝から起きて、雨が振り出し始めたのだが、私とノア君とレイさんの3人で稲城の温泉へ。私は初めていったのだが、良い温泉で全身がリラックスできた。

また、ノア君、レイさんと男同士でのつかの間はだかでの時間が持てたことで、又よき思いで時間ができたことが、私としては本当に嬉しかった。友人であれ家族であれ、ともに同じ時間を過ごすことのなかでしか、生じてこない感情の襞のようなものを、私は感じるのである。

特に、4才8ヶ月の孫との時間は、年に数回しかない貴重なひとときなので、私としては可能ならノア君の記憶に残るような時間が(記憶に残らなくても無論いいのだが)過ごせることを願うのである。

だがともあれ、雨の露天風呂で、ノア君に頭にレモンをのせられた記憶は、老いてはいてもかなり記憶に残るので、些細なことではあれ、お金などをけちったら2度と訪れない時間、ここいちばんでお金を使うためにこそ、未だ働くというのが動機の源泉、そんなことに温泉のなかで思いを巡らせていると、まだまだ働き、動き孫たちとの記憶に残る時間を過ごすためにも、老いてゆくなかで、初めての古稀以後のこれから時間を、時おりこうやって検証するのである。

それにしても、爺バカを承知で打つが、手前みそでではあれ、年に数回しか会えないが、二人の孫は、親の愛情をたっぷりと浴びて、すくすく育っている。子供は親を選べない。お爺だって選べないのである。となれば、お爺の役割とはなにか。私は楽しく考えるのである。そしてその事はたぶん、限りなく今を生きる私自身を活性化させるのである。単なる爺バカに私は陥りたくはない。孫とも、そして誰とであれ、私は同じ人間として対等にお付き合いしたいのである。ともあれ雨の稲城温泉はとても楽しかった。帰り道、お爺はとても嬉しかったので、稲城のケーキやさんでピカイチノマカロンをノア君にプレゼントした。本日はこれにて。


2022-11-19

【今を生きるシェイクスピア 第7世代実験室 in演劇博物館】観劇。稲城長女の住むマンションで五十鈴川だよりを打つ。

 昨日稲城に住む長女のマンションに午後2時過ぎに着き、荷物を下ろし、その足で新宿経由高田馬場に向かい、そこから早稲田大学まで歩き午後4時、演劇博物館について、松岡和子先生の展示室で、ほぼ一時間ゆっくりとすごし、シェークスピア37本の完全翻訳の軌跡に見いった。

古稀にして初めて早稲田大学の演劇博物館に足を運んだ。きてよかったとの思いに全身に満ちた。たぶんきっとこれから先、上京する度に足を運ぶ頻度が増えそうな気がするほどに、演劇博物館は、情趣風情があり私の心をとらえ、分けても松岡和子先生とのご縁、はたまたささやかではあれ、私のなかでのシェークスピア作品とのご縁があればこそ、この場所にやってこれたのだと想うと、オーバーではなく万感胸に迫った。

エリザベス朝の建物を模している

さて、午後6時半から大学の別の場所、小野記念講堂で松岡和子先生の偉業を称えるシェークスピア作品を3人の男女の俳優によるリーディングと、松岡先生をゲストに招いてのトークが行われたのだが、これが又素晴らしかった。

よもやまさか、このような坪内逍遙記念館主催イベントを体感することが叶うなどとは、夢にも思わなかった。長くなるから簡略に打つが、【今を生きるシェイクスピア 第7世代実験室 in演博】という松岡先生のシェークスピア完全翻訳、特別関連イベントを、いきなり観劇できるという幸運に遭遇したのだ。

なまでシェークスピア作品の音読を、現役の舞台俳優が眼前でいろんなシェークスピア作品のの一部を松岡先生の訳で音読するのだが、このような試みを見ることは初体験だったし、全部ではなくとも、省略し部分音読だけでも、音読者に力があれば十分に可能だということが、理解できたという意味で、私にとっては得難い、学べた体験をさせていただいた。

実は、この催しすでに予約でいっぱいだったのだが、松岡和子先生の関係者ということで(一度しか言葉を交わしていないのに)岡山から駆けつけた私を、招いてくださったのである。先生の翻訳台本を、私の娘たちくらいの世代の方たちが、リーディングされたのだが、楽しそうに(深刻なシーンでも)音読された。

松岡先生の翻訳にに対する畏敬の念が随所に感じられ、わたしは豊かな深い関係性、信頼性に裏打ちされた清々しいリーディングに、気持ちが洗われた。来てよかったと、改めての思いにわたしは満たされた。そして、改めて年齢のことは暫し忘れて、自分も又新しい気持ちで、松岡和子先生の翻訳でもう一度、シェークスピア作品の音読を持続したいという思いがわいてきている。

最後に、第7世代実験室という演劇集団は、オンライン、YouTubeでもシェイクスピアのヘンリー6世3部作を配信しているという。まさにシェイクスピアは今を生きるデジタル世代にも魅力的なのだ。新しい世代が、シェイクスピア作品に新しい表現スタイルで挑んでいる。

その事がとてもわたしは嬉しかったし、これからの老いの花時間を求めたい私としては、多大なる刺激をいただいた。その事を今日の五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

2022-11-18

早稲田大学演劇博物館で開催中の、シェイクスピア劇翻訳家、松岡和子先生の展示会を見に出掛ける朝に想う。

 今日から5泊6日上京する。タブレットを6日ぶりに開いたら、鳥取のM氏から素晴らしいコメントが届いていて一気に嬉しくなった。私の五十鈴川だよりには、ほとんどコメントがない。そのことにはなれている。でもたまにこのような勇気がわいてくるコメントをいただくと、私にしかかわからない喜びがこみ上げてくるのである。

言葉を普段からまめにやり取りしていなくても、わかりあえる関係性というのが、私の中の人財産なのであると、これも又ある種の老いの花なのだと、ささやかに風雪を感じながら生きてきたものとして、暫しの感慨に誘われるのである。

そのコメントを、何度も読んでいたら、やはりちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。時間があまりないのだが(菜園場に娘たちにもってゆく、わずかな野菜を収穫にゆくから)ちょっとだけ。

松岡先生から送られてきたチラシ

さて、上京の目的のひとつは早稲田大学演劇博物館で来年の1月22日まで展示されている、松岡和子先生の、シェイクスピア劇翻訳に関する資料が閲覧されているので、見にゆくのである。というのは、来年から松岡和子先生の翻訳で、シェイクスピア作品の音読を始めることにしたからである。詳しく打つと長くなるのではしょるが、五十鈴川だよりを読んでくださっておられるかたは、理解が及ぶと想う。

古希を迎え、いよいよわたしは、これからの人生の持ち時間の過ごし方を考えるようになってきた。焦点を絞っていきることに決めたのだ。出来るだけ義理は欠くようにきめた。まず、家族や友人との生活時間を、第一番目にすごし生活する。2番目は松岡和子先生の翻訳で、もう一度新鮮な気持ちで、シェイクスピア作品の音読をはじめる。3番目に時おり企画をする、ときめたのだ。そのような折り、実にタイミングよく、先生の集大成とも言える翻訳に関するこれまでの歩みが展示されていることを、当の松岡和子先生から、チラシが送られてきたので知ったわたしは、なんとしても機会をつくって見たいと思ったのだ。

すでに11月から、個人的に一人で読み始めている、なかなか読めないヘンリー6世3部作を1部を読み終え、2部の3幕を読み終えたところである。小田島訳とは又異なる松岡先生ならではの解釈と細かな脚注が随所にある。文庫なので手軽に持ち運べる。読み始めると、次々と情熱のほとばしり、シェイクスピアへの畏敬と愛がふんだんに感じられ、私を魅了する。

なんだかはじめてシェイクスピア作品に触れるかのようなワクワク感が今の私を満たしているのである。もう何度も打っているが、私の好きな作品を中心に、高い山によじ登るようにゆっくり、ひとつずつ汲めどもつきせぬ数々の作品をじっくりと音読するつもりである。

実は、旧遊声塾のI子さんと二人で、昨日の午後松岡和子先生の訳でハムレットを2時間ほど我が家で音読した。年が明けたらささやかに音読する塾生を募集する手作りのチラシを作るつもりである。遊声塾とは全く異なる、敷居の低いどなたでも参加できる(音読したい意欲があれば)自由自在な前代未聞の、言わばシェイクスピア作品を音読することで、今を生きる人たちが新しい関係性を紡げるような塾ができないかと、想うのである。

これはきっと災い転じて、コロナ渦中を(今もだが)生きてきたなかで自然と私のなかで発酵して生まれてきた、ポストコロナを、あるいはウイズコロナをいかに生きるか、生きないのかという終わらざる問いのなかで生まれてきたものである。私たちは、全く新しいパラダイムの変換時代を生きているといった認識が、コロナやウクライナでの、いまも続く戦争で、いやでも深まってきている。時間がきた。

というわけで今朝はこれにて。タブレットを持ってゆくので、可能なら東京の娘たちのところでも、五十鈴川だよりを日録的に打ちたいと思っている。


2022-11-12

鳥取在住の親友、盟友M氏から【多嘉良カナ】琉球の歌と躍り、独演企画への支援振り込みメール届く、そして想う。

 鳥取に盟友というか親友と一方的に呼ばせていただいているM氏がいる。そのM氏とのご交誼は、出会って以来変わることなく続いている。もう25年以上のお付き合いである。出会いは氏のふるさとで行われた音楽祭のシンポジュウムに私がパネラーの一人として招かれて以来のご縁である。

春、惰眠をむさぼっていたわけではないが、企画をすることを中断、還暦から青春時代のやり残し、シェイクスピア作品を音読することに情熱を傾けていた私が、コロナ渦で音読ができなくなり、今年の春、ウクライナでの戦争が勃発したことで、突発的な10年ぶりの私の企画にM氏は、即反応してくださった10数人の中のお一人である。


私は来年の企画に向けて、11月初旬、ご交誼が現在も続いている方々に、封書を50通送ったが、いの一番に、(神奈川に住む親友K氏と同時に)メールで協賛支援のメールが届いたのである。企画は来年の春4月23日である。投函して一週間もたっていない。その上、県外在住者の氏は当日かなりの確率で参加できないのである。こういう友人たち数十人が私を影ながら支えてくださっている。だからこそ、わたしは0年ぶりであれなんであれ、あえて打つのだが、老いを迎え打つかのように、企画が出来るのだと想う。

何度も打っている、音読ほか一人でもやれることは、いっぱいあるが、企画だけはどんなに小さな企画でも一人ではできない。なん十年も企画をしてきたが。企画立案から実現するまでは、実に手間隙、時間がかかるのである。まして現在のわたしは仕事で企画しているのではない。ごく普通の生活者、庶民である。だが何を思ったか、子供がお砂場遊びをするように、老いの花を仲間と共に咲かせてみたい一念で、真剣に遊んで(企画するのにいちばん大切なのは遊び心である)いるだけなのである。

ややもするろと、遊び心で企画する何て打つと、堅物融通のきかない真面目な方からお叱りを受けそうだが、誤解されても構わない。そのような私の思いを汲んでくださる粋なかたがおられるからこそ、企画をやる勇気がわくのである。M氏のように芸術や文化というものを縁の下で支えてくださる物好きな方の存在があればこそなのである。(パトロンが・いてこそ実る・老いの花、である)

もう隠居して好好爺になり、孫の成長を静かに見守り、ものわかりのいいおじいさんになってもいいのでは、との声もしないではないのだが、わたしはあえてものわかりの悪い、でくの坊おじじでありたい。昨今のグローバル化の(この数十年の)なれの果てに、なんとも自分で言うのもなんだが、自分のことはさておき、自信なき所在無げなお年寄りが増えてゆく世相の在りように、一滴を投じたいのだ。

今しばらく体が動く間は、なにか企画しないと、老いの花どころではない、老いた屍のような体になってしまうのでは、何よりも自分自身がかわいそうである。自分にも孫たちにとっても、あまりにも情けない、というのが正直な私の心情あふるる軽薄さなのである。寺山修司は血はたったまま眠っている、とうたったが、老いたりとはいえ今だわたしはざわつく。体のほっするままに、有志と今をいきるだけである。

軽薄、単細胞、恥かき人生を18才から送ってきて、なんとかいまも、限りなく大地の近くで雑草の息吹に耳をそばだて、みすぎよすぎしながら大いなるものからエネルギーをいただいているが、いちばんのエネルギーは家族を含めM氏をはじめとする志のあるパトロンたちの存在であるである。一人一人の方にお礼状を書かないといけないのだが、伏してお礼感謝を五十鈴川だよりでお伝えします。(昨日の時点で12名のかたがら支援が届いています)

2022-11-06

来年の私の企画【多嘉良カナ】さんの応援依頼の一文を47通を投函した翌朝に想う。

 一昨日37通、昨日10通、計47通、一筆いれて来年の企画に向けて、私の企画への応援カンパの依頼のお願いの一文を送った。このような早い始動は記憶にない。だがわたしはゆったりと、おっとりと日々やれることを(あくまで足元の生活をしっかりと生きながら)やりながら、一歩一歩進みたい。

正直、もうこの年齢になると、大勢の集客を求めての企画はあまり望まない。岡山の中心部にRSK能楽堂ホールがすっかり私の心をとらえたのである。この能楽堂ホールの集客数は限られている。だからこのホールで企画したいアーティストをわたしは企画したいのである。私が企画するアーティストを、私が岡山に移住してからのこの30年間に出会え、応援してくださり、10年ぶりの、この春の突然の企画も、このかたたちの応援があればこそ企画が叶ったのである。

てが動く間は手でかきたい、縦に。

その事に対するありがたいという一念の感謝の思いが、今また再び来年に向けて、私の老いの体を活性化させているのは、まず間違いない。基本的に滅多なことではもうなかなか会えない年齢に達した同世代に向けて、おたがいに間接的なエールが送り会えるような企画が打ちたいのである。

だから、還暦以前のような企画はできないし、する気も起きない。もう十分に老いているし、その範囲で無理なく企画できる、ささやかな老い企画をこそ追求したいのである。そして今おもうことは、私より年上で、私にとって魅力的に生きておられる、そしてあまり世間では無名で(有名でももちろんかまわないが)私が強く惹かれるアーティストを企画したいのである。

なぜ企画するのか。私が元気になるからである。10年近く企画から遠ざかり、シェイクスピア作品の音読にかなりのエネルギーを注いでいたが、突然のコロナ渦で中断。個人的にちょっとした試練があったり、ウクライナでの戦争が勃発しなかったら、おそらく好好爺にはなったかもしれないが、企画を再びすることは、なかったかもしれない。

人生に、もしあのとき、ということがなかったら、何てことはどなたの人生にもきっと訪れているのだろう。私の人生もしかりである。ただ私の場合、若き日にかなりの時間を演劇を学び、打ち込んでいた時間が長かったことが、今となっては本当によかったと、しみじみ想うし、その学びの時間で体に叩き込まれた、経験がいまこの年齢で発酵するかのように活きてきて、現在の私を支えてくれているのは間違いない。

人生は一回こっきり、DVDのように再生不可能である。一言で言えば、演劇も一回こっきり、言わば2時間なり、長くて普通3時間のなかに、言わば人生がぎゆっと凝縮されているのが演劇なのである。このようなことを徒然打っていたら、もうずいぶん演劇を見ていない。

話はあちこちするが、今年は夏に下北沢の本多劇場で加藤健一さんの芝居を、なん十年ぶりかで見ることが叶った。元気なうちに再びシェイクスピア作品を舞台で見たくなってきた。チャンスがあったら、機会をつくって。そして企画と共に、松岡和子さんの新しい翻訳で、シェイクスピアの好きな作品音読を始めるつもりである。60歳代は小田島雄志訳、70歳代は松岡和子さんの翻訳でシェイクスピア作品を、新たに楽しんで学びつつ挑戦したいのである。企画とシェイクスピア作品音読は、自由自在に私のなかで背中合わせに繋がっている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2022-11-05

新聞一面、今朝の東アフリカ大干ばつの記事におもう、思わぬ五十鈴川だより。

外はまだ暗いなか、新聞を取りにゆくと一面トップに東アフリカエリア大干ばつ、気候危機の記事が大きく掲載されていて、数百万の動物と人間生活の危機が伝えられている。いささか 重い気分で、五十鈴川だよりに向かい合っている。昨日の夕方のNHKのニュース映像で、インドのニューデリーでの大気汚染の映像を見て、あまりのすごさに、目が吸いつけられた。

実は相当昔、20数年以上も前、初めて東インドカルカッタに行ったことがあるのだが、そのときの大気汚染のすごさを体感した記憶が、今回のニュース映像で、まざまざとあのときの記憶がよみがえってきたのだ。あれから数十年、インドの経済活動は目覚ましい。その一方で深刻な大気汚染が、西インドニューデリーまで及んでいることには驚かされた。かくも大気汚染が進んでいることに。命を脅かす大気汚染生活を多くの人々が強いられている。特に赤ちゃんを含めた未来の人々の命にたいして、排気ガス、二酸化炭素を大量にばらまく企業は、真剣に考え対策を高じるのが、21世紀の企業倫理であるのは言うまでもない。持続可能社会を急がなければ未来はないと、かなりの若い世代が意欲的に取り組んでいるのが、希望救いである。

経済発展という幻想強欲グローバル資本主義、とても私の頭、言葉では整理表すことは不可能ではあれ、このおおよそあまねくゆくわたりつつある全地球車社会、飛行機ほか、高速移動モビリティ、排気ガス社会がもたらしていることは、まず間違いない。コップ21気候変動対策が行われているが、そうこうしている間に、とんでもないことがもうすでに起こりつつあるのではないかという、恐ろしさが老人の私をとらえてしまう朝である。

色づく我が家のホウキ草

岡山に、日本に暮らしていると、限りなくピント来ないが、40才までに、そしてその後も50才までアフリカ、インドほか40か国近い国を旅したことがあり、異国から母国を眺めたことがことがある私には、もちろん私を含め、日本人は限りなく穏やかで平和に慣れきった、極楽とんぼ民族のように思えてしまう。

もう十分に、私を含めこの惑星に生存するかなりの人々は、人間のこの利便性の究極を求めてやまない一見快適な幻想性の上にたって進行してきた生活のなれの果てに、よもやこんなに生物多様性が失われ、結果緑が砂漠化し、結果人間の心、精神性までもが、カラカラに砂漠化していることに、気づいているのではないかと。

対岸の家事どころではない。この地球に生を受け、奇跡的惑星にすんでいられる70億以上もの人類は、草木一本までが、命で繋がっているのだ。水と光と土があればこそ、あらゆる生命は循環し生きることが出来る。まずは食えていきられる。その事があってこその文化健康社会であある。お札や金貨は食えないのである。基本のおろそかな社会は儚い。家族ほか、つまり人間が(ペット、家畜、すべての動植物)命を繋ぐことが出来る(自然に生と死が循環し)社会の構築こそが急がれると、初老盆ぷはおもう。手遅れにならないうちに。

排気ガスほかが日々撒き散らす、見えない空気のなかに含まれる、命に害をもたらす危険な物質が日々人々の体に蓄積され、ある日突然臨界点 に達してからではあまりにも遅い。ではどうするか、一人一人がやれることを考え続け、諦めないことである。(ということしかない)わたしは反省する。いたいけない無垢な孫の表情を見ると、老人のわたしはどこかがいまだうずく。少しでもきれいな酸素を吸わしてあげたくなる。(すべての子供に)未来の人たちに今を生きる大人は責任がある。

一分間酸素が途絶えたらヒトは死ぬ。日々の生活のなかで、もっとも大切なことを見失わない想像力と、見て見ぬふりをしない勇気、そしてこれは自分に言い聞かせる。書くことも含め、なにか自分に出来る事を実践することだと。(おもう)


2022-11-02

昨日11月1日、来年春の企画に向かって静かに動き始める、そして想う。

 すでに11月にはいっている。もうすでになんかいか打っているし、たぶんもっと老いて、五十鈴川だよりが打てなくなるまでの間、きっと認知機能が衰えるにしたがって、繰り返し打つことになるかもしれないが、打たずに入られないほどに、こうして打つことが、書くことが、言わば好きになろうとは、摩訶不思議といわずにいられない。二十歳くらいまで、読み書きは全く苦手だったのだから。人間は変化する。だから面白い、のだ。

さて、おそらく10年間以上、五十鈴川だよりを打ち続けているからこそ、手前みそではなくなんとか、心身機能を保ちながら、万座にお恥ずかしき一文をさらすという営為を続けていることに。でも、打ち続けているからこそ、なんとか平穏に生活できているのかもしれない。

妻の生け花

打つということと、書くということは、まったくことなるということを、どこかで認識しながら五十鈴川だよりを打っている。なぜこういうことを打っているかというと、昨日本当に久しぶりに、硯で墨を擦り30通ほど封書に名前を書く作業をつづけた、からである。

ゆっくり筆でお名前を書くだけなのだが、それなりに時間がかかったが、新鮮な気持ちでいい時間を過ごすことができた。

デジタルでの一文と、手書きの文字では、まったくといっていいほど異なるが、もうわたしはその事を、どこかで意識しながら、可能な限り両方を併用しながら、綴ってゆこうと決めている。そして回数は少なくても、筆で日本語を綴るという営みは、腕が動く限りますます大切な時間として続けてゆきたいと想う。

来年、71才の春の企画までは、今年の突然の10年ぶりの企画と異なって、ゆっくり進められるのがありがたい。老人はお便りを書きながら、150人の集客に向けて、日々の生活をまずはきちんと大切に送りながら、事を進めてゆくつもりである。

老人にもやれる、もっと打つなら、老人だからこその企画を見つけたいという、でくの坊(否定的な意味でのことばでは全くない)ならではの、世阿弥の言葉を胸に刻みながら、老いの花といえるかのような企画がやりたいのである。あえて打とう。満開で散る花のようにありたい、というのが老いのざわつき、なのである。ざわつく間はざわつく、その事に正直でありたい。これ以上打つと、野暮なので控える。

古希を迎えて、わたしはご活躍くださいとか、ご成功を、何て言葉に全く関心がない。成功なんて言葉からは全く遠い境地を生きているし、そういった現世的な常識や価値的なものにはとらわれない企画、老人力というものを謙虚に見つめ、未知の世界を堀り続けたいのである。

先月沖縄にゆき、【多嘉良カナ】さんの歌と躍りを体感することの奇縁を持てた。岡山で企画したいと、企画者の血がさわいだのである。今の私が出会えたアーティスト、能楽堂ホールは集客数150人、大規模な宣伝は不要である。わたしはまずは大切な友人知人に、足を運んでいただきたいと思っている。

一日一枚、ティケットを売るつもりくらいの気持ち、手書きで、まるで時代に逆行するかのような企画であるが、私にとってはこれが老いの花、贅沢なのである。このような私の老い力のこもった企画に、この世の片隅でアンテナをたて、心を磨き、そっと生息している方々に届くように、体を使って私の企画を届けるつもりである。