今日で11月も終わり、だがこんなことを臆面もなく打てるのは、やはり古稀を迎え面の皮が厚くなってきた証左だろう。東京から戻ってきて6日間タブレットに触れていなかった。その間なにをしていたのか、当たり前だが他のことをしていたのである。年を重ねると、あらゆることの、動作を始め物事の対処、他がゆっくりとし鈍くなってくる。
文章を打つことだってそうである。コロナ渦以前は、なにかと気が急いたりしていたのが、まるで急かなくなってきたのは、老いの効用か、コロナのお陰ではないかとさえ、最近は考えるようになってきている。色々と打ちたいことがあるのだが、優先順位で思い付くよしなしごとを打ちたい。
さて、先週の土曜日、妻と二人で繁りに繁ってこのままでは鬱陶しいまでに延びた月桂樹の枝や幹を思いきって剪定した。片付け作業まで夫婦二人でやりほぼ半日を費やしたのだが、よき時間が流れた。狭い家の敷地に日が射すようになり、うっとうしさがなくなり、2階の部屋からの眺めも気持ちよくなった。
平日の午前中は、雨の日以外はアウトドア肉体労働に従事しているし、毎日何かかにかとやることがあり、私の晩秋古稀時間は過ぎ行くのである。枯れ葉の季節はイブモンタンの歌声がラジオから流れたりしてくる、しみじみ聞き入るのである。若き日の出来事に思いを馳せながら。
とここまで打って話を変える。月桂樹の剪定を終え少し冬のストーブの薪の準備を終えた翌日の日曜日、協賛応援をしてくださった(今もポツリポツリ入金がある)方々十数人に、殴り書きの一筆を万年筆で書き投函した。要した時間は、五十鈴川だよりを打つよりも何倍もの時間を費やした。が、わたしのこころは実に秋晴れのような爽快感に包まれた。
野暮なのでこれ以上はつまびらかには打たないが、古稀を迎え、手書きで筆や万年筆で文字を書くということが、こんなにも楽しいということの気付きが、より鮮明に深まったのである。いつの日か、企画や音読ができなくなったときに、最後にやりたいことがよりクリアーになったのである。当たり前だが、お便りは出したい相手があってこそ成り立つ訳であるから。
半世紀以上の人生で巡り会えた宝石のような友人知人、このような奇特な奇縁で巡り会えた方々の支えで、私は今を限りなく充実して生きていられるのだ。即興的に万年筆で文字が、言葉が紡ぎ出される、ありがたい。
もう古稀である。心が萎えたり萎れたりするような、映像や言葉には還暦以後極端に触れないようにしている。限りある人生、お会いして気持ちが上向く人や、物語、音楽やお話、等々に大切な一日を過ごしている。11月からいよいよ本格的に気持ちをリフレッシュ、松岡和子先生の翻訳でシェイクスピア作品の音読を始めている。
今年の8月、松岡和子先生との偶然の再会、そしてこの間の上京で寸暇お会いして、私のなかで松岡先生の翻訳で、もう一度シェイクスピア作品を音読しながら、つきることのない学び直しを始めている。明日の午後I子さんが我が家日にやって来る。ハムレットから始めている。苦しくも楽しい。他にも始めたことがあるのだが、それは又、次回打つことにする。