新聞を取りにいったら、もちろん安部元総理の国葬が一面トップである。見出しだけ見てまだ新聞を開いてもいない。もう五十鈴川だよりでは、政治やその他のあらゆる世の中の出来事からは、遠いところから眺めているくらいの感覚を自認している。
だからといって、無関心なのかというとそういうことではなく、関心はあるのだが、迂闊に軽軽言葉にはできないほどに、初老凡ぷには悩ましくも五十鈴川だよりでは、あまり触れたくはないのである。あえて触れるなら、こんなにも国葬に賛成の国民がいる反面、不賛成の国民もいる。まさに我が国の世論の分断化がこんなにもはっきりと目に見える形で表れたことに、先行きの時代の行く末に、懸念を覚えてしまう私である。
素晴らしい本です |
ただひとつ、私が強く感じるのは、表面は分断されているかのような印象が強いのであるが、多くの国民が、時代の先行きや、今の生活に、私を含めこれでいいとは決して思っていないことが、図らずも見える形で露になったということである。不安感という共通分母では繋がっているように思えるのである。
だから、政治や経済他、限りなく私が苦手なことには、個人的には関心があっても、五十鈴川だよりでは、よほどのことがない限り、触れることは今後減ることはあっても増えることは無いように思う。だが、不条理や理不尽、人間としてあまりにも痛ましく感じることなどに関しては、解答や正解が果てしなく遠くても、生きてささやかに思考できる間は、考えたいと思っている。
何故生きるのか、どのように生活してゆけばいいのかを考えるために、おそらくは還暦以降こうやって、五十鈴川だよりを打ち続けているのだから。お金という幻想、魔物にがんじがらめになら無いように、老いゆくからだで、ささやかに肉体労働で得た、私にとっては大切なお金で、書物を求め学ばねば、グローバル化という危うい美名のもとに、ただ消費することに人生を捧げ、結局は自分自身も消費されてしまうのではないかと、本能的危惧を私は抱いてしまうのである。
一回生の人生を、ギリギリ創造的に生きたいのである。あくまでも一人の生活人として。辛うじて還暦以後、五十鈴川だよりを打つことに、今もしがみついて、ささやか極まる思考錯誤(試行錯誤)を今日もまた打っているわけだが、もし五十鈴川だよりを打ち続けなかったら、きっと自分でいうのもなんだが、10年ぶりの企画も叶わなかっただろうし、家族も応援してくれなかったように思える。
だから今更ながらに思う。大事なのは答えを急ぐことではなく、自分が正しいと正当化することでもなく、考えの異なる他者の存在を否定することでもなく、その存在に磨かれながら、自分の沸き上がる気持ちに、できる限り真っ当に、正直にいきることなのだと。その上でが感動する作家、佐藤優氏をはじめとする多くの信頼する方々から、謙虚に学び続けたいという気持ちが深まるのだ。
どこにいても学べるということの醍醐味を、古希にしてまだ私の体は感じている。カタツムリみたいに学んでいる(つもりである)。なんと多くの学び直したいと思わせられる人間が歴史上に存在することか佐藤先生に教えていただいている。【老いてみて・学ぶひととき・有り難き】