もうなにがなんだか、ハムレット流にいえば、この世の関節が外れたような時代の渦のなかにいる、のだという認識を、古希男の私は、ウクライナでの終わりの見えないロシアとの戦争は私に抱かせる。世界のカオス化が止まらない。G7の行われているドイツの避暑地と、ウクライナの地獄のような戦争地帯とのあまりの映像の違い。唖然、慄然、世界の指導者たちの頼りなさを感じるのは、私だけだろうか。この先のことなど考えると暗雲が付きまとうが、ただただ前を見据え、足元ライフを手の届く範囲で生活しながら、思考するしかない。
トマト食べ平和について考える |
十分に生きてこれた私の世代の役割や出番は、とうに終えたという認識なのだが、老婆心のように揺れる心持ちが収まらない。これが偽らざるいまを生きている、ということにほかならない。だからといって特段なことをするつもりもない、が考えるのだ。
極めて普通に日々の己の暮らしのなかでの、平凡な生活のなかでのありがたさや、非凡に思える折々の手の届く範囲での雑感を綴る五十鈴川だよりでありたいと、願うだけである。だから身の丈を越えるついてゆけないようなことに関しては、今後ますます綴ることは、たぶんへってゆくにちがいない、が老いつつも考える勇気を持ちたいのだ。
理不尽なことや、自分が気持ちの悪いことに関しては、毅然と発信する五十鈴川だよりで在りたいとの思いは、若い時よりも増してきている気がしている。それは多分これまでの人生で、幾ばくかは学び考えてきたことの末に、いまがあるのだという感謝への気付きが、私をそうさせるのだと思う。
戦争と平和、あまりにも言葉がむなしく響く。まもなく選挙である。この半世紀、これまで何度選挙にいったのだろう。この国の形、国家の行く末を思うとき、もう長く打つのが正直気が重いが、一人一人が考える力を持たないと、危ない選択をしてしまいそうで、気の弱い私としてはそれが恐ろしい。
話を変える。昨日バイト先の菜園場で今年始めてミニトマトを収穫した。夕飯のときにいただいたのだが、買って食べるのと、自分が育てていただくのとでは、まるで違う。当たり前である。何故か、などと打つのは野暮というしかない。生活に喜びをもたらしてくれるのは、やはり手間隙かけて体を使って収穫したからに他ならない。
おぞましいという他、私には言葉がないのだが、もう4ヶ月以上も届けられる編集された戦争映像。サイバー戦争、戦争資本主義とでも呼ぶしかなほどの、ハイテク軍需産業、世界のあまりの形容するのも嫌になるほどの、真実の闇の深さは想像にあまりある。
一方で平和を唱え、一方で戦争が続く。この果てしのない連鎖を止めるにはどうしたらいいのか、これはオーバーではなく人類の存亡に関わる。愚者のように体を(猛暑のなかでも)動かしながら、トマトをいただきながら、ぽつねんと古希男は大空のしたで考えたい。