ページ

2022-06-28

大空のした、労働し汗を長し、育てたトマトをいただきながら、戦争と平和について考える。

 もうなにがなんだか、ハムレット流にいえば、この世の関節が外れたような時代の渦のなかにいる、のだという認識を、古希男の私は、ウクライナでの終わりの見えないロシアとの戦争は私に抱かせる。世界のカオス化が止まらない。G7の行われているドイツの避暑地と、ウクライナの地獄のような戦争地帯とのあまりの映像の違い。唖然、慄然、世界の指導者たちの頼りなさを感じるのは、私だけだろうか。この先のことなど考えると暗雲が付きまとうが、ただただ前を見据え、足元ライフを手の届く範囲で生活しながら、思考するしかない。

トマト食べ平和について考える

十分に生きてこれた私の世代の役割や出番は、とうに終えたという認識なのだが、老婆心のように揺れる心持ちが収まらない。これが偽らざるいまを生きている、ということにほかならない。だからといって特段なことをするつもりもない、が考えるのだ。

極めて普通に日々の己の暮らしのなかでの、平凡な生活のなかでのありがたさや、非凡に思える折々の手の届く範囲での雑感を綴る五十鈴川だよりでありたいと、願うだけである。だから身の丈を越えるついてゆけないようなことに関しては、今後ますます綴ることは、たぶんへってゆくにちがいない、が老いつつも考える勇気を持ちたいのだ。

理不尽なことや、自分が気持ちの悪いことに関しては、毅然と発信する五十鈴川だよりで在りたいとの思いは、若い時よりも増してきている気がしている。それは多分これまでの人生で、幾ばくかは学び考えてきたことの末に、いまがあるのだという感謝への気付きが、私をそうさせるのだと思う。

戦争と平和、あまりにも言葉がむなしく響く。まもなく選挙である。この半世紀、これまで何度選挙にいったのだろう。この国の形、国家の行く末を思うとき、もう長く打つのが正直気が重いが、一人一人が考える力を持たないと、危ない選択をしてしまいそうで、気の弱い私としてはそれが恐ろしい。

話を変える。昨日バイト先の菜園場で今年始めてミニトマトを収穫した。夕飯のときにいただいたのだが、買って食べるのと、自分が育てていただくのとでは、まるで違う。当たり前である。何故か、などと打つのは野暮というしかない。生活に喜びをもたらしてくれるのは、やはり手間隙かけて体を使って収穫したからに他ならない。

おぞましいという他、私には言葉がないのだが、もう4ヶ月以上も届けられる編集された戦争映像。サイバー戦争、戦争資本主義とでも呼ぶしかなほどの、ハイテク軍需産業、世界のあまりの形容するのも嫌になるほどの、真実の闇の深さは想像にあまりある。

一方で平和を唱え、一方で戦争が続く。この果てしのない連鎖を止めるにはどうしたらいいのか、これはオーバーではなく人類の存亡に関わる。愚者のように体を(猛暑のなかでも)動かしながら、トマトをいただきながら、ぽつねんと古希男は大空のしたで考えたい。

2022-06-25

梅雨とこれからの猛暑の季節、体の手入れ心身を整える方法を、生活しながら見つける朝。

 前回の五十鈴川だよりの続きというわけではないのだが、養老孟司先生が、日々折り合いをつけながら、どこかで手入れをするかのように日々生活してゆくことの、大切さを説いておられた。然である。

手入れの思想というようなことを、おっしゃっておられたのだが、手入れをしないと畑でも、見るに見られないほどの、雑草だらけの菜園場になってしまうので、努めて根気よく小さな菜園場の手入れをしながら、今日の午前中はすごそうと思っている。


ミニトマトが色づき始め、シシトウも茄子も実をつけ始め、枝豆も根付き始めたようなので、水をやりにゆかねばならない。何事もそうは簡単に実りはしない。手間隙を惜しまずまるで自分自身を手入れするかのように、菜園場のくさとりをしながら過ごすのである。

夏至のこの時期の草の伸びる勢いには圧倒されるが、そこをいい加減に手いれをしてしまうと、無惨な菜園場と化してしまうので、ここはひとつ限りなく昔人にでもなったかのように根気よく草を抜いて、自己満足的に菜園と雑草の区別が一目瞭然となり、いわば愛すべき菜園場にするための労を惜しんではならないのである。

なす一個であれ、シシトウであれ実をつけてぶら下がっているのを収穫するときの喜びは、やはり手をかけたからならではである。

ささやか、ここに極まれるとでもいうしかないが、私にとっては土との戯れの成果、お金に依存しないくても、限りなく居心地よく日々を送るための生活の知恵を、体が喜び気持ちのよい事に喜びを見つける、のだ。

梅雨の時期の、まだ6月なのに猛暑日が続きそうないまの季節、心と体の手入れを古希男としてはきちんとやらないと、大変なことになる、とまあそのようなことに想いをいたすのである。畑の手入れは、まさに己の手入れでもあるのだ。

一事が万事家の拭き掃除などにも言えることなのだが、ひとつのバロメーターとして、自分自身の意欲力キープのための体の手入れをを、できるだけ楽しく行うのである。五十鈴川だよりを打つことで、心身を整え、今日やることやれそうなこと、心身が気持ちよくなることを、見つけるのである。

とまあ、ここまで打ってきて今日一日やることがほぼ決まってきた。すっかり外が明るくなり、窓からは青い空には雲が浮かんでいる。菜園場が私を呼んでいる。涼しいうちに草取りと水やりを済まそう。

2022-06-23

【AI支配でヒトは死ぬ】という養老孟司先生へのインタビュー本を読みました、そして想う。

 この数日、AI支配でヒトは死ぬ、という本を読み終えた。バカの壁で有名な養老孟司先生へのインタビュー本である。聞き手は浜崎洋介という私の知らない方だが、読みやすいのですぐによみおえてしまった。

虫の視点で考える

【AI支配でヒトが死ぬ】という本のタイトルに引かれて図書館でてにして読みは終えたのだが、養老線先生のおっしゃっていることを、どれだけ理解しているのかは置くとしても、私はなるほどなあ、とそのあまりの自在に発言される言葉のいちいちに、同感、共鳴、うなずくことが多かった。

森のなかに静かにたたずむ賢者とは、養老先生のような方なのではないかと私には思える。そのあまりの博識と、あのご年齢で自由自在に言葉で理路整然と語られるいちいちに。私はどこかで、大いなる府に落ちる味方の存在を、読んでいる間、感じ続けていた。

この現代社会の抱えるあまりの閉塞感や、分断か、自縄自縛とでも言うしかないほどの、どん詰まり感を、明晰という他はない知性で、わかりやすく話してくださるのである。このような方の存在が、いまの私にとってどれ程有り難いか計り知れない。

便利になればなるほどシステム化されたなかで、ヒトは自ら考える力をどこかに置き忘れてゆき、自分自身の体で考えてゆく根源的とも言える作法のようなもの、誰でもが当たり前に持っていた暗黙の常識的な思考が失われてゆく、現代社会の抱える雑多な諸問題に、まるで本当に解剖学者そのものといった感じで、鋭くブラックジャックのように、快刀乱麻されるのである。遺言という著作もおか気になっているので、これは買って手元に老いておかねばと思っている。

養老先生はM新聞の書評欄でも時おり推薦図書を挙げておられるが、先生の一押し本は、かなり専門性が高い本が多いのだが、いつだったかもう相当に昔、中村哲先生がご存命で、中村先生のご本を書評で取り上げられておられて、深く感動した覚えがある。以来私は先生の発言やご本に接しながら、いまをどのように生きてゆけばいいいのかの座標にしている、のだ。

無思想の発見という言葉に触れたときも、どこかで自分が安堵した記憶がある。そして何よりも自分自身の体で考える。唯一無二の自分の体でものに触れ、物事に立ち向かって学んでゆくことの大事さを、いまも私は先生のお言葉から学び続けているのである。

人の言葉に影響を受けても、自分の体でかみ砕き考え、体が内側から発する声に耳を澄ます感覚を大事にするということである。ちょっと飛躍するけれど、例え世間とずれていても、折り合える範囲のずれならば、自分の体が正直に気持ちのいい方向に歩を進めるのである。

長くなるのではしょるが、犬も歩けば棒に当たるとでも言うしかない人生を歩んで、いまをなんとか生きている私としては、繰り返すが養老先生はまさに信頼に足る先生なのである。

私は先生の発言される言葉に大いなる勇気をかってにいただいている。バカの壁をこえて、足元で場を構え、自由自在にまずは日々の生活圏で自足するのである。

2022-06-22

NHKクローズアップ現代で、桑田佳祐さんの緊急平和呼び掛け同級生バンドの姿に打たれ、そして想う梅雨の朝。

 もうほとんどテレビをちゃんとは見ないというのは、私の起きている時間帯には見たいと思わせる番組はほとんどないし、起きている時間帯は、ネットフリックスやユーチューブまたはDVD、本などをてにしているので、時間というものがひときわ大切な人生を迎えている私としては、あだやおろそかには時を過ごせないのが、染み付いている。

あまりの痛ましさが描かれている

だからといって、とくに夕飯以降こと更なことはまったくといっていいほどなにもしていない。では何をしているのか。リラックスして体を労り明日の鋭気を養うために休めているのである。よく休んだ体でないと、肉体労働仕事は勤まらないし、当たり前だが五十鈴川だよりも打てないからである。

録画してみるということもほとんどしない。これから歳を重ねるにしたがって、ますます老いのくりごとのように打つことも増えるだろうが、限りなく昔人的生き方に(できないことは重々わかっている)憧れる古希男としては、今現在の自分をできるだけ、(他者に迷惑をかけず)正直に気持ちよく過ごしたいという他には、ほとんどやりたいことがないのだ。

だから今現在の自分にエネルギーをいただけるような、番組とか作品にしか目が行かないのである。だから瞑目してひたすら体を休め、時折り目を見開いて、これはとおもう番組はみているのである。

話を変えるが、私の大好きな桑子真帆さんがキャスターをつとめるクローズアップ現代が私の起きている時間帯の放送になり、これは毎回楽しみにしている。色々と刺激を受けるし、何よりも夕飯後の私が起きているリアルタイムだし、なんといっても桑子真帆さんの私はファンだからである。

昨夜のクローズアップ現代にはとびきり目が吸いつけられた、桑田佳祐さんと、桑田さんが呼び掛けて実現した、夢のコラボ66才同級生が平和を願い祈る歌うバンドの歌声が、いきなり聞こえてきたからである。古希の昭和男としては、理屈抜き久しぶりに画面に向かって拍手してしまった。

桑田佳祐さんが手紙を書いて呼び掛けたという同級生豪華メンバー、佐野元春さんや野口五郎さん、チャー、世良公則さんがいきなり、一本のマイクに向かって【平和】を呼び掛けるうた声の映像が流れたからである。私は暫し画面に目が吸いつけられ、見、聞き入った。

私より4才若い世代だが、まさに同時代を生きて呼吸し、だてに生きてきたのではない証のような歌を、いままさに長引くロシアとウクライナの戦争の渦中にNHKの電波を使って発信、表現、伝えてくれた、その事が例えようもなく嬉しく、今朝の五十鈴川だよりを打たずにはいられないのである。

理屈はいい。限りなく桑田佳祐さんに私は共感し共鳴する。同級生に手紙を書いて呼び掛け応えて集まったメンバーが、まるで子供のように歌う姿に、私は年齢など忘れ拍手、血がが騒いだ。ミュージシャンは歌で平和を表現する。企画者の端くれとして、一個人として垣根を越えて呼び掛け実現したアクション力に、人間としての尊厳を感じたのである。やはりただ者ではない。ひょうひょうと限りなく、だが根っこがやはりあると確信した。集ったメンバーもやはりちゃんと人間としてしっかりと生きてきておられるからこそ、言葉なしでわかり合えるのだ。なんとも楽しそうで嬉しそうで各自が自立して、それぞれの世界を持ち、限りなく自由自在に繋がれる、その事のえもいわれぬ信頼感が画面から伝わり、私を幸福感で満たした。

なにかせずにはいられないという、音楽家としての感情の根元が私には伝わってきた。とくに最後、ボブ・ディランのあの偉大な名曲、風に吹かれてを桑田さんが歌詞を自分で訳して、ギター一本で歌い、桑子真帆さんもハモった瞬間、私のなかに言葉かしえない熱きものがからだのなかにわいてきた。なぜわいてくるのかは謎だが、謎よりもわいてくることが大事な体なのである。だから夜は体を休め、生活しながら古希の体からわいてくる企画を打たねばと祈念(おもう)。

2022-06-19

まるで雲が流れるかのように時の流れに身を任せ、行脚生活を楽しむ古希ライフ。

まるで雲が流れてゆくかのように時が流れてゆくのを生きている、という感覚がこのところ増してきている。現世での出来事にたいしての執着心が弱くなってきたというか、雲の流れに 身を任せるというか、人間界のことに関してはほどほどにして(人間である間はかかわるが)、人間の及ばない世界の自然の推移、移り変わりに身を委ね、静かなひとときを大事に過ごしたいという心境は、以前にも増して強くなっている。

愛用シューズ

喜怒哀楽的な感情の起伏が弱くなってきているというのか、もうそういう次元から徐々に遠いところに向かってきているというような感覚の深まりがある。これを老いというなら、老いていっていると、いうことだろう。だが一面草を採るとか、掃除をするといった根気のいることに関しては苦にならない、楽しめる深まりのようなものを、感じている。

老いるにしたがっててきぱきとはいかないのだが、ゆるゆると雲が流れてゆくかのように、スロウモウな動きなのだが、確実に進むことを楽しんでいる。あまり五十鈴川だよりでは触れていないが、今年から意識的に歩くことを心かけている。

アルバイトしている日は、嫌でも相当歩き体を動かしているので歩かないが、お休みの日寒い季節には随分歩いていた。これから暑くなるので日中は歩かないが、早朝とか夕刻、わずかな時間ではあれ、気を巡らす行脚の一時を老いの楽しみとして、まるで小さな旅のように、歩くことの、歩けることの楽しみを生活のなかに取り入れたいと思っている。

できるかどうかは実践のお楽しみといったところである。5月の連休五十鈴川を遡り、念願のご先祖が生活していた宇納間まで、おおよそ35キロ歩けたことで、10キロくらいならいまの体力で十分に歩けるので、涼しくなったらただただ無意味に行脚するひとときを大事にしたい、のだ。ゆくゆく肉体労働もリタイアしたら、足がいうことをきけば歩きたい。

とまあ、そのようなことを考えている。だがいまはまだどこかに企画者としての煩悩が再び再燃していて、老け込んではいられないという絶対矛盾を生きている、というのが正直な気持ちである。ということで今朝はこのあと涼しい時間帯に幾ばくか歩こうと思っている。

話は変わるが、先日遠出して、神戸と大阪に出掛けた日は、元町界隈を、映画の前早く着いたのでかなり歩いた。古本屋さんなどがあって、まさに小さな旅の楽しさを堪能した。風光明媚なところだけではなく、都市の界隈を行脚することも私は好きなのである。思わぬ小さな人間の偉大な日々の営みを感じたりしたりできるのが、いいのだ。

インターネットランキングなどとは無縁の、美味しいカツ丼のあるお蕎麦やさんを見つけたのだ。本当に昔懐かしい昭和の香りがする家族で営んでいるお蕎麦やさん、たぶん元町や三宮で映画を観ることがあれば、可能な範囲で歩く楽しみを見つけ、あのお蕎麦やさんで私はカツ丼を頬張りたい、とおもう。観光とは名所旧跡を歩くことではない。歩くことで体の意識になにかが灯ることなのである。

(雲流れで今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまいました)

2022-06-18

動体平衡を保つべく菜園場での一人時間を過ごす梅雨の休日。

 いつも通りに目覚めたので、休日ではあるが朝湯を浴びて、夜明け前の静かな時間帯、五十鈴川だよりを打てる日も、打たない日も、もう私にはほとんど大差ない、いまをいきている、生きていられるありがたさを、どこか実感している。その事が例えようもなく、たぶんささやかな、しあわせではないかとの思いなのである。

植え付けを待つ枝豆

不幸な事態、ということがいつなんどき我が人生に起きても不思議ではないのだが、とりあえず昨年の手術を、辛うじて乗り越えて以来、とくに手術以前と変わらないくらい動け、肉体労働仕事が苦にならないくらいほどの生活力をキープしてからというもの、以前にも増して、ささやかに生きていられる今に、手を合わせずにはいられない。

何気ないことが染みてくる感覚は、手術したからこそ生まれてきたのである。丸23日間の手術入院のことは、けっして忘れることはない。まるで赤ちゃんが歩き出したばかりのような感じで、管をぶらされながら、病院の廊下を歩きながらリハビリの第一歩を始めたのを、私は折々思い出す。

退院して一週間後、肉体労働仕事に復帰した日のことも思い出す。まさにコロナ渦中の私の人生での大きな出来事を、古希目前に体験できたことの、(オーバーではなく生還し、いまを元気に生きられていることに)ありがたさを、元気になったいまだからこそ想うのである。

臆面もなく打つが、生はいつも死と隣り合わせ、人生いつなんどき不測の事態が起こっても予測不能なのであるから、日々見えないなにかに感謝するような態度で、生活したいと術後一段と考えるようになってきた私である。

おそらく手術入院がなかったら、企画者に復帰することはなかったであろうとおもうし、チャリティー演奏会を実現できるとは思いもしなかった。まさに人生は塞翁が馬であるとしか言いようがないほどに、禍福はあざなえる縄のようにおしよせて来るのである。

だからオーバーではなく、一日一日を可能な範囲で丁寧に過ごしたいのだ。もう何度も打ち、これからも何度も自分の老いゆく体に杭を打つかのように、五十鈴川だよりを打ちながら確認したいのである。

ということで話を変える、物価が高騰している。先日、わずかだが娘たちに玉ねぎを送ることができた。今日は午前中枝豆を植える準備のために菜園場で過ごす予定である。天ノ下で体を動かし、土に触れながら草むしりなどして過ごせる時間が至福である。なにも考えない、幼少きに帰ったかのように菜園場で時間を過ごす。

一人時間、我ここにありってな感じで過ごせる場があることのありがたさ。誤解を招いても構わwないが、私にとっては老いの遊び場なのである。富良野と中世夢が原での経験、体得したことがすべて無駄なくいかせる、またとない老いゆく遊び場としての機能をすべてといっていいほど、このバイト先は備えている場所なのである。

この場所で、大空のもと体を動かしているからこそ、コロナ渦中グローバル面妖閉塞感(ウクライナの長引く戦争で、目に見えないところでひたひたと押し寄せてくる嫌な感じ)から、辛うじて自由でいられるのだとの認識なのだ。

襤褸を着てても心の錦ではないが、なにはなくとも身一つ健康であれば、世界のすべては我が体にこそ宿っているのである。私のような単細胞はまことしやかな一面的に切り取られた情報操作編集報道に操られやすい。危険である。だから動体平衡を保つために、でくの坊になりたく、土と戯れるのである。

2022-06-14

一昨日の日曜日2本の映画を見に遠出しました。そして想う。

 一昨日の日曜日、神戸と大阪で2本の映画を見た。元町の映画館で、午前中一回だけの上映のフィルムは、ウクライナのフィルム、セルゲイ・ロズニィツア監督【ドンパス】、(この監督のことは全く知らなかった)午後大阪の第七芸術劇場に移動、見たのはヤン・ヨン匕監督の【スープとイデオロギー】。2本ともほとんど予備知識なく、いきなり見た。

済州島に行きたくなりました

ウクライナのフィルムはドキュメントタッチのフィクション、スープとイデオロギーはドキュメンタリーである。一見して全く違う作りではあるのだが、共通しているところがあると、あえて打つなら、あまりにも重いテーマを(人間と言う生き物の存在の不条理にまで思考を深めて考えざるをいない)描いていると言うことである。

今朝の五十鈴川だよりでは内容については深くは触れない。ただ一人の人間として、見たと言う事実をのみ記すにとどめたい。だがドンパスは、いまウクライナで起きている現実のおぞましさを知らしめてあまりあるフィルムであることだけは、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。2018年の作品だが、すでに東ウクライナでは尋常ならざる戦争が新ロシア派とウクライナの間で起こっていたあまりにも言葉を失う生々しい実態が描かれている。一人の映像作家が全存在をかけて創った作品。恐ろしいというほかはないほどのリアリティが作品に込められていて、見ていて正直気持ちが悪くなった。

二本のフィルムを見たと言う事実を記すにとどめる。(平和ボケと言う言葉を浴びせられても仕方がないほどに、私は平凡に生活している)現実にウクライナで続く異様な惨状には目をおおいたくなる。このようなドキュメントな映像はけっしてお茶の間には流れない。憎しみは人間を狂気へと導くことを知らしめてあまりある。

ウクライナでの戦争は長期化している。10年ぶりに企画したことで、老いつつもこのまま老いてはまずいという気が、(極めて平凡にある意味で能天気に生きている自分に、いきられている自分が)、かすかな想像力の導きが、たぶん私を遠方の映画館まで行かせたのだと想う。

出掛けていって、あまりにも重いフィルムを視たからといって、初老凡夫の私の生活が変わるわけではないことは自明なのだが、見ておかねばいけないとの思いが、古希の体をつき動かすのである。知らぬが仏的な自分も否定しない。だが忘れやすく流されながらも忘れてははいけないことがあるのだ、と自省する。無関心であることに忸怩たるじぶんがいまだ存在する。平和を享受しうる側に生きられるありがたさ。そのうらがわにはおびただしい苦難をいきている無数の民の慟哭の声が。ささやかであれかすかに思考する勇気をなくしたくはない。

2022-06-12

花のある暮らし見つめる梅雨の朝

さて、今日はお休みだし、気分転換もかねて出掛けようと思っていたのだが、妻が休日だったので、共に過ごすことにし、妻が仕事の明日出掛けることにした。若い頃の自分とはあまりの様変わりだが、これがいまの私にとっては一番自然なことなのである。臆面もなく打つ、大切な人との時間を最優先にいきる、のだ。とは言うものの、いまだどこか気恥ずかしいし、野暮この上ないのでこれ以上打つのは控える。 話を変える。今年になりテレビを買い換えたことで、私としては珍しく多機能テレビを、休日ほか楽しめている。以前は娯楽作品を、リアリティのうすい絵にかいた餅のように感じている自分がどこかにいて、ドキュメンタリーや大自然の映像作品、小さな旅、紀行ものなどを、多く見ていたのだが、古希を境に、たまたまそうなったというにすぎないのだが、レイさんのお陰で、ネットフリックスを利用することができるようになり、娘たちの推薦する韓流ドラマに、いまの言葉で言えばはまっている。 いろんな報道に接し胸を痛める私も、韓流に涙する私も、絶対矛盾をいきるいまの私である。それが現代を生きているごく普通の庶民の私の偽らざる私の姿なのである。さて、いま私は英語で我々のブルースという連続ドラマをみている。年を取ると涙もろくなると言うが、だからどちらかというと涙もろい自分を知っているので、できる限り一人で見るようにしている。
済州島のいまをいきる島民の一言で言えば、人間グラフィティである。老いる、生と死、親子、青春、更年期、友情、恋愛、いろんな家庭事情のドラマがなん組も同時進行で、連続ドラマの常套てき手段で、次の展開が見たくなるように作られている。安心してフィクションの世界に引き込まれ、嘘の世界のダイナミズムに、私にとっては酔えるドラマなのである。 やるせなくも切ない、歯がゆいほどのままならなさを、必死にいまをいきる登場人物たちのときにやり過ぎるほどの、熱演怪演には何度も唸らされ涙した、私である。ご関心があるかたは是非ご覧になっていただきたい。このような韓流ドラマに心の情動がうごくかたとはお付き合いしたいとおもう私である。田舎の少年期の我が家族を彷彿として思い出す。お隣の国のドラマであるにも関わらずどこか懐かしく、ときにうっとうしいまでの情の深さに、心がかき乱されるのである。なぜなのだろうか。不思議である。 くどくど打つことは、妻とのことをくどくど打つに等しいので、これ以上打つことは控えるが、このドラマの舞台である済州島にものすごく行きたくなっている。全ての回に引き込まれているのではもちろんないのだが、ロミオとジュリエットを下敷きにした、高校生のカップルが妊娠し、おお騒動の末の親子の断絶とはっぴいえんど、障がい者の姉と妹の双子の物語、幼馴染みとの再会との軋轢、和解などなど。好きな俳優イ・ビョンホンの演技を見るだけでも打たれる。打っていると頭のなかを映像がめくるめく。 この全登場人物、あまりにも愛すべき人間の愚かしさ、そして崇高なまでの人間の美しさが、優しさが、厳しい海の労働によって生計をたてるメインの登場人物たちの生まれ育った済州島を舞台に描かれるのである。 あまりの済州島の美しさにため息がこぼれた。カメラアングルの素晴らしさ、光を浴びる海の輝き、巣潜りで漁をする海女さんたちのしなやかさ、夕日、花ばなが、愛すべき登場人物たちを限りなく優しく包み込む。このようなあまりにも分かりやすく楽しくそしてあり得ないような連続娯楽ドラマを作れる人々が現代の韓国にはいるということの驚きをきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。いまの韓国ドラマは活力がみなぎっている。アジアの情動が古希のわがからだをいたく刺激する。 それにしても、名シーンが随所にある。演出が歯切れよくデジタル世代の感性のドラマであることが府に落ちる。しかし描かれている内容は温故知新なのである。暗鬱な梅雨の気分を吹き飛ばしてくれる。なんとも言えないやるせなさ、人間の切なさが染みる。

2022-06-08

6月8日、梅雨入り間近の真夜中におもう。(桐野夏生さんに喝采を送る)

 6月に入り植栽の剪定をやっている。このバイトをするまで植栽の刈り込みなどやったことはなかったのだが、私はこの作業も含め高齢者でもできる肉体労働仕事がどちらかと言えば好きである。この夏が来れば丸4年になる高齢者労働を、充分に私は楽しめている。とまあ、能天気なことが打てるのは、親としての役割を終え、人生で初めてといっていいとおもえるほど、ささやかに生きてゆくためには、華美な生活さえしなければ足りるし、慎ましくも豊かな生き方を志向しているからであると、自分では思っている。

母の家に咲いたゆり

だが、いまのこの特に若いかたたちの多岐にわたる未来への社会不安は、ほとんどがお金、賃金の格差等に起因しているのではないかとおもう。年よりの私でさえ、このあまりにもの不平等賃金格差社会の貧困問題には無関心ではいられない。

世界をおおう(今に始まったことではない)グローバル弱肉強食社会には無知な弱者ほど、痛いおもいに追い込まれる状況、良心が痛まない、特に政治家と称する人種には言葉を失うほどの絶望感を、私などは抱きながら、ほぼ半世紀をやりくりしながら、生きてきたといっても過言ではない。

幼少期からかつかつ生活で、親がやりくりしながら、私を含めて5人の子供を育てる後ろ姿を見て育ってきたので、慎ましくいきるほかなかった。私が育った当時の社会は戦後の臭いがそこかしこに残っていて、学級費が払えない貧しき家庭など当たり前だったし、私なんかよりも貧しい家庭状況を生きている級友たちの姿もたくさん見てきた。でもどこかまだ、人間的なゆとり、いたわりあい、暖かさが社会にはあったようにおもえる。

あれから半世紀である。社会は激変した。便利この上ない快適ハイテクお金万能社会、が、お金に翻弄される人間社会の面妖さは(激変するこの社会では、いつなんどき強者が弱者に逆転するやもしれない)複雑怪奇さを増すばかりのように私には思える。

読んではいないが、タイトルだけは知っている、昔、ふさぎの虫というロシアの小説があったと記憶するが、人間社会はいまも大差ないのではと思わせられる。かなりの国民が、引きこもったり、過労死するまで働かされたり、あるいは働いたり、賃金が払われなかったり、外国人労働者を安い賃金で過酷極まる状況かで酷使し、搾取したり、正社員と派遣社員、同じ労働をしても、賃金がことなり差別される。ひどいとしか言い様のない、人間としての誇りを無惨にも奪って恥じない社会が、やがて崩壊してゆくのは当たり前ではないかとさえおもえる。

理不尽さや不条理感は、なにも戦場でだけ起きていることではなく、いまの我々の普段の暮らしのなかに、思考能力をもうほとんど奪ってしまいかねないほどに、毛細血管のように張り巡えらされているのではないかという気がする。そのようなことをおもうのは私だけではあるまい。もういやというほど打っているが、小綺麗な衣装や傷のない車になんとか乗りながら、かつかつの生活を否応なく余儀なくされている、いわゆる昔の言葉で言えばプロレタリアクラスがわんさか、息をひそめて生活している現代社会の不気味さを、小説で表現しているのが、桐野夏生さんなのだということを、NHKのクローズアップ現代で知らされた。

五十鈴川だよりでは詳細は割愛するが、このような不気味な現代社会の闇をえぐって、弱者の側からというか、表現すべき手段を持ち得ていない人々に、この息苦しさはどこから来るのかという根元に目を光らせ、弱者に成り代わって声を文学で発する小説家の存在は貴重であると、どこかで喝采をおくってしまう私である。

私自身が世の中に出て半世紀、若いとき演劇などを学ぶという、危うい世界に身をおいていたこともあり、いつもあらゆる点で、言うならば嫌でも弱者的な環境で生きてゆくしかないような生活を長きにわたっての青春時代を送って来たこともあって、その際に身をもって知らされた、この一見華やかに見える、現代年文明の闇の深さを底辺から眺めてきた経験からもおもうのだが、この経済魑魅魍魎複雑怪奇の複雑さは、繰り返すが一段と巧妙さを増していっているように思える。貧乏とは、幸福とは、人間とは、剪定をしながら天ノ下で考え、五十鈴川だよりをうちたい。


2022-06-06

雨の日の朝、新聞の見出しを見たら、このような五十鈴川だよりになりました。

 外は雨、梅雨入り間近を思わせる朝である、昨日の午後からの雨が降り続いている。肉体労働はおやすみ、だから今朝はいつにもまして穏やかな気持ちで五十鈴川だよりが打てる。

先程、残り湯を暖め、朝湯を浴びコーヒーをいただき静かにキィを打つ。いつものように新聞の見出しを見る。まだ開いてはいない。昨日堀江健一さんの快挙を、その姿を映像で見て、思わず画面に向かって拍手した。このところの報道のなかで、極めての快挙というしかないほどの明るい話題で、私はただ感動した。

雨の日はこんな本を読みたい

ただ今朝の見出しは、NATO加盟申請のフィンランド、来てはならぬ日に備え、ロシアの脅威に備えて、国防軍の射撃訓練が急増している、とある。

考えたくはないのだが、すでに第三次世界対戦が始まっているかのような、不気味な時代の到来をどこかで感じているのは、私だけではないのではないかという気がする。やたらと不安をあおるようなことは打ちたくはないのだが、この先ウクライナでの泥沼化して行く戦争はいったいいつまで続くのかと想うと、暗鬱になる。

ただ一人の初老男にできることは、可能な限り伝えられる、信じられそうな人の発する言葉に耳を済ませ、想像するバランス力を研ぎ澄ませ、無関心ではいけないとの念いを深めるしかない。現代兵器と、サイバー情報戦によるウクライナでの長引く戦争に、もう充分に年よりの私が、自分でも信じられないくらい反応するのは、おそらく最悪核兵器や、むごいというしかない生物兵器他の、言葉を失うほどの、ジェノサイド戦争になるのではないかとの恐怖があるからである。

ファクトチェックをするのが大変な時代である。あらゆるフェイク映像がこともなく作られ、メタバース化される。凡人の私などは何を信じたらいいのか、とときにためらい迷う。だから動体平衡を養うために言葉に耳を済ませ、騙られないようにしないと、とはおもうが所詮限界がある。




でも考えないとまずいとの絶対矛盾をいきるのだ。ハムレットの呟きは私にとって永遠に響く。このままでいいのかいけないのか。どちらが正しくどちらだ正しくないのか、どちらに理がありどちらに理がないのか、人を殺していいのかいけないのか、国際条約や法律は、憲法はなんのためにあるのか、、、、。凡ぷの思考能力を凌駕してあまりある、そら恐ろしき時代の到来。

だが、だがである。でくの坊は想うのである。雨が降るのは誰も止めることはできないが、戦争は止めることができるのではないかと。一昨日の朝のNHKのニュースで鈴木陽平(という名前だったとおもう)記者がウクライナで両親が殺された12才の男の子とその日記のリポート映像を伝えていた。目が吸いつけられた。

まさに言葉を失う。叔父や叔母が我が子のように面倒を見ていて胸がいたんだ。そのようなリポートを届けてくれる若い記者がいることに、どこかで私はほっとする。日々の暮らしの中に飛び込んでくる、おびただしい情報戦争のなか、瞬時心が洗われるかのような暖かい情報を伝えてくれる良心的な人間的な記者の存在に救われる。五十鈴川だよりもささやかに静かな良心を綴れるようなブログで在りたい。

(感覚の麻痺を私は恐れる)

2022-06-05

自分に水を指すように、できるだけ一日を丁寧に生きるように心がける朝に想う。

 もう特別なことがなければ、ほとんど出掛けなくなり、家か、図書館か、バイト先で一日の時間のほとんどを過ごすようになってきた私である。特に古希を迎えてすぐに大きな手術退院後からはそうである。でもいざとなると緩やかにまだ動ける

妻がいけたミモザの花


命の不思議、生きていることのありがたさを感じてからは、50年間も嗜んでいたお酒を絶ってしまえたし、お酒を飲んでいた時間が考える時間になってしまったせいもあるかもしれないが、古希を迎えてからは、本質的なことは変わらないにせよ、生活は本当にシンプルになったし、昨日も打ったかもしれないが、真面目に生活するようになってきた気がする。

お医者様には、気分転換くらいのお酒なら飲んでもいいとは言われているのだが、アルコールに依存しなくても、十分に気持ちのいい生活ができているし、何より一日でも気持ちよく動けるからだをキープするため、老いトレのような感じでの肉体労働生活を心がけている、そのお陰で心身の調子がいい。

おそらくこれからの五十鈴川だよりは、まるでお念仏のような、シンプル生活を綴りつつ思考するようになると想う。孫の成長、家族のこれからを可能な限り見守りながら、これからの遊行期時間を妻と共に大事に過ごしたい。そのなかで、何かを企画する、企画が生まれてくる生き方を志向したいとは考える。

難しいことを考える頭が自分に欠けていることは、充分に承知しているが、振りかえると10年間休んでいたとはいえ、チャリティ演奏会の企画がやれたことで、自信というのではなく、いまの年齢でも私にやれる企画が、やろうと思えばできるのだということが、自分のなかでハッキリわかったからである。歳だからということで可能性を閉じて行くベクトルではなく、理不尽さや不条理にたいしての痛みを感じる間は、何がしかの企画を、庶民の一人として打ちたいのである。

だがあくまで自然にやりたい。よしんば実現しなくても構わない。だって、人生一寸先のことは誰にもわからないからである。ましてや現代のような不確実魑魅魍魎時代、なにが起こっても不思議ではないし、あまり考えたくはないけれど、老いの危機感のようなものが、私のなかで消えないからである。何が恐ろしいとはいえ、いまのところ思考停止になるのが実は一番怖い。だから今朝も五十鈴川だよりをうち考えるのである。答えはない、だから考え、いまを生きるのだ。

2022-06-04

気がつけば、11年目、6月最初のの五十鈴川だよりを打てる朝に想う。

 今日も暑くなりそうだが、朝夕はまださほどのこともないので、6月になって最初の五十鈴川だよりを打てるのが嬉しい。他の新聞の見出しは知らないが、購読している我が家のM新聞のみだし、例えば今日は、南ア産ワクチン受注ゼロという見出しである。

出掛けて本当によかった

日々に伝えられる新聞記事に目を通す時間が幾ばくかあれば、恐らくいまの私の老いつつあるがいまだ生きている感受性のようなものがあるとするなら、ありがたいことにずっとうち続けられるくらいに、へえーっと無知を刺激されるような文字が目に飛び込んでくる。

島根の原発再稼働にシフトにせよ、ウイグル自治区での(事実としたら)あまりの理不尽さにも、驚きを禁じ得ないような記事他、読んで知らされると、残り時間は少ない、ぼやぼやはしていられない、何かしないと、との思いにかられ、では何をすればと、己に問いかけ、わずかいちにちにひとつでも二つでも、きちんと記事を読みましたよ、との思いで記事をノートに貼り付けるのである。

オーバーではなく、古希を過ぎた私の肉体は、10年ぶりの企画を終えてからというもの、静かにちっ居生活に甘んじていては、どこか忸怩たるおもいにとらわれてしまう。

無き父が母が、遠いところから、もう少し頑張れしっかりしろ、と激励してるかのように、勝手に自分で思うのである。だから自分でおかしいとかきもちが悪いとか思えること記事に関しては、老いの思い、老いの一滴のように切り抜くのである。無関心が一番いけないとの思いに駆られるのである。人間は獣ではないのだとの側に一ミリでも近づきたい、状況次第では、飢えたりなんかしたら、自分だってそうなってもおかしくはない。自分だけはならないなんてことはあり得ないのだ。だからこそ平和を希求するのだ。できる今にのうちに。

先日も打ったが、脳トレではなく、精神の心を耕す、水をやるように、不甲斐ない不確かな己を、自分で叱咤激励するかのようにいわばまあカッコつければ心の筋トレをするのである。きもちが落ち込む記事だけではなく、爽やかになる、感じ入る記事も時おり切り抜き、バランスをとる。(世の中には本当に素敵に静かに生きている庶民がいると知らされる)

現代は、現代に限らず、生きていることはいつ何が、どのようなことが起こってもまったく、不思議ではないほどに、魑魅魍魎なことが予測なしに突然勃発するのだということを、いまも続くウクライナでの戦争は私に教えてくれている。

だからなのだとおもう、以前の五十鈴川だより(個人自主企画者復帰から)よりも、ずっと真面目な、のほほん五十鈴川だよりでは、なくなってきたのではないかと、自分では考えている。きちんと五十鈴川だよりをもし読んでくださるかたがいたら、すでに私は打っているが、子育て他、社会的な役割はすでにほとんど終えたので、臆することなく、無知をさらけ出しながら、一人の人間としてきちんと発言する勇気を失いたくはないのである。

気がつけば、五十鈴川だよりをうち初めて11年目に入っている。3日坊主の飽きっぽい性癖の私が、恥をさらしながら、よくもよたよた打ち続けてきたものである。(毎日ではなく気楽に打ってきたから続けられた)謙虚に学び体で打ちたい。