平和ボケをしているといわれてもしようがないほどに、もう初老凡夫の私には昔ほどの怒りや嘆き、またやるせないおもいなどが、強く湧いてこないことがだんだんと増えてきているように思える。
これが老いてゆくということなら、甘んじて受け入れてゆくほかはないが、いかんともしがたい大きな流れの渦を、どこか老いの狡さのような感覚でもってやり過ごしながら、一抹の強い関心だけは、失わないようにしないとまずいし、もう本当に深い老いを自覚したら、五十鈴川だよりも打たないだろうし、土取さんにも会いに行ったり、音読自在塾を始めることもしないだろう。
世界のどこかで今何が起こっているのかについて、関心力、好奇心力を失ったらまずいと 言う感覚は、2001年にニューヨークで起きた同時多発テロ事件から、私の中でいちだんと増してきたことは間違いない。だがあれから早くも21年の歳月が流れている。感性の劣化は否めない。だがどこか途方にくれつつ、あきらめつつもあきらめないのである。
世界の動き、肝心な出来事に耳を澄ます感覚は失いたくはない、だが、時は非常に流れる。しかしやはり世界の動きあまりの不条理感極まるような出来事に関して、無関心なままであることは、やがて大きなつけとなって自分の生活にも波及してくることは、歴史が証明している(ように凡人の私にも思える)。
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だからどこか安穏に生活できているときにこそ、世界の出来事の深層を〔真相)を読み解いてくれるような、信頼するに足る論客、人間力の存在が私には必要である。
例えば40代の終わり、もし中村哲先生の御本を読むことがなかったら、イスラム世界のアフガニスタンというという国の複雑な国の歴史には全く理解が及ばず、ひょっとしたら人生を終えていたかもしれないのである。(謙虚に素直に知るということの、困難さと同時に大切さを今更ながら思い知る)
いらい知ることの、信頼するに足る方の発言や情報を、私はない頭で、注意深く世界の出来事を知るように努めているのだが、五十鈴川だよりでは、ほとんど時事問題や、一知半解的に、よくはわからない出来事に関しては触れていない。
しかし時折、ウクライナでいまなにが動き、起ころうとしているのか、ウイグル、香港、ミャンマー、カザフスタン、アフガニスタン等々、記しきれない。
老いの想像力を全開にして初老凡夫のささやかなアンテナを立てておかないとまずい、かろうじて常々頭の片隅で思い続けていること、五十鈴川だよりにきちんと記しておきたい。
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