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2022-01-08

もう1週間、次女と孫と母との生活が続く朝に想う。

 今日から3連休である。お正月気分から肉体労働に復帰し最初のお休み。といってもオミクロン株の広がりは、個人的に極めて不気味であり、当分はひとりでの音読自在塾を続けてゆくつもりである。もともと、一人でやるつもりで遊声塾をあきらめたのだから。

刻々と時代状況は変化してゆき、おのずと私自身も超スロウにささやかに変化しながら、日々を送らざるを得ないのは致し方ない。だがこれからを生きねばならない若い方たちと違って、もうほとんど社会的な役割を終えた、仏教用語でいうところの、遊行期を自覚し始めた私には自閉的な生活を余儀なくせざるを得ないようなコロナ下の生活を、ヒトとほとんど交わらない肉体労働のおかげで、この年齢ならではの思わぬ充実した生活が送れていることへの感謝は、先の五十鈴川だよりで打っているとおりである。

もし自分が、ずっと若かったら失職していたかもしれないし、コロナ渦中の下、このように 能天気に五十鈴川だよりを打つことなどは、まったくできなかったかもしれない、などとも考えると、世代いかん、置かれた状況でかくも千差万別に生活は異なる。

はじめてこの方の本を読んでいる

私に場合、いずれにせよはっきりと自覚しているのは、今日一日をいかに生きるのか、遊行期、いかに質素に極楽とんぼのように過ごせるか、過ごせないかというような、誤解を招いてもいいのだが、まじめであり不真面目であるかのような、いい加減な日々の過ごし方を、方の力を抜いて、と心のどこかで考える自分がいる。

さて、今年もいつものように話を変えるが、おとといから次女と孫の葉君が再び我が家に滞在している。次女の友人が1月半ばに結婚するので、それまでいることになったのである。

義理の息子は一足先に帰京している。というわけで、もう一週間、間もなく生後半年になる葉君との生活が続く。それまではおじじとして何か役に立つことがあればと思っている。

今年の5月で90歳になる母も同居しての、5人での生活が今しばらく続く。古い命と(十分に生きた命と)新しいまさにこれからの命の同居生活。母の存在はこれからの自分の老いの道行きの未来を、いやでも考えさせずにはおかない。

老いてなお、ひ孫の面倒をしている、お台所で刺身をさばいている姿を見ていると、老いたりとはいえ、いかに普段培ったこれまでの人生が浮かび上がってくるのかを教えられる。動き他、超スロウもうではあるし、往年の面影を知るものには、正直寂しいのだが、私の身近な老いゆくお手本として、しっかりと見届け学びたいと私は五十鈴川だよりに打っておきたい。

このお正月、その母を娘や義理の息子たちが、暖かく接してくれたことに対して、なんとも言えないありがたさを感じている。ヒトは老いて死ぬ。その厳粛な摂理、当たり前さは、遠からずわが家族にも現実的に訪れるのだということを、新しい命の輝きの前で、あらためて思ったお正月でもあったことをきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。



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