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2021-08-31

34歳、8月31日、妻と巡り合った日の出来事を69歳の今日思い出し、そして想う。

 8月31日は、私にとっては忘れられない日である。孫達のためにもこの日のことは、此の先も五十鈴川だよりを打てる間は、短くともきちんと打っておきたい。

この日の出来事は、五十鈴川だよりを打ち始めて繰り返し打っているのではないかと思う。そう、私が富良野から3年ぶりに東京に戻った 34歳の時、吉祥寺のとある場所で、現在の妻と巡り合ったのである。

35年前の出来事である。もし妻と出合わなかったら、その後の私の人生は、灰燼に帰したとまではいわないが、無味乾燥な人生を送ったであろう公算は大である。もういい年齢なので、厚顔無恥臆面もなく打っておきたいのだが、彼女との出会いがもしなかったら、私の中の能力のようなものがあるとしたら、一切開花することなく 、しまい込まれたまま人生を閉じた可能性が大である。

ことほどさように、人生一寸先のことは分からない。だから打てる時に、妻への感謝を打てる時にきちんと打っておきたい。まことに持って縁は異なもの味なもの、出会いがすべてである。

何回かは書いているので重複は避けたたいとは思うのだが、 今後年齢を重ねるにしたがって、いよいよもって、夫婦というもののめぐりあわせの不思議、在り難さは、打てる時に記録化して娘たちにも伝えておかないと、と考えるのである。

あの時に書いておけば、などと思っても、ああ無常となってからは遅い。だから頭と体がしゃんとしているうちに、この35年間の 感謝を五十鈴川だよりにしっかりと打っておきたいのである。

妻は私にとって人生で初めての味方であり、理解者であり、まだ知らない私自身の能力を引き出してくれた人である。彼女の存在がなければ、私は岡山に移住することもなく、中世夢が原で働くこともなかったかもしれない。

たった一人の味方ともいうべき存在は、かくもその後の私を(いまもだが)変えてしまったのである。コトバを変えていうなら彼女の存在に支えられて、私は存分に戦えたのである。

ちょっと大きな企画をするときに、絶妙、冷静な助言にどれだけ助けられたことか。のぼせる私の頭を何度も冷やし、おかげで言い知れぬほどの勇気、自信、覚悟が湧いてきたのである。

時に、ある意味で能力を超えたかのような力が、決断力が湧いてきたからこそ、22年間もの長きにわたって、大それた企画プロデュースができたのである。その間子育て他、私の目に見えぬ家族の大事、一切を彼女が采配(彼女の能力は私が一番知っている)したればこそ、我が家の秩序安寧が保たれていたのである。それは今もである。

そのことへの感謝をコトバだけではなく、これから行動で示さなければと、殊勝に私は考えている。 

あの日、吉祥寺で出会った日の出来事は、おそらく死ぬまで忘れることはない。妻は人生の行く末、これからいかに生きてゆくのか、途方に暮れていた私を拾ってくれたのである。

食べ物だけではなく、居場所も含め、オーバーではなく全部を与えてくれたのである。妻はあらゆることが、ほぼ完全にといってもいいほどに、物事の見方や感じ方が異なるのだが、肝心なこと、ところだけは一致している。

子供に関して、孫たちのことに関しては、まったくといっていいほど一致している。だからなのだ、共に暮らしてこれたのは。これ以上打つと、老いたりとはいえ、いまだ気恥ずかしいので打たないが、いつの日にか五十鈴川だより、最終回を覚悟して打つ時には、彼女と巡りあえた、幸運、命運を臆面もなく打ちたいと、考えている。

2021-08-29

8月末、昨日今日と、たまっていた新聞に目を通し切り抜き熟読。そして想う。

 残暑が厳しい夏の終わり、8月末の休日を、昨日今日と家の中で過ごしている。次女のお世話で上京し、岡山に戻ってからは酷暑の中、すぐに肉体労働に午前中だけとはいえ、復帰したがために目を通していない新聞が、10日余りたまっていて、昨日今日と、じっくりと目を通していたからである。

それにしても、米軍がアフガニスタンから、撤収作業を進める中、こうも早くタリバン政権が樹立するとは、想像だにできない出来事のように思えるが、歴史は常に予測を破り展開する。

地獄の修羅場、とても他人ごととは私には思えない。私の人生を変えたとまではいわないが、大きな高校生の時の映像、ベトナム戦争、サイゴン陥落、米軍が撤退する映像とダブル。うつのがむなしいほどに世界の流血はとどまることをしない。(そのような歴史的な大転換期、わが孫葉(よう)君はこの世に生を受けた)

流血は流血を呼ぶ、けっしてやまない。きっとアメリカ兵がいる限り、テロは終わらないのでは、と思える。遠い島国の一人の老凡夫には 、想像の及ばぬ展開のあれやこれやの、軽佻浮薄な憶測をこれ以上打つことは、無知のそしり、控える。ただただ、命の報道のあまりの軽さには、耳をふさぎたくなる。(無関心は巡り巡って我が身にも起こりうるという、最低限の想像力を失いたくない)

したがって、自分の感覚が麻痺しないように、信頼に足る方の情報に耳を傾ける程度で、切りとられ、編集された映像の繰り返し、一方的な、どこか茶番的な報道には、懐疑的な私である。

それは購読している新聞にも言える、が、その新聞に藤原辰史(京都大准教授、人間・環境学研究科博士)氏が、8月26日、タリバンのアフガン制圧、大国の物語に乗るな、という冷静な発言記事が目に留まり、切り抜き読んだ。

長くなるので、五十鈴川だよりに簡略に打っておきたいのだが、藤原氏は中村哲先生がお書きになった、【医者、用水路を拓く】を引用し、今起こっている問題の核心を限られた紙幅で分析しておられる。

50歳目前、中村哲先生の著作に触れ、目から鱗が落ちるかのように、アフガニスタンの国難の数々の歴史、地政学的な国土の複雑さ、また女性の置かれている立場への、西側諸国の一面的な(ただ女性が虐げられ、学ぶ権利が奪われている等の)理解の浅さにも、わずかではあるが気づかされた。

もし、中村哲先生の御本を読むことがなかったら、単細胞の私など、すぐにタリバンは テロ集団である、と短絡的に刷り込まれてしまうのではないか、と危惧する。ことはそうはあらゆることが単純ではない。一筋縄では解けない、何十二も重ねられた、血塗られた歴史の怨嗟が、底知れぬほどにとぐろを巻いているのである。

(私は中村哲先生の本を読んだことがないヒトとは、アフガニスタンについては語り合う気がおきない)

いつものように話を変えるのは、とてもではないがこのコロナ渦中の今、多方向から多面的にに日々報じられる世界的出来事、起こっていることを、冷静に受け止め、記し、打つほどの咀嚼力は凡夫の能力を超えて余りある。

だから、余りある出来事、手に余ることには沈黙をもって代えるしか精神の安定を保つしかないのである。だがそれは無関心では決してないのだということは、はっきりと打っておきたい。幸い、私には場所があり、小さなサンショウウオのようにじっとしていながら、デジタルのおかげで発言できる。在り難いことだ。

私の真夏暑さ対策、コロナ対策、熱中症対策の一つは、何かに熱中する時間を持つことである。コロナ以前もうほとんど辞めていた、新聞の目に留まった記事を切り抜く作業、姿勢を正ししっかりと読むために、このコロナ渦中、熟読したのち、使い古しのノートに切り抜いて貼りつけたり、ファイルししまい込んだ。(いつの日にか孫たちに読んでもらいたい)

昨日と今朝で、30以上は切り抜いたのではないか。以前は文化的な記事の切り抜きが多かったのだが、近代史の記事(加藤陽子先生の近代史の扉)戦争孤児の記事、引揚体験者の記事、原爆を伝える方の記事、戦争体験の継承に関する記事、オリンピック後に関する記事、小さな人間の素晴らしさを伝える個人、庶民の記事、私が青春時代影響を受けた方の訃報記事(例えば最近では状況劇場のヒロイン、李麗仙、声が耳に焼き付いている)、60年代70年代の演劇を研究している方の記事、等々を。

我ながら、なぜこんなことをしているのかは、わからない。が敢えて打てば、死者たちの声に耳を傾ける訓練を続けることが、今の私にはどうしても必要だからである。(いまを感謝し良く生きるために)

気が付くと、時間は過ぎている。いかに生きるのか、生きないのか。夜明け前の半月を眺めながら、虫の音を聴く。

 


 

 


2021-08-24

コロナ渦中、束の間東京滞在記、感覚がほやほやのうちに、夏の終わり夕刻に記す。

昨日に続いて、わが長女家族について、身体の記憶が生々しいうちに、わずかでも打っておきたい。長女家族は東京都稲城市のマンションに住んでいる。

長女には、今年の3月で3歳になった、私にとっては初孫の望晃(のあ)君がいる。コロナでなかなか上京できず、葉君が生まれてくれたおかげで、久しぶりに長女家族とも再会がかなった。

上京した翌日、15日日曜日には、次女のところに長女家族も集まり、17日がちょうど長女の生誕だったので、一足早くお昼にお誕生会をした際に、ノア君とは再会を果たせた。立派に会話ができるようになっていて私を驚かせた。

16日午後、時間を見つけ三鷹まで玉川上水沿いに散歩がてら歩き、啓文堂書店で長女へのプレゼントに本を買い、当日午後お誕生日届けることにした。翌日夕刻17時半、自転車でノア君を保育園に迎えに行った娘と駅で待ち合わせ、3人で駅からマンションまで約10分、ゆるやかな登り道を、自転車を押し会話しながら歩いた。

途中、ノア君が猫じゃらしほかの雑草に興味を見つけ、嬌声を発するので夕飯にはまだ早いし、明るいので二人で公園で遊ぶことにした。しばし娘もともにいたが、一足先に帰り、私はノア君との二人(たまたま雨がやんでいた)束の間時間をここぞとばかしに過ごすことができた。

約10か月ぶりに抱っこしたノア君は、古希目前のおじじには、いささか手ごわい重さになっていたが、素直に抱っこされるし、またしばらくは、体温や感触をこんなにも 密着して感じるチャンスはないのだと、我が身に言い聞かせ、負担を軽くすべく抱き寄せ抱っこ、しばし3歳5カ月の孫の重さを、我が身で体感した。

リアルな重さ、苦しくとも抱っこできる今を味わいたかった。きっと数年後はたぶんできない、今がすべてと言い聞かせ。久方ぶりの孫の成長している重さを、がっちりとわが細身の体で受け止め、娘の誕生日、雨だったが思い切って来てよかったとおもった。

 仕事を終え帰宅してくる夫レイさんを待ち、伴に夕飯をすることにした。午後7時過ぎ、仕事を終えたレイさんが帰宅、(娘の誕生日だったし私が来ていたので予定より早く早く帰ってきてくれた)思わぬお誕生晩さん会が実現した。レイさんがちゃんとノンアルコールビールを用意してくれていた。

ノア君は早めの夕飯の後少しぐずったが、寝付いてしまってから、レイさん、娘、私の3人で久しぶりに8時半まで語り合い、娘のところを辞し、雨の中を駅まで歩き、調布に出てそこからバスで次女の住むマンションに帰ったのが9時半。

ちょっとハードな往復ではあったが、東京郊外のマンションに娘二人がそれぞれに家族を持ち、行き来しているそのことに関してどれくらいの距離感でなのか、知りたかった。

京王線と小田急バスを乗り継いでの、コロナ渦中雨の沿線往復小さい旅見つけた、である。古希目前の初老男には、雨の都会の郊外の車窓行き交う無言の人々の、生活行列がどこか夢の中の風景のようにも思えた。

ひさかたの孫の重さは、岡山の日常生活では決して味わえないし、葉君が招き寄せなかったら、娘の生誕にも駆けつけることなどできはしなかったろう。今やりたいこと、やれることに全力でエネルギーを傾注していると、何やらいいことが、このような閉塞感に満ちたコロナ渦中でも、実現するのが不思議である。

さて、書いているといろんなことが思い出されてくるのは、老いつつもどこかで脳の、身体のシナプスが活性化しているからなのだと、都合のいいように考えている。きっと望晃くんや、葉君がおじじにエネルギーをくれているのだ。(と)

さて最後の日、次女家族にお別れし、再び長女家族の下に 私が着いたのは午前10時である。すぐにレイさんとノア君、私の3人で梨畑の未知を歩き、図書館に出掛け往復午前中散策、すっかりノア君は久しぶりの生の私になれ、すぐ抱っこを迫る。

何回か抱っこした。重かった、腕の筋トレ、足腰の老いの鍛錬、いろんなことを考えながら、今しかできないのだから、甘えているのだから、頼っているのだから、老いの身をフル回転、耐えた。

地面に降りてくれた時の解放感。孫のなんとも言えない柔らかさと感触は、おじじ孝行の極致である。突然頬にキスしたら、キスを返してくれたのには、ほんま予期せぬ出来事で、おじじはコトバにできないほどしびれた。(ノアくん、ありがとう)

お昼の後、私とノア君はお昼寝。昼寝の後、今度は娘とノア君と私の3人で近所の公園他を散歩散策した。ここでおじじとノア君が見つけたのが、ノア君の倍以上の高さがある背高泡立ち草。私が引き抜いて根についた泥をはらい、やりのように持ち、ノア君めがけてお尻ぺんぺんと追いかけまわすだけの、単純極まる遊びなのだが、これが意外なことにノア君に大うけ、娘も大喜びだった。

ノア君のなんとも言えない声音が、団地やマンションや建売がひしめく天空に響き渡り、岡山ではない、稲城の空に響き渡った。私はその声音の透明で純粋な響きに、身体の奥深くがゆれた。娘の爛漫な声も久しぶりに聞き、コロナが顕れてからこの方の、どこかに澱のようにたまっていた嫌なものが、吹き消されてゆくかのように思えた。輝く思い出ができた。

これで終わらない、夕食の後、最後の夜のお出かけ。夫でナイスガイの父親レイさんが、私の要望に応えてくれ。私がお昼寝していた間にたくさんの花火を買ってきてくれていた。車で15分くらいのところの花火ができる公園まで、4人で出かけ、夏の終わりの思い出が。

わずかな時間だったが、花火は長女家族の温かみを闇の中に浮かび上がらせた。この時も私はノア君の時折発する、明晰なコトバに、 確かな成長を随所に感じた。これはリアルに体感しないと分からない感覚というしかない。花火を終え、しばし闇の中の遊具でノア君は全力で遊ぶ。

【遊びをせむとや生まれけん】 梁塵秘抄のコトバが蘇る。最後闇の中で、最後の抱っこをした。心が通じ合った。部屋に戻り、シャワーを浴びたノア君は、この間と違って娘が本を読んだら、あっという間に寝入った。

翌日朝8時、稲城の駅で長女家族とお別れ、心なしかノア君は寂しそうであった。(娘たちはお肉をたくさん持って、2台の自転車で次女家族に会いに行った)会うは別れの、である。一期一会とはよく言ったもの。ノア君、葉くんの変化成長が楽しみである。孫たちは、おじじに物事の内省を迫る。

レイさん、周さん、娘たちの夫、孫たちの父親、お二人に脱帽です 。今しばらくお二人を見習うことにします。元気なうちに。


2021-08-23

次女に男の子(葉)くんが生まれ、三鷹市下連雀のマンションまで、1週間お世話に行ってきました。そして想う。

 8月22日午後、8泊9日、次女の初孫のお世話を済ませ帰ってきた。最後の1日は長女のところで過ごし、二人の娘たち家族と、このコロナの猛威が今もやまない中、久方ぶりの再会時間が過ごせたことは、私にとっては極めて個人的に在り難いというほかなかった。

わずかではあれ、滞在期間でのつれづれを、記憶が風化しないうちにわずかではあれ打っておきたい。 

次女は東京都三鷹市下連雀のマンションにすんでいる。私にとっての二人目の孫のお世話、次女の産後のケアのために駆けつけたのである。上京するに際して、男親の私にやれることは妻と違って限られるのではとの、懸念がなかったといえばうそになるが、想像以上にいろんなことがやれ、愉しい時間が次女家族と私の間で送れたことに関して、ちょっと驚いている。

それがなぜなのかは、私にもよくわからないし、私が過ごした生活の中でできたことのあれやこれやを、つまびらかに打つことは控えたい。なぜならなんだか自慢話的になりそうで、打つのが気が進まないのだ。

だが後年孫が大ききなり、よもや五十鈴川だよりを読んだりすることが、あるやもしれないし、ほんの少しでも打っておきたいという、おじじの絶対矛盾的おもい、お許しください。

私のやれたことに関しては義理の息子、娘たちの記憶に残ってくれただろうから、いちいち打たなくても、後年孫(葉、よう)君に伝えてくれると思う。私が一番うれしく、お世話に出掛けてよかったことは、ほぼまるまる1週間、葉君を中心にして娘と義理の息子と4人での生活が極めてスムーズにできたことの喜びは何としても打っておきたい。一言愉しい1週間が送れたことの喜び。コロナや大雨で暗いニュースが多い中、親子間の笑顔が絶えなかったこと、あらためて家族の極めて当たり前、普通のつつましい暮らしの大事を痛感した。

3食毎日食事を共にしたのは、義理の息子とは初めてのことだったし、月曜日を除いては毎日家でのリモートワークのなかで、若い夫婦が助け合い、気持ちよく葉君のお世話をしながら子育てしている姿に、私は感動した。

だからなのだろう、私もお手伝いができる喜びが深まり、古希目前にして新たな役に立つおじじの可能性の自覚が一段と芽生えてきたのである。親ばかを承知で打っておきたい、娘の結婚してからの変貌ぶり、生活力、母親としての自覚の自立ぶりにも驚かされた。(それは全く長女にも言える)親子という関係性ではあれど、もう立派に自立し家庭を持ち生きている一人の女性であることをあらためて認識した。

そして想う。いろんな意味で心に余裕のある今の私だからこそ、タイミングよくお世話ができたのだと何かに感謝する。ルーティン生活のなか、充実した意外性に満ちた、面白い束の間の生活が送れたことは、逆説めくが、コロナ渦中であったからともいえないこともない。不自由の中での自由をいかに愉しみ作り出すかは、各自の心かけ次第である。

リモートワークでなかったら、3食語り合い時間は持てなかったかもしれない。新しい命との限られた空間の中での自粛生活をいかに楽しみ生きるか。試練は人を鍛える。逃げてはならない。

ひとつ釜の飯を食うと昔から言う、わずか1週間であれ義理の息子の性格の素晴らしさ、意外な面を目の当たりにして、娘の伴侶のかいがいしさに私は打たれ、葉君家族の役に立てるように、1日1日私がやれそうなこと、若夫婦にしてほしいことを遠慮なく伝え、何とか実行することができたことの老いの喜び、きちんと打っておきたい。

最後の日のお別れ晩餐の後、二人から感謝の一文をもらった、感動した。いちにちいちにち、葉君は 成長を続ける。親は献身的に見守り育てる。今日で生後ひと月である。

(次女のところに7泊、最後の日は稲城の長女のところに、泊まった。そのことについてはまた打ちたい)


2021-08-14

コロナウイルスデルタ株が猛威を振るうパンデミック渦中、孫に会いに上京する朝に想う。

 今日から一週間、次女の初めての男の子の顔を見に上京する。先週妻は10日間いっていた。今度は交代で私というわけである。 

時は折しも、コロナウイルスデルタ株の猛威が、加速度的に増え続けている渦中の上京ということになる。他県をまたいでの移動自粛、人流を5割減らそうとのメディア報道、不要不急の外出をさけてほしいとの、声も耳には届いているが、この一年半の間長女の孫にも会うのを控えてきたが、今回は覚悟を決めて上京することにした。

今年3月のコロナ生活渦中での、3回にわたる手術入院で、大いなる反省自省的生活を今も送っている。性格は変わらないにもせよ、生活を根本的に見直すことを。おおよそ50年間アルコールを口にしなかったことがない(もともとアルコールに強い体質でもないのに)かのような日々に突然別れを告げ、もうすぐ半年近くなる。

50年近く続けていた生活習慣を突然断ち切ることができたのは、身体の奥深いところからの悲鳴の聲をあたえられたからだと思える。ヒトの考えは各人まったくといっていいほど、異なる。健康を取り戻し、医者から飲んでもいいと許可が出たら飲む人だっているだろうが、私の場合は、命の不思議、有難さをいやというほど味わい、考えさせられたので、今後はアルコール抜きの生活を実践し、どのように自分自身が変化するのかしないのかを、見極めたいのである。

哲学者の池田晶子さんのコトバがある。ヒトが死ぬのは病気のためではないと。生まれてきたから人は死ぬのであると。これが宇宙の定理、摂理であると。哲女(ごめんなさい)の研ぎ澄まされた本質的な思考のコトバは、あらゆる現代社会に跳梁跋扈する、欺瞞性に満ちた言説に、敢然と矢を放つ。

その命がけの思考が放つ、ある種の覚悟を決めた言葉は、すがすがしくも清冽で潔い。だからなのだろう。少数の根強い読者が、彼女の死後もロングセラーとして、読まれ続けるのは。

池田晶子さんはお酒が大好きであったと聞く。酒豪であったと。お酒をスピリッツというが、飲んでますます思考がさえ研ぎ澄まされ、哲女は飲んで崩れることはなく、何よりもひとり酒で、この世から消えるまで鉛筆とノートを傍に置き、生と死についての存在論的迷宮思考を続けたという。あっぱれな人生というほかはない。

だから彼女は、まったくといっていいほど死を恐れた形跡が遺された言葉からは皆目見当たらない。もっと打てば、死を超越して哲学思考を重ねコトバを遺したのだと。畏怖するほかはない。

何を私は考えているのかおぼつかないが、要はお酒を飲もうが飲まなかろうが、産まれてきた以上は、覚悟をもって生きよと、哲女は伝えているかのように私には思える。


2021-08-13

静かに物思う夜明け前の夏の朝。

毎日ではないにもせよ、10年間 近く五十鈴川だよりを打ってきて、よく続けてきたものだとのささやかな感慨にとらわれることがある。どこか今日のささやかな現在のおもいのかけらのような言葉が体の、あたまの、胸のどこかに浮かんでくる(浮かばなくても、思念する)それらを消える前に素早くキャッチ、キィを打ち文字が顕れてくるのが、まったく予期しない言葉が生まれてくるのが、つまりは苦しくも打ち続けている楽しさなのである。

降ってわいたコロナ生活、おおよそ1年半、この間そして今も否応なく続けてゆかなければならない状況下で、一人でささやかに思考し、絶えずふわふわと揺れ動く老いゆく中での、日々のつれづれを、キィで打つのは、内面の掃除、整理整頓をし続けながら、新鮮な酸素を体に取り込むかのようなあんばいで、時折強烈に打ちたくなるのである。

10代の終わりころまで、読むのも書くのも、まったく苦手としていたことが、真逆とまで言ってもいいほどに、いわば好きになってしまうのだから、いかに自分という存在が不思議な存在であるのかは、自分としてもようとしてわからない。

だが老い楽、晩年になっても、このコロナ自粛生活のおかげで、五十鈴川だよりを打ち続けてきたおかげで、まだ自分の心と体は更新し続けているといった感覚が、在るのがわかるので、厚顔無恥を満天下にさらしている、といった次第なのである。

と、ここでいつものように話は急展開、このところささやかにバイト先で手でつまんで、雑草を引き抜くという、かなり腰に負担のかかる行為を、時間を決めて無理のない範囲で、しかもあきらめず、コツコツと続けている。

菜園場の草取りもそうだが、かがんでしゃがんでのかなり体に負担のかかる作業を、意味もなく続けている。ただただ手先を動かす。指の血色がすごくよくなりつまむ力が付く。土の香りを嗅ぐ。一事が万事、何事も面白くやっていると身についてくるのをわが体は、体得している。万物の母土との哲学的対話。

掃き掃除、拭き掃除、あらゆる体動かし日常生活(機械を使っても)近代化以前、わが先人たちはいかに体の動かし方を、知悉していたのかがわかる。便利になればなるほど、不自由になるという何という逆説。中世夢が原や、富良野での労働、そして今も過去の経験の上に、そこそこ動け働けているのだと知る。

何事も一朝一夕には叶わず、焦っては何事もなしえない、人と競うのではなく、自分との対話の上に、身体が喜ぶことを見つけてゆく。病を体験し、謙虚に自分と向き合うようになってきたように思う。私は喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプである。だから、五十鈴川だよりを打ち自省する。世界の多くの地域で困難を生きる、生きざるを得ない人々のことに想いをはせる、人間としての良識感覚は持ち続けたい。

そのために、一日でも長く肉体労働を続けたいのである。

2021-08-11

間もなくお盆、敗戦の真夏、無数のいたたまれない老若男女、死者たちにおもいにはせる夕刻の五十鈴川だより。

 妻が家にいる、そのことだけで五十鈴川だよりを打とうという気持ちになれるのは在り難い、シーンと静かな夕刻の五十鈴川だより。

8月は、広島と長崎に人類初の原子爆弾が投下され 、コロナ下での式典は、東京オリンピックともかさなり、メディア報道はいつにもまして少なかったように思える。

被爆体験者は年々高齢化し、その言語を絶するコトバかしえない悲惨な出来事の風化は、いかんともしがたい現実として、間もなく古希を迎えようとしている、初老凡夫にも、このままでいいのかとの、やるせない矛先をどこに向けたらいいのかとの、被爆者の無念の思いが、届く夏である。

昨日も書いたが、手術退院後、新聞記事の被爆体験者の記事、以前は固く口に閉ざしておられた方が、90歳を過ぎて語り始めた記事など、病の効用というしかないのだが、きちんと読むようになってきた。我が身のこととして考える。

もっと打つなら、そのあまりの過酷さを、爪の先程度の想像力であれ、うけとめ考える力を養い、インターネットで五十鈴川だよりを打ちながら、わが想いのいたらなさを振り絞り、戦争の極致の果てに投下された、核爆弾の不条理極まる出来事を、心ある一人一人が、あらゆる方法で伝えてゆく、気概を持たないと、まずいと自省する夏である。考え受け止める力を養いたい。

このような思いを共有できる人種や世代を超えた人との出会いを、求めたいと思う気持ちが、老いてきつつ深まってきている。気づきの深まりには年齢は関係ない。

大きなことはできなくても、コケの一滴のようなおもいで、一滴のおもいを一文に込める。平和とか安心とか、安全とか、血や汗の伴わない、空虚極まる痩せた言葉、思考停止言説が無尽蔵に日々生み出され、あっという間に消費され、忘れ去られてゆく現実に、冷静に立ち向かうには、考える力を蓄え、日々研ぎ澄まさないと、私のような単細胞人間はまずいのである。

真夏炎天下汗を流しながら、【身体で考え思考する】かってあった悲惨な出来事に想いをはせ、今この世に在り、穏やかに当たり前を享受できる在り難さ、風に揺れる樹木の木の葉の向こうに浮かぶ夏の雲を眺め、老いゆく2本足で大地を踏みしめ、何気なさを噛みしめ、無念の死者たちの霊に首を垂れるのである。

2021-08-10

哲学者・池田晶子さんのコトバを浴び、猛暑を乗り切る。

 オリンピックが終わり、昨日夕刻10日間次女のところに、孫のケアに出掛けていた妻が帰ってきた。

10日間何とかひとり暮らしをこなし、妻にとっての家族、メルと花のおせわもし、平日は猛暑の中午前中は働いていたので、疲れた体のケアに努め、五十鈴川だよりを打つ気がおきなかった。

来年は古希を迎えようかという年齢なのに、この真夏の暑さの中での肉体労働は、正直 いかんともしがたくこたえるが、何とかやれているそのことに、自分自身が驚いている。

この暑さの中での私の一番の対策は、午睡と午睡後の水浴読書である、午後3時過ぎくらいから2時間近くを水浴しながら本を読んで過ごす。下半身浴から徐々に首までつかり、しばらくしたのち、下半身を水に浸し本を読むのである。

午前中の肉体労働、ほてった身体では、頭が読書モードにならないのに、すぐに本の世界に集中できるこの水浴読書は、暑夏を乗り切るための必須不可欠時間、老いの悦楽時間となっている。

熱帯夜の夜などには、妻のいない間何回か、夜も寝る前に水浴読書をして、何とか心身のコンディションを整えて、よく眠り、気持ちよく肉体労働に励めるように、ただそのことのみに集中して、一日一日をしのぎやり過ごす、といった体のこの10日間を過ごしていたのである。

読んでいた本は、池田晶子さんの【考える日々・全編】若松英輔さんの【池田晶子 不滅の哲学】など。3月の手術退院後、以前にもまして、生と死についての考察、存在とは何か、自分とは何か、を小生真面目に考えるようになってきたように思う。

人類の英知の喧々諤々の思索の歴史、そのさりげない知見の表現に、該博なる知識を感じる。難しい語彙や表現を、門外漢無知蒙昧の私にもわかる言葉で伝えてくださる知性。

永遠の謎をしつこく考え続け、そのことをコトバに置換した、哲学者池田晶子さんの本を、わかろうがわかるまいが読んでいる。読んで居る場所が水の中なので、時折冷や水を頭からぶっかけられたように、はたと膝を打ったりしたりして、これだから、本を読まねばならないのだと、老骨に水を打つのである。

【古希近く・哲学するか・盛り夏】といったあんばいなのである。一口に哲学、私にとってはうってつけ、お金不要、あたまと体、心身があれば、思考への迷宮旅、じっと動かず、水の中で蛙にでもなったかのように、沈思黙考時間を過ごすのである。

池田晶子さんの、鋭利な刃物のようなコトバに、古希近くにもなって浴びせられようとは、思いもしなかった。だから生きていることはかくもつらくも面白いのである。病を経験することで以前は気づかなかったことが、深くとらえられたり、感じるようになったりしたのかもしれない、とまあ私としては、よい方に考えるのである。考えることは面白い。

コロナの猛威収束が 一向に見えない今、猛暑の日々の生活の中、何とか頭を冷やし、私は哲学的な時間を過ごすことで、生きている老いの今を見つめ、先人の哲学者の生きたコトバに清められるのである。


 

2021-08-01

いよいよ8月、夏の暑さで頭が回らないが、暑さ対策五十鈴川だよりを打ってしのぐ。

 8月1日は水の日であるとラジオでいっていた。そのこととは全く関係がないが、時は流れ早8月である。オリンピックが始まりすでに半ば、新聞もテレビも予想通りお祭り的な報道一色に染まっている感が否めない。

メガポリス東京の感染者数が昨日4000人を超え、岡山も含め全国的にもコロナの感染者数は燎原の野火のように広がり、このままどのような結末を迎えるのかは、予断を許さない事態である。

オリンピック報道に彩られる中、異を唱える少数マイノリティの醒めたジャーナリストによる健筆、コラム、記事などを探すが、極めて少なく感じる。そのような中、作家の島田雅彦さんが(しっくりくるので)7月24日M新聞に特別寄稿、【五輪というダークファンタジー】という一文を寄せている。

諧謔性に富み、豊かな教養知性力に富、どこかユーモラス、そして筆法鋭くコロナ渦中のオリンピックの、そのあまりにものお粗末な欺瞞性の数々を、独特の文体で容赦なくあぶりだす。お見事というしかない、透徹した思考はこれぞ物書き売文業の真骨頂、よくぞ書いてくださったと快哉を叫び、切り抜いてノートに貼りつけてしまった。

それにしても、こうも暑いさなかによくもオリンピックが行われているものだと逆の意味で呆れ感心てしまう。初老凡夫の私は、とうの昔にオリンピックそのものに対する関心はなくなっている(個々の選手には関心がある)し、早くこの欺瞞性に満ちたオリンピックが終わり、静かな秋の訪れをただ待ちわびている。

だが、コロナ渦で必然的にあぶりだされた茶番的金慢性に彩られた、あらゆる欺瞞性のつけはすべての国民が負わされる、歓喜の後の事後処理、その覚悟だけは片隅に持っておくべきだろう。

(ただ誤解なきよう打ってておくが、メダルの色、順位、国籍に関係なく、好きな競技で、その思わぬ意外な人間性が、私の胸を撃つ品格がおのずと浮かび上がる選手は、そっとひそかに応援している。たくさんいるがやはり若い純粋さを感じる選手。一人例をあげれば、サッカーの久保建英選手、まさにトランスナショナルな選手が、スケートボード、サーフィン等で台頭しているのが、救いである、あきらかにこれまでの日本人選手とは異なるにおいを放つ世代の)

 いきなりいつものことながら話は変わる、夏になると 来年は古希になろうというのに少年期の夏の思い出に、いまだ浸りきる自分がいる。ああ、わが心の五十鈴川へと、こころは回帰するのである。生家は消えてしまったが、わが心には健在で、敷地の中で過ごした小学校5年生までの今となっては宝となった少年期の記憶は、おそらく私が消えゆくまで、繰り返し内面美化され、40代で元気であった両親の姿と共に蘇る。

家のそばに在った田んぼに水を汲みだす用水路でのパンツ1枚での水遊びの気持ちよさは、忘れられない。プールなどというしゃれたものはなかった。1文のお金がなくとも、子供は遊びの天才なのである。それがどうしてお金がないと遊べない大人になるのかが、いまだわからない。ヒトは存在そのものが遊び心の塊であったに違いないのに。ああ、わからない。

なんだかとりとめのない一文になった、暑さのために 頭が茫洋としているからだ。五十鈴川まで帰るのは、時間がかかるしコロナ下での帰省はままならないが、そっと超短い夏休みをとらないと、時代の趨勢に流されてしまう愚者になってしまう。

命の水の日、五十鈴川で老いの身を清め、金銀銅のアナウンサー他総出演タレントの雄たけび繰り返しの熱狂国威発揚イベントから身を守るには、目を閉じ、競争順列からは限りなく遠い、見えない存在の大いなる人知を超えた豊饒な世界にこそ耳を傾けたい、真夏の老い人である。