8月31日は、私にとっては忘れられない日である。孫達のためにもこの日のことは、此の先も五十鈴川だよりを打てる間は、短くともきちんと打っておきたい。
この日の出来事は、五十鈴川だよりを打ち始めて繰り返し打っているのではないかと思う。そう、私が富良野から3年ぶりに東京に戻った 34歳の時、吉祥寺のとある場所で、現在の妻と巡り合ったのである。
35年前の出来事である。もし妻と出合わなかったら、その後の私の人生は、灰燼に帰したとまではいわないが、無味乾燥な人生を送ったであろう公算は大である。もういい年齢なので、厚顔無恥臆面もなく打っておきたいのだが、彼女との出会いがもしなかったら、私の中の能力のようなものがあるとしたら、一切開花することなく 、しまい込まれたまま人生を閉じた可能性が大である。
ことほどさように、人生一寸先のことは分からない。だから打てる時に、妻への感謝を打てる時にきちんと打っておきたい。まことに持って縁は異なもの味なもの、出会いがすべてである。
何回かは書いているので重複は避けたたいとは思うのだが、 今後年齢を重ねるにしたがって、いよいよもって、夫婦というもののめぐりあわせの不思議、在り難さは、打てる時に記録化して娘たちにも伝えておかないと、と考えるのである。
あの時に書いておけば、などと思っても、ああ無常となってからは遅い。だから頭と体がしゃんとしているうちに、この35年間の 感謝を五十鈴川だよりにしっかりと打っておきたいのである。
妻は私にとって人生で初めての味方であり、理解者であり、まだ知らない私自身の能力を引き出してくれた人である。彼女の存在がなければ、私は岡山に移住することもなく、中世夢が原で働くこともなかったかもしれない。
たった一人の味方ともいうべき存在は、かくもその後の私を(いまもだが)変えてしまったのである。コトバを変えていうなら彼女の存在に支えられて、私は存分に戦えたのである。
ちょっと大きな企画をするときに、絶妙、冷静な助言にどれだけ助けられたことか。のぼせる私の頭を何度も冷やし、おかげで言い知れぬほどの勇気、自信、覚悟が湧いてきたのである。
時に、ある意味で能力を超えたかのような力が、決断力が湧いてきたからこそ、22年間もの長きにわたって、大それた企画プロデュースができたのである。その間子育て他、私の目に見えぬ家族の大事、一切を彼女が采配(彼女の能力は私が一番知っている)したればこそ、我が家の秩序安寧が保たれていたのである。それは今もである。
そのことへの感謝をコトバだけではなく、これから行動で示さなければと、殊勝に私は考えている。
あの日、吉祥寺で出会った日の出来事は、おそらく死ぬまで忘れることはない。妻は人生の行く末、これからいかに生きてゆくのか、途方に暮れていた私を拾ってくれたのである。
食べ物だけではなく、居場所も含め、オーバーではなく全部を与えてくれたのである。妻はあらゆることが、ほぼ完全にといってもいいほどに、物事の見方や感じ方が異なるのだが、肝心なこと、ところだけは一致している。
子供に関して、孫たちのことに関しては、まったくといっていいほど一致している。だからなのだ、共に暮らしてこれたのは。これ以上打つと、老いたりとはいえ、いまだ気恥ずかしいので打たないが、いつの日にか五十鈴川だより、最終回を覚悟して打つ時には、彼女と巡りあえた、幸運、命運を臆面もなく打ちたいと、考えている。