すべてのエッセイは自慢話であるとは、井上ひさしさんの言葉であったかと思うが、老いると自慢話をしたくなる人が多いように思うが、かくいう自分もそのようになってきつつあるのではないかという気がして時折、まずいとは思う。
が、致し方なくも負の面が増えてゆくのが老いるということなのかもしれない。とはいうものの自戒して、そのうな 自慢話をしている自分に気が付かないような老いの無残をさらすような年寄りになるのは、今しばらく控えたいと願わずにはいられない。
限りなく自慢話に陥らないように気をつけたいと思う。ただ相も変らぬ似たような生活戯れ文、金太郎あめみたいな鮮度のない文章を五十鈴川だよりに綴っているのではないかという自戒の念が時折頭をもたげるのだが、これもまたどこか致し方ないないと、厚顔な老いの姿と私自身受け止めている。
綱渡りのように、すれすれのところで自慢話にならないように、自分らしく普通生活の中に初めて経験する老いゆく時の流れを、自覚的に見つめながらいい意味でのつましい老い欲(と名付けてみた)を見つけたいといいよいよ思う。
それもこれも、このところのコロナ渦中生活の中で思考し、実践し続けてきたことでかすかに自信(自分を信じるという意味で)のようなものが生まれつつあるのを感じる。でもそれは一日でも怠ると綱から落ちてしまうかのような、老いの危うさである。
ある日突然のコロナ渦中生活。すべての状況は一変するということを、これまでの人生でささやかに経験を積んできたことが、非常事態生活でも生きている。無駄な経験は本当にない。危機的状況をいかに生きるのか。自分という器で考えるほかはない。
すでに書いたが、今のところ家族や身近な方々にコロナの感染者はいないが、一寸先のことは誰にも予知予測できない。
ただ私がこの一年近くのコロナ渦中生活で心かけていることは、極めて当たり前に、もっと書けば身体を使い、限りなく昔人的に普通に感謝して暮らすことである。
寒い朝起きて新聞を取りに行くと、連日西の空にまあるい残月が浮かんでいた。【寒い朝・残月光り・日が昇る】。普通人の冬の巣ごもり生活をいかに生きるのかは己次第である。