宮崎の県北の海山川で幼少年期を過ごした私のほとんどの感性は、この地で形づくられている、ということがこの年齢になるとしみじみ実感する。(ああ、五十鈴川が私を呼ぶ)
五木寛之さんであったか、松岡正剛さんであったか失念したが、老いてゆく晩節時間は、ノスタルジーに耽ることができるのがいい、そのようなことをお書きになっていたが、うなずけるのである。
きっと老いるにしたがって、ヒトはもっともっと幼少期の世界に回帰してゆくのかもしれない。とくに私の場合はそのような予感がしてならない。
だが、これは今に始まったことではなく、中世夢が原で主にアフリカやアジアやの音楽を企画していたころからそうであるのだということの自覚がある。
目からうろこのように自在な思考にため息が出る御本 |
要するに、もの心つくころからの高度成長、アスファルト化、都市化、ハイテク化してきたこの半世紀の流れに、わが肉体は殆ど置き去りにされ、ついてゆくことにほとほと疲れたというのが、正直なところである。
春には田植え、秋には黄金の実り、稲穂を刈る原風景がことのほか懐かしく、老いてなお私の幼心を刺激してやまない。
きれいな水、きれいな酸素空気、安全な食べ物、健康、家族、親族ほか、眼には見えない生きてゆく上で欠くことのできない大切なもののけ、を見誤ってはならないと、この年齢になり、あらためて沈む夕日を眺めながら想う。
松岡正剛氏の本で初めて知った歌、作者は失念、【見渡せば・花も桜もなかりけり・浦の苫屋の秋の夕暮れ】性格ではないかもしれない。初老男の胸を打つ。
何百年も前に詠まれた歌が、時空を超えて今の私の心に忍び込み、故郷の秋に想いをはせるノスタルジー。
この数十年の間に我が家の周りの水田はほとんど消えつつある。思うという字は、田の心と書く。歌を忘れたカナリアはどこへと向かうのであろうか。
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