ページ

2018-11-10

シェイクスピア遊声塾丸6年、そして想う、真夜中の五十鈴川だより。

シェイクスピア遊声塾を立ち上げることができたそのきっかけは、やはり還暦を、遠野で迎えて、わずか数日ではあるが生まれて初めてボランティア活動に従事し、あの一瞬にすべてが破壊された大槌町の海岸線の瓦礫の現場に立った時に襲った感情が起因している。

無常観、(感)もののあわれ、ということをあの時ほど現実感をもって感じたことはない。当時私はまだ中世夢が原で働いていて、五十鈴川だよりの前の、囲炉裏通信を書いていた。

私はいよいよこれからの晩年ライフを、いかように生きて過ごしてゆくのかを、その後一年ハムレットのように考えうづけ、思い切って61歳で退職した。人生の4幕目を悔いなく過ごそうと。

何が自分を一番奮い立たせ、何が自分にこれからの時間を生きるのに情熱が注げるか、自問自答したのである。まっさらなおもいで。


二階の部屋から眺めた夕日
結果的に、これまでの人生での折々に翻訳日本語によ(若き日、私はロンドンで翻訳日本語のシェイクスピアを読み、日本語の素晴らしさに目覚めた)る、シェイクスピア作品の言葉に随分励まされ、その作品の壮大な言葉の千変万化する登場人物の魅力、スケールに圧倒され、若き日にシェイクスピアシアターという小さな劇団で、明けても暮れても口を動かし、言葉言葉を発したことがこつぜんとよみがえってきたのである。

何かお告げ的な、インスピレーションとでもいうしかない感情が湧き上がってきて、今やらないと悔いが残る。発作的にシェイクスピア遊声塾を立ち上げたのである。

 草食民族の末裔、ひ弱な肉体の初老の男が、あの膨大な作品の、あの豊饒な言葉を声に出して読みかつ声に出して遊ぶなんてことは、無謀なことであるとの懸念はあったのだが、(いまもある)ほかに何も思い浮かばなかったし、あの若き日にやり残したことを、元気なうちにわずかでももう一度やれりたいとの、淡い夢にも似たような感情につつまれたのである。

あれから6年が瞬く間に流れた。高校生の時に初めてゼフィレッリ監督のロミオとジュリエットを見た時の衝撃が、私を田舎から未知の世界へと、想像力の羽に火をつけた。若かったというしかない。

あれから半世紀、今奇特な塾生と共に毎週声をだしている自分がいる、幸運というしかない。だがそれもいつかは終わりが来る。

終わりは始まりなどともいうが、それはシェイクスピアには通用しない。(シェイクスピア以外のことならできるとは思うが、指導はまた別)この年齢になるとシェイクスピア遊声塾は渾身からの肉体の声が出せなくなったら、ある日突然、終わる。

シェイクスピア作品は、本質的に若くても老いてもだが、声に馬力がないとどこか成立しない、声を出してもむなしいのである。未知の世界を切り開いてゆくような声、声に若さが絶対的に必要なのである。細胞が湧きたつかのような。

だから今年の夏は、絶対声に出しておきたかった作品、リア王を読ませてもらった。この数年、これが最後でも悔いのないようにとの思いで続けている。

なにせ30年以上シェイクスピアを声に出していなかったし、内心不安いっぱいのスタートであったのだが、3年目を過ぎるころから、若かりし頃の感覚がいくばくか蘇ってきて今もかろうじて声が出せているのは、ただただ幸運というしかない。

ただ、いつまで声が出せるのかはまったく私にもわからない。だから、毎週のレッスン時間が、こんなことを書くのは気恥ずかしいのだが愛おしいのである。




0 件のコメント:

コメントを投稿