さて、夜明け前のこの何ともいえない、静かないっときが、何よりも代えがたく私は好きである。ニュートラル、まったくの自由感覚、まずはいっぱいのコーヒーをいただき、穏やかな静寂の中での五十鈴川だより。
若いころというか、つい先ごろまで結構動くこと、行動しながら考えることがほとんどであったかのような、わが人生であったのだが、自分でいうのもなんだが、あまり移動しない静かな暮らし(だが精神は自在に飛翔する)というものが気に入りつつある。
わけても、本を読むことで、今更ながらに自分が無知であることの認識が深まるにつけ、本を読む楽しみが、いちだんと深まってきている。
新聞や何かで、反知性主義主義という言葉を目にするが、知識がいくら増えても、知性が深まってゆくのかは、凡庸な私にはいかんともしがたくわからないが、小さいころから学ぶ(強制的に学ばせられる)ことが苦手で、安きに流れ遊ぶことが好きだった私である。
だから、大学にゆく能力もなかったし、ゆきたくもなかったから行かなかったのだが、なぜなのかはわからないが、歳と共に一人学び、カッコつければ独学遊びが、ことのほか好きになりつつある。
白川静大碩学・元気なうちに爪の垢でも学びたい方である |
強制的ではなく、自主的に自分で遊び気分で学んでゆく、気づいてゆく。限りある時間、未知の世界に蒙が開かれてゆくかのような新鮮な気分を味わえるのが、学ぶことの醍醐味であるのだということを、ようやく晩年時間の今、思い知らされている。
いささか、遅きに失した感は否めないが、お金不要、健康に本を読める体力があれば、これほど面白い、知的興奮が私でも味わえるのであるという気づきの深まり。
何事もそうなのだと思うのだが、持続継続、ある日突然蒙が開かれ、これまでいくらやってもはがれなかったうすい網膜が忽然とはがれたかのような。
これ以上書くと、お里が知れるようで恥ずかしいので止すが、今後は独学時間を、日々の糧にしながら静かに暮らしたいとの想いが深まる、夜明け前の五十鈴川だよりである。
(PS畏敬する・白川静 大碩学は【遊】という文字がお好きだったとのことを御本で知った)
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