老いてゆくにしたがって自分の体が、ますます都市化してゆく現実に、取り残されてゆくかのよう感覚を、稲城でのわずかな娘夫婦との生活で私はもった。(このようなことを書くといささかさみしげでああるが、新しい生命が輝き、老いたるものは静かに退場してゆくのが摂理である)
あらためて、自分の体は土に近いところでないと、生き(呼吸)苦しくなる なる体なのであることを再認識した。(ああ、またもや五十鈴川が私を呼ぶ春である)
エルンスト・バルㇻの彫刻 |
話は少し飛ぶが、上京してすぐ、18歳から3年間、世田谷の井の頭線東松原に在った、貝谷芸術学院の演劇科夜間部に通ったのだが、そこで知り合ったTくん(二年前に他界した)の家が京王線の調布に在り、何回か彼の家に泊めてもらったことがある。
その後、貝谷芸術学院を出てから、人生の進路をどうすべきか、悩みに悩み続けながらの20代の前半、京王線沿線のつつじが丘や、上北沢の小さなアパートで生活していたこともある。
あれから40数年の時が流れ、運命の針は一回り、今長女の住む稲城と次女の住む千歳烏山は、京王線沿線の駅である。(今回千歳烏山駅周辺を、妻と共に26年ぶりに歩いたことは近いうちにまた書きたい)
京王線沿に乗るといやでもおうでも、当時の沿線の風景とのあまりの様変わりに、こころが揺れ青春の光と影が蘇る。(変わらないものがあるとほっとする)
とまれ、こんなことを書始めたら際限なく書くことになるので止すが、調布は二人の娘の住んでいる間に位置する駅であり、青春時代の思い出の駅である。
駅とその周辺のあまりの変容には言葉もなく、私の青春時代の辛くも、今となっては甘美な記憶の面影は ない。もちろん当時はなかった地下3階を京王線橋本行きが走り、稲城駅は各駅停車で調布から4番目の駅である。
(エスカレーターを使わず、地下から地上まで階段を数えて歩いたら120段以上あった。都会は歩けなくなったら、高齢者には過酷な人口都市である)
その調布に娘の用事で今回稲城から出かけたのだが、用事を済ませた私は、約半世紀ぶりに、駅から歩いて十数分、T君の家のあった下石原あたりを歩いてみた。
風景は一変したものの、旧甲州街道はそのままで、駅から遠ざかるにつれてかすかに、半世紀前歩いた記憶が蘇ってきた。
当時T君の家は、平屋で金物屋さんを営んでいて 広い敷地には樹木が植えられていて、都心から遠くのどかだった。今はビルディングになり、お兄さんが家を守り一階で金物屋を営んでおられた。
私は思いもかけず、お互い記憶は薄れていても、面影の残るお世話になったお兄さんに、ご挨拶をすることがかなった。
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