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2018-04-28

66歳の春、五十鈴川に還る日の朝のつれづれ。

高齢者の運転での事故がこのところ急激に植え、社会的に話題になることが多い昨今の世相の中、私が宮崎まで運転して帰るということに対して、妻がとても心配するようになってきた。(心配だから一緒に帰省するそうです。本当は望晃くんに会いにゆきたい)

当たり前である、ずっと一人で行きも帰りも高速を運転するのは、私もちょっと億劫である。だから私は、休み休み低速運転で帰ることを最近は楽しんでいるのだが、遠からず汽車やバスを使っての気まま帰省旅におのずから変えようと思っている。今回は妻も運転してくれるので、ちょっと気が楽である。

老いるということは、普通にできたことができなくなるのだから、家族に心配までかけて運転しようとは思わない。老いては子に従えというのは一面の真実である。

幸い私は、汽車やバスでの旅だって嫌いではないので、元気な間は五十鈴川のほとりに立ちたいという、いわば幻を追うかのような、幼年時代への回帰旅は、きっとぼけても内面的には終わることがないのではないかという気が、今はする。

ともあれ、だれもこのように長生き時代がやってくるなんてことは、予想だにしなかったのであるから、シェイクスピアが言っているように、生まれてくるのも消えてゆくのも、意のままにはならないのである。

思うようにはなれない、ならない人生話を、いかにして下ってゆくのかがこれからの運命である。一回こっきりの人生の過ごし方は各人千差万別、私は私なりに下ってゆこうと考える。

この歳になってもふるさとに帰れるかと思うと、うきうき、いつもよりも早く目覚めて、五十鈴川だよりが書きたくなるというのは、我が身の宿業だが、ありがたい業だと私は考えている。幸福とは何か、いまだ私は考える。考える楽しみをささやかに追及する、やめない運動。

安心して帰りたいところが、帰れる場所が、この世に在るということのありがたき幸せを想うのである。人生の折り返し点はとうの昔に過ぎていて、アンチエイジングや、ついてゆけない、またついてゆく気もない、健康長生き志向があふれる世相だが、私は何事もほどほどがいいのだ、の側に立つ。そんなことより、今をいかに生きるのかが肝心だ。
この方の本長年愛読している

だってこれまでの人生、振り返るとよくもまあ生き延びてきたものだとの、運の良さの認識が強く在るからである。とうの昔に消えていても何ら不思議ではない出来事を私は経験している。何度も書ているが、一寸先何が起きるか、予測できないのが、人生の真理である。

だから置かれた可能な範囲で、悔いなく生きるのである。青春期、黒澤明監督の【わが青春に悔いなし】という映画を見て感銘を受けた。思えば、いい映画に若かりし頃いっぱいであった。今でもわが脳裏にはその映像がかすかに残っている。

最近見た映画はすぐ忘れるのに、若いころに視た映画は記憶の片隅で今も私を支えている。つくづく何かに出遭うタイミングの妙で人生は大きく展開する。

とりとめなく、わが五十鈴川だよりは今朝も流れて、出発の時間が来たので今朝はこれにて、戻ってくるまで筆をおきます。




2018-04-25

GW妻と二人旅、宮崎に、門川、五十鈴川に還ります。

今回のGWは、妻と二人で宮崎に車で帰省することになった。一人だったら汽車で帰ろうかとも思ったのだが、妻が一緒にゆくということで車にしたのである。
神谷美恵子訳、(素晴らしい)はじめて知りました。

妻が土曜日からGWに入るので、4泊か5泊はしようかと思案中である。いよいよもってこれからは、どこかしこに妻と出かけるのが、近い遠いは別にして楽しみな私である。

このようなことを臆面もなく書けるのは、おそらく私が戦後生まれであるからだ。思春期に観た、古きアメリカ映画の (シェーンとか、慕情とか、)またヨーロッパの国々のあの時代の映画の影響を多面的に受けているからである。

日本的な、湿った4畳半的な他者の顔色をうかがう文化ではなく、きわめて個人主義的な大陸的なドライな文化に感化されて育った自分がいる。日本人ではあるがどこか外国人でもあるかのような、引き裂かれてある自分を感じる。

話を戻す。妻は還暦までは働くといっているので、長い旅はまだ無理だが、あと数年経ち、 世の中に激変がなければ、可能な範囲で、ちょっと長めの旅もしてみたいものだとは、夢見る。

でも私はいつも思うのだが、実現するしないはともかく、見果てぬ計画を当てているときが、実は一番楽しいのである。

でもまあ、五十鈴川への帰省旅は、毎度のことながら、恒例行事のうれしさ、あと何回帰れるかと思うと、歳を重ねるたびにその重さは増してくる。繰り返し、オーバーだが死出への旅支度といった趣も、どこかで意識すると、ある種の重き感慨に体がつつまれる。

歳を忘れ、浮き浮き帰省できるのは、私のような愚弟を、笑顔で迎えてくれる兄や姉の存在があればこその帰省旅である。

兄に 妻と共に帰ると伝えたら、さっそく妻が行ったことがないような、宮崎から行ける九州の良きところを、次兄と共に予定を組んでくれている様子である。

この歳になると、親や兄弟、近しい血縁との暖かき関係性を築くのは、なかなかに難しい時代性といったものを私自身すごく感じてはいる。

が、幸いにしてわが兄弟は、幼かりし頃の大変な日々を密度濃く暮らしていた記憶の共有が大きいからなのだろう、歳と共に、経済的にではなく生活に余裕が出てきたからだろう、良き関係性が持続している。全員が健康であるおかげだ。

兄弟ではあれ、君子の交わりがその要である。年に数回くらいの帰省の、お互いの無事を祝えるいっときが、幸いである。

いつの日にかは、その兄や姉ともお別れがやってくる。その摂理の時に、うろたえないように、帰省の旅に兄や姉とのたまさかの、かけがえのない時間を今回も刻むつもりである。











2018-04-23

来月85歳になる母について、思う。

土曜、日曜と暑い日が続いたが、母と妻とのいつものコンビで、土曜は母の家の、昨日は我が家の菜園場の夏野菜の土づくりを両日とも午前中とも涼しいうちにできた。

ささやかな菜園場であるが、母が元気なうちにいろんなことを学んでおきたいのである。5月は母85歳になる。有難く元気である。

老々介護や、介護に関する諸問題でのニュースにならない 日がないくらいの、(心が穏やかになるニュースもあれば、陰惨の極みまで)昨今のわが国の世相だが、遅かれ早かれわが家にも、訪れてくることは、避けて通れない摂理である。

が、幸いにして母の自立の生き方のおかげで、わが夫婦は働くことや、私も好きなことが今のところやれている。娘たちも巣立ちともに住もうと誘っても、いまだひとりが気が楽らしいのでそのようにしている。
弓は私に内省を生む

健康体であの年齢で過不足なく、きちんとひとりで生活し、だれにも迷惑をかけず、世話にもならず、絶えず我々や、孫のことにまで細かい配慮ができるなんて、まったくもって見事というほかはない。 
中世夢が原を退職してからは、母と妻との週末時間を大事に過ごすように心かけていることはたびたび五十鈴川だよりでも書いているから、重複は避けたいとも思うが、感心することしきりの母の老い楽ライフである。

どうしたらあのように生きられるのかを、間近で接しながら想い、考える。もちろん持って生まれた資質、運もあるとは思うが、小さいころの暮らしの中での両親の育て方、生き方というものが、大きいのだということがよくわかる。我欲に遠い生き方。

三つ子の魂とよく言うが、本当にそうなのだと思い至る私である。自分のことはさておき、他者のことをあそこまで思い至れるということに。

ほとんどどこにも出かけず、万巻の書物を読まず、(新聞だけはよく読んでいる)芸術や文化に触れず、見栄を張らず、庶民の極みではないかと思えるほどの、つましくも豊かに生きられる実践力に、私は打たれる。

この年齢になって、私は多岐にわたっていい意味で反省するように心かけている。自らを元気なうちに省み、内省的に、努めて母のようにじっと足元を見つめて静かに暮らせるように心かけようと思っている(でもまあ、男である性の私は、今しばらくじたばたするだろうが、できるだけ自然に、正直に)。

最近母と私は、冗談を飛ばしあう中である。その母が私の運転で近場をあちこち連れて行ってくれと(肥料などの重い買い物、山菜取りや温泉などなどに)頼んでくる。そのことが私はうれしい。


2018-04-21

ひさかたの夜明け前の五十鈴川だより。

起きたばかりの体というものは、年甲斐もなく未だ新鮮で、つい年齢を忘れてしまいあらぬことを書きたくなってしまう、なんてことがあるから、些末なことではあるけれども、自分にとっては、ありがたき感覚で、このようないわく言い難い感覚があればこそ、五十鈴川だよりが続いている。

さて、夜明け前のこの何ともいえない、静かないっときが、何よりも代えがたく私は好きである。ニュートラル、まったくの自由感覚、まずはいっぱいのコーヒーをいただき、穏やかな静寂の中での五十鈴川だより。

若いころというか、つい先ごろまで結構動くこと、行動しながら考えることがほとんどであったかのような、わが人生であったのだが、自分でいうのもなんだが、あまり移動しない静かな暮らし(だが精神は自在に飛翔する)というものが気に入りつつある。

わけても、本を読むことで、今更ながらに自分が無知であることの認識が深まるにつけ、本を読む楽しみが、いちだんと深まってきている。

新聞や何かで、反知性主義主義という言葉を目にするが、知識がいくら増えても、知性が深まってゆくのかは、凡庸な私にはいかんともしがたくわからないが、小さいころから学ぶ(強制的に学ばせられる)ことが苦手で、安きに流れ遊ぶことが好きだった私である。

だから、大学にゆく能力もなかったし、ゆきたくもなかったから行かなかったのだが、なぜなのかはわからないが、歳と共に一人学び、カッコつければ独学遊びが、ことのほか好きになりつつある。
白川静大碩学・元気なうちに爪の垢でも学びたい方である

強制的ではなく、自主的に自分で遊び気分で学んでゆく、気づいてゆく。限りある時間、未知の世界に蒙が開かれてゆくかのような新鮮な気分を味わえるのが、学ぶことの醍醐味であるのだということを、ようやく晩年時間の今、思い知らされている。

いささか、遅きに失した感は否めないが、お金不要、健康に本を読める体力があれば、これほど面白い、知的興奮が私でも味わえるのであるという気づきの深まり。

何事もそうなのだと思うのだが、持続継続、ある日突然蒙が開かれ、これまでいくらやってもはがれなかったうすい網膜が忽然とはがれたかのような。

これ以上書くと、お里が知れるようで恥ずかしいので止すが、今後は独学時間を、日々の糧にしながら静かに暮らしたいとの想いが深まる、夜明け前の五十鈴川だよりである。

(PS畏敬する・白川静 大碩学は【遊】という文字がお好きだったとのことを御本で知った)

2018-04-19

丸5年ぶり中世夢が原を訪ねる、そして思う。

中世夢が原退職後、丸5年が経ち、その間娘二人は巣立ち、先ごろ長女に子供が授かり、私はおじいさんになった。

あとどれくらい正気で、五十鈴川だよりが書け、いつ何時、天寿が我が身に訪れるのかは思し召し、皆目わからない。だから深い内省と自覚をもって、今後を生きなければならない、というということを、孫の誕生は私に考えさせている。

後年、いま過ごしているなんとも穏やかな日々が、かけがえのない転機の年だったのだということを、きちんと書いておかねばという 思いの、今朝の五十鈴川だよりである。

さて、詳細は省くが中世夢が原退職後初めて、丸5年ぶりに、22年間、働かせて日本で初めての中世の歴史公園を訪ねた。

初代園長K氏のお声掛けで,開園当時のメンバー中心で集ったのは5名、何しろ開園から四半世紀、高齢化、寄る年波はいかんともしがたく、手仕事職人の方々の姿にはお目通りがかなわなかった。(でも私の脳裡にはくっきりとその方々の存在は今も生きている)

その5名の方々と、園内の三斉 市で集合、元気での再会を祝し、お茶をいただきしばしの語らいを持てた幸運を、私はかみしめた。

中世夢が原は5年前と全く変わらず、時が止まったかのようにそこに在った。そこで働いていたものとして わかるのだ、管理し園内景観を守るのかがいかに大変であるのかが。現スタッフがしっかりと中世夢が原を守っていた。

光陰矢の如しというが、中世夢が原で働くことができたこと、この間の22年間は、いろんな意味で、悔いなく仕事ができた、またとない幸運な人生時間の渦中であったのだということを、あらためて確認することができた。

5年ぶりだったからだろう、余計に風景が新鮮にしみた。矢掛から一気に景観が変わり、見慣れた美星の水田には水が張られ、まぶしいくらいの陽ざしに映える新緑、藤の花が私を迎えてくれた。ああ、この道を22年間運転し続けたのだとの感慨が、こみ上げてきた。

あれから五年経ち、元気に運転でき、夢が原に向かうことができる今に、私は感謝した。

我々5名は、昼食をともにし秋の再会を約束してお別れしたが、私はなかなかゆけないので、時間の許す限り、美星天文台のA氏や、現中世夢が原園長のO氏にご挨拶をして、美星を後にした。

往復120キロ、車での短時間での移動、思い立ったが吉日、出かけて本当に良かった。孫が大きくなったら是非連れてゆきたいと思っている。

その日のために、体と心の元気をしっかりと保つべく心かけねばとの想いを新たにしている。 最後にこの場を設けてくださった初代園長K氏に心より感謝する。

2018-04-17

わが国の平和憲法を大切にしたい、シリア・ダマスカスの悲惨なあどけない子供たちの映像に言葉がない。

もううんざりしている、というのが私も含めた多くの人々が感じておられる、このところのメディアの報道ではないだろうか。私を含めた大衆は日々の生活に終われとにかく忘れっぽい。

自衛隊の日報問題の隠蔽、次々に露呈する、あらゆるあまりの国民をコケにしたかのような、官僚や政治家のおごり、怠慢さ、立場をわきまえぬ振る舞い、場違いな発言等、真実はどこに?歳を忘れて怒りがいまだ湧いてくる。個人個人のレベルでもっともっと怒りを込めて、事の推移を冷静に見据え続けないと、やがてこの国の行く末はと、不安である。

五十鈴川だよりでは、触れようもない、または触れたくもないと短絡的に、短気な 私などは考えてしまう。編集された表面的な報道を、うのみにはできないし、まさに個人レベルでしっかりと事の重大さを思考する力、あるいはうんざりしたすきに、肝心かなめな大切なことを見逃さないようにしないと、まさに、権力者たちの思うつぼではないかと危惧する。

このところ、個人的なことばかり書いている五十鈴川だよりであるが、(それはそれ私にとっては大切なことである)時折納得できないことはきちんと書いておかないと、という反省がある。私自身うんざりはしつつも、歴史は繰り返す、そのつけは考えなかった、考えようとしなかった側に押し付けられてくる。

(効率優先、早い、儲かる、安い、改革やその他の甘い言葉で、仕方がないではないかと、無気力無思考域まで、気が付いた時には陥ってしまう愚を私は避けたい。ゆっくりで何も困らないのに、である。私のような考えは、いまや圧倒的な少数者であることは深く自覚しているが)
分かりやすく大変学ばせていただきました、謙虚に知ることの重さ

特に驚くのは、ないないといっていたのに、イラク・サマワでの戦闘地域の日報が1万3000ページにもわたって、克明に記されていたことが、この時期に露見したこと、なぜ?(もし露見しなかったら、ゾッとする)。

もうすでに日本は、憲法を無残に解釈して、戦闘地域に自衛隊を派遣しているという 厳然たる事実。ささやか極まる五十鈴川だよりに、このやり場のない怒り、驚きをきちんと書いておきたい。

一般大衆のあずかり知らぬところで、事は着々と進んでいることの恐ろしさ、 先の大戦でも、第一次大戦での始まりにしても、戦争というのは始まったら、泥沼化してゆくのは歴史が、証明している。心配しすぎることはない、くらい普段から考える癖をつけておかないと、私のような単細胞はとくに要注意である。

毒ガス化学兵器、(一部の悪魔科学者、技術者人間は、よくもまあこのような残酷な兵器を作るものだ)AIロボット兵器等、シリアのいたいけない子供たちの無残極まる映像には言葉がない。命令一つで、人間の悪魔性がもたらす空恐ろしき兵器を使う側と、使われる側のあまりの不条理、戦争は人間を鬼畜無感覚にしてしまう。

ぼけてしまいそうな、春の陽気の穏やかさの中、世界の片隅で絶えず起きている、不条理な出来事に対 する想像力を、齢を忘れエッジを磨きたい。

先の大戦での、数百万人の死者のおかげで生まれた、戦争の放棄という文言を国是として掲げる、わが国の平和憲法を何としても大切にしたい。




2018-04-15

春うたかた、弓を始めて一年2か月、そして思う。

4月もはや半ば、GWも目前である。次女もこの春から東京生活を始めたことで、二人の娘が使っていた2階のひろい板の間の部屋が空いたため、私はその部屋を使うようになり、これまで一階で使っていた部屋は、全く使用しなくなった。

移動した一番の理由は、板の間であり天井が高いので、弓の素引きができるからである。

これまで畳の間で五十鈴川だよりも、座った状態で書いていたが、二階では娘が使っていたイスとテーブルで書くようになってきた。時折正座したり、以前のように座って書いたりもしているが、正直椅子で書く方が年齢的に楽になってきた。

今も椅子に座って書いているが、背筋だけは意識的に伸ばしながら書く(打つ)ように努めている。

さて、ほとんど物らしきものが 少なくなった、リビングの次に広いこの部屋は、今や私にとって、大切な弓の素引きのできる空間と場に生まれ変わった。

そういうわけで、徳山道場までゆかなくても、素引きだけは家でできるようになってきたので、岡山往復に費やしていた時間がなくなり、大変に助かり重宝している。

65歳の誕生日直前から、弓を始めて一年2カ月が過ぎた。教室ではようやく、素引きから矢を放ち、的前に立てるところまでこぎつけてきた。


雨に濡れた我が家の玄関先のフリージア
的前といっても、28メートルあるので、至近距離から徐々に放ちながらの訓練になるのだが、昨夜の教室はたまたま雨だったので、初めて28メートルの距離を4回だけ矢を放つ経験を した。

的の近くに矢が飛んでくれただけでも、私にのみ感じるうれしさが あり、あきらかに、たまたまのまぐれなのだろうが、最初の一矢が的に的中した。

自分のはなった矢が、初めて的に中った音を私は聞いた。それはこれまでの人生で初めて聴いた音だった。

息子になったレイさんとのご縁で、たまたま始めた弓である。年齢と共にあらゆる身体能力、感覚、機能が低下してゆく中で始めた弓の世界。

声を出すこともそうだが、年齢を重ねるごとに 、若いころには意識せずとも難なく動いたりやれたことが、徐々にできなくなろうとしている渦中に始めたともいえる弓の世界は、私に老いの心身機能調節として、(いやでも現在のおのれと無言で向かい合わざるを得ない)欠かせなくなりつつある。








2018-04-12

那須高原のI氏から見事な旬のウドが届き、そして思う。

昨日思わぬ旬のウドが、食べきれないくらい、栃木県は那須塩原に住む、獣医師I氏から送られてきた。

氏とは私が31歳の時に、富良野塾に入塾する前、北の国からのロケで使われた丸太小屋で出会って以来の、まさに君子の交友が続いている、奇特な年下の友人である。

彼は当時北海道大学で獣医になるべく勉学をされていたから、初志貫徹、現在に至っている。今も獣医師として地域に根を張り、酪農家の方々にとって、いなくてはならない 信頼感を得て活躍されている。

まったく私とは異なるキャラの持ち主であるからなのかもしれないが、つかず離れず、めったに会えないにもかかわらず、逢えば言葉をそんなに交わさなくとも、以心伝心何か通じ合える関係性が保てている。
それにしても見事なウドである、調理するのが楽しみである。

数年前、初めてボランティアをした大槌町を再び訪ねた際、久方ぶりに那須塩原市で途中下車 、旧交を温めたのだが、その際氏は、那須高原のそばを清流が流れる(露天風呂が素晴らしかった、いつか妻を連れてゆきたい)私を古い温泉宿で一晩歓待してくれ、一切を馳走してくれた。

朋遠方より来たり、このような私を手厚くもてなしてくれる交友はそうは存在しない。なぜ持続するのかは、私もわからない。

出会った当時私はすでに三十路を超えていたのに、ふらふらしていたのだが、氏は当時からにやにやと、老成感がそこはかとなく漂っていたが、どこかに少年っポさも残っていた。それはあれから随分と歳月が流れたにもかかわらず、今も残っている。

だからなのかもしれない、交遊が持続するのは。それと全く余計ななれ合いがなく、互いが自立した世界を(私は別にして)彼がどこか一歩引いたところから、私のやっていることや、やってきたことを、冷静に鳥瞰的に遠巻きに眺める余裕、視点を持っているからだろう。

中世夢が原で夢中で企画していた際、子育てしながら何度か資金的に困った際、友人知人に厚かましくもカンパを募ったことがあるのだが、いつも氏は 遠方から私を支えてくれた。

真の意味でまったく利害のない 君子のごとき氏である。10年ひと昔ごとに、友人関係も賞味期限のように、切れたり変遷を余儀なくされる。そういう摂理を自然に受け止めるように、歳のせいなのかなってきつつある。

そのような中で、先日の稲城での上京で、あらためて大事にしたいと思える関係性が、にわかに再燃してきた友人もいる。

それはなぜなのだろうかと、考える。 きっと私が変わってきたのだろうと思う。それによって、これまで感じなかったこと、見えなかったことが、より深く味わえるようになってきたからではないかと。

ともあれ、【ウド届き・友の情けに・ふるえ慄く】I氏にわが五十鈴川だよりで感謝を伝える。






2018-04-10

継続することの妙味は、死を身近に感じることで深まる。

花冷えの季節というほかはないほどの、冷え冷えとした朝がこのところ続いているが、なるべく一日の生活がリズムよくながれるように、朝の声出し散歩を継続している。(約一時間)

小さいころから長続きしない、飽きっぽいわが性格、移り気。世の中に出て、これでは世の中では通用しないと徐々に気づき始め、(いささか遅きに失した感は否めないものの)、得手不得手はともかく、3日坊主的な事はずいぶん減ってきて、雑草を抜いたり、苦手であったことがずいぶんこなせるようになってきた(逆に好きになってきた)自分がいる。
藤原新也さんのリトグラフ(私の数少ない大切なもの)

もう何度も書いているが、若い頃は生活費を稼ぐのが精いっぱいで、読まねばならない本もろくすっぽよまず、(積んどくだけで)文章を書くのもことのほか苦手だった。(いまは文字を読まない暮らしは、考えられない)

ところが今や、日々の暮らしの中で生じる、なにがしかの想念(おも)い、つれづれを書いて心身を調息するかのように持続することが、支えとまでは言わないが、愉しくなろうとは思いもしなかった。(囲炉裏通信も含めれば10年以上書いている)

弓も何とか一年以上継続している。(このことはまた書きたい)シェイクスピア遊声塾は丸5年(これは好きなことなので当たり前ではあるが)続いている。

そして、まだまだ3日坊主の域を出ていないが、このところ調理をすることが愉しいとまでは言わないが、苦にはならなくなってきた。それはいろんな要因、理由があり、たまたま年齢的にも、食事がいかに大切であるのかが、身に沁みるようになってきたからである。

食材の買い出しも 、バリバリ働いていたころはまるでしなかったが、この数年買い出しがとんと苦にならなくなり、最近は楽しみになってきたのであるから、まさに自分とはいい加減、不確かな実在というほかはない。(人は老いながら移ろう)

家事を楽しめるか否か、掃除と炊事、後片付けまで、これさえ楽しめれば老い楽ライフはぐっと面白くなる。何しろ時間がゆったりと在るのだから楽しむにしくはなし。

妻はあと数年、フルタイムで働くといっている。私が調理を楽しむことで、妻の負担をいくばくかでも減らすことができ、夫婦の中が円満になるのであれば、まさにいうことはないではないか。

というわけで 、早朝、午前中、日中、夕方、月曜日から金曜日まで、一日にほぼ10時間近く、やることがほぼ決まってきつつある、ありがたきかな(夜はほとんど何もしないで体を休める)わが最近の日常平凡ライフである。







2018-04-08

妻と共に26年ぶりに、昔住んでいた北烏山周辺を散策し、そして思う。

私は37歳で父親になり、(父親にしてもらい)それから40歳まで世田谷の井の頭線久ケ山駅と京王線の千歳烏山駅との間にあった都営北烏山団地で、長女が3歳になるまで妻と3人で、岡山に移住するまで暮らした。

人生で初めてといってもいい、幸福感に満ち足りた、穏やかでつつましく、静かな生活を私は妻と娘と共にこの団地周辺で送った。(もういい年齢だから厚顔に記すが、まさに掃き溜めに鶴ではないが、妻は垂涎とわが人生を、運命的に変えた人である)

稲城で調理の補助、これを機に楽しむことにしました
この3年間の親子での団地暮らしが、思い切って岡山に移住することを私に決断させた。あれから26年、運命の針は一回りも二回りもして、今、長女は稲城に棲み、次女は3月から千歳烏山に住んでいる。

4月1日、先週の日曜日の夕方、私と妻と次女と、次女のお友達の4人で 、26年ぶりにその団地のあった北烏山周辺を散策した。ずいぶんと変化はしたものの、空襲で集団疎開した数多くのお寺残っているあたりは全く変わっておらず、私と妻は、このお寺はよく散歩したねえ、と二人だけの共通の思い出に耽ることがかなった。

ひょっとして、望晃くんが、(稲城に生まれず)次女が(千歳烏山に住まなかったら
)、妻と二人でよもやまさか、この周辺を再び散策する幸運はなかったかもしれない。

まるで極めて個人的唯我独尊的な、短編小説が成立するかもしれないと思えるほどに、一寸先の人生は、予期せぬ出来事が起こりうるのだと、この年齢になって確信している。

それは、闇であったり光であったり、どう転んでもおかしくはないとおもえるほどに、運命の神は、時に非情でさえある。悲しくも運命にふり回されながらも人は(私のことです)それを受け入れながら、生きるほかはない。

おそらく一難去ってまた一難、あらゆる試練が今後も、この先も時代の大変化の渦と共に、わが家族の上にも降りかかるのだろう。日々飛び込んでくるニュース、世界の悲惨な映像や出来事の中に、いつ何時放り込まれるのかまさに予断を許さない、そういう時代のさなかを生きているという認識が、かろうじて私にはある。

望晃くんたち家族を含めた、未来の世代の行く末を、ささやかに老いの小事の役目を、考える。カッコつけて、五木寛之大先輩に習い、青年は荒野を目指し、今また老年も荒野を生きねばならない苛酷な時代が、そこまで来ている気がする。

2018-04-07

娘の用事で叶った、思わぬ調布での出来事。

春の強風が吹く朝である。稲城から戻ってきてから、今日で4日目、時差ボケではなく、やはり環境が異なるところでの、わずか2週間弱での生活でさえ、これだけ体がいつもとは異なる感覚になるのだということを感じながら、五十鈴川だよりを書いている。

老いてゆくにしたがって自分の体が、ますます都市化してゆく現実に、取り残されてゆくかのよう感覚を、稲城でのわずかな娘夫婦との生活で私はもった。(このようなことを書くといささかさみしげでああるが、新しい生命が輝き、老いたるものは静かに退場してゆくのが摂理である)

あらためて、自分の体は土に近いところでないと、生き(呼吸)苦しくなる なる体なのであることを再認識した。(ああ、またもや五十鈴川が私を呼ぶ春である)



エルンスト・バルㇻの彫刻



話は少し飛ぶが、上京してすぐ、18歳から3年間、世田谷の井の頭線東松原に在った、貝谷芸術学院の演劇科夜間部に通ったのだが、そこで知り合ったTくん(二年前に他界した)の家が京王線の調布に在り、何回か彼の家に泊めてもらったことがある。

その後、貝谷芸術学院を出てから、人生の進路をどうすべきか、悩みに悩み続けながらの20代の前半、京王線沿線のつつじが丘や、上北沢の小さなアパートで生活していたこともある。

 あれから40数年の時が流れ、運命の針は一回り、今長女の住む稲城と次女の住む千歳烏山は、京王線沿線の駅である。(今回千歳烏山駅周辺を、妻と共に26年ぶりに歩いたことは近いうちにまた書きたい)

京王線沿に乗るといやでもおうでも、当時の沿線の風景とのあまりの様変わりに、こころが揺れ青春の光と影が蘇る。(変わらないものがあるとほっとする)

とまれ、こんなことを書始めたら際限なく書くことになるので止すが、調布は二人の娘の住んでいる間に位置する駅であり、青春時代の思い出の駅である。

駅とその周辺のあまりの変容には言葉もなく、私の青春時代の辛くも、今となっては甘美な記憶の面影は ない。もちろん当時はなかった地下3階を京王線橋本行きが走り、稲城駅は各駅停車で調布から4番目の駅である。

(エスカレーターを使わず、地下から地上まで階段を数えて歩いたら120段以上あった。都会は歩けなくなったら、高齢者には過酷な人口都市である)

その調布に娘の用事で今回稲城から出かけたのだが、用事を済ませた私は、約半世紀ぶりに、駅から歩いて十数分、T君の家のあった下石原あたりを歩いてみた。

風景は一変したものの、旧甲州街道はそのままで、駅から遠ざかるにつれてかすかに、半世紀前歩いた記憶が蘇ってきた。

当時T君の家は、平屋で金物屋さんを営んでいて 広い敷地には樹木が植えられていて、都心から遠くのどかだった。今はビルディングになり、お兄さんが家を守り一階で金物屋を営んでおられた。

私は思いもかけず、お互い記憶は薄れていても、面影の残るお世話になったお兄さんに、ご挨拶をすることがかなった。




2018-04-04

12泊3日、稲城での孫との生活を無事に終え帰ってきました。

先週土曜日妻が稲城にやってきて、3日ほど娘夫婦のところでともにすごし、昨夜妻と交代する形で、西大寺に帰ってきました。

今夜は2週間ぶりに遊声塾があるので、一気に頭が稲城から岡山モードになれそうな私です。稲城だよりを読んでくださった方はお分かりかと思いますが、稲城では孫の望晃くんのおかげで、思わぬ意外で 経験したことのない生活をわずかですが送ることができました。
稲城の三沢川の砂州をおおった桜の花びら

望晃(ノア)君は、もうあと成長するだけです。私は下って老いてゆくだけです。そんな当たり前のことの不思議さを、いっぱい感じながら、まだ言葉を発しない望晃君と、限られた二人時間、私はひたすら対話を繰り返すことができました。

望晃くんの存在がなかったら、生まれてこない、かなわぬ対話です。無言の対話の中で、おじじは、実現するかしないかは置いといて、いくつかの約束を彼としました。

これは、私の中の秘密なので、この世からおさらばする時まで口にすることはないでしょう。初孫の望晃くんは、何やらこれまでの私の至らなさを変えてくれるのではないかと、(錯覚であれ)思えるほどに、まぶしく輝いて私を打ちのめしました。

私にとっては初めての男の孫、爺バカになるのをしばしお許しいただきたい。レイさんと娘には、孫を授けていただき、感謝の言葉しかない。

レイさんと娘が、すっかり瞬時にして父親、母親に変身していたのには、少なからぬ感動を覚えた。だから余計に考えるのである、おじじおばばとしての、つかず離れずの阿吽の呼吸での役割を。
レイさんが日曜日に生地から造り焼いてくれたピザ

今週末、妻が戻ってきたら、本格的に二人だけでの子育て生活になる。核家族での子育ては、やはり何かと至難である。私も長女を育てるとき、3歳までを親子3人で暮らした経験があるので、いくばくかがわかるのだ。

でも、娘夫婦の望晃くんへの接し方を見ていたら、その不安は吹き飛んだ。彼らは彼らなりに親になってゆくのだと安心した。

望晃くんの生誕で、私はおじじという存在になれた。感謝しかない。