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2017-07-01

30年近く前に買った自転車を修理しました、そして思う。

生命。肉体(時間)というものは、かけがえなく有限で、大切なものであるということが、この年齢になると漸くにして、かすかに実感して覚るようになってくる。

だから、雨の日の朝くらい柄にもなく厳粛な面持ちで、心に浮かぶよしなしごとを、つづれる静かな時間を大切にしたい。

高校時代、カスケーズの悲しき雨音という歌をよく聴いた記憶が、梅雨の 朝にわかに思い出される。雷の音も入っていたように記憶する。
私の部屋から見える雨上がりの紫陽花

私の部屋からは紫陽花の花が見える。先ほどまでは雨に打たれていたが、五十鈴川だよりを書き始めたら雨はやみそうな気配である。

今日から7月、土曜日の朝、家人はまだ休んでいる。雨の日は、まず竹韻庵にゆくことはないので、私も雨音を聴きながら先ほどまで布団の中で休んでいた。

残り湯を沸かし、朝湯を浴びてさっぱりした心持で、五十鈴川だよりを書ける静かないっときは、時をまさにいっとき止めるかのような、自己慰安時間である。

おかげさまでというしかないくらいに、なにやら静か
数十年ぶりの自転車、とりあえず今日から乗ります
に充実した毎日が、65歳と共に始まった、(書くのがちと気恥ずかしいほどに)あきらかに違うステージを自分が迎えている、といった自覚がある。

もしこのまま、あと5年の歳月が流れたら私は古希を迎えることになる。還暦の時にもかなり自覚的に なったものだが、命に対する感覚がより自覚的になってきつつある今思うのは、これからの時間はますますもって貴重な人生時間帯に入ってゆくのだなあ、という深まり感だ。

だから、なかなかな困難さは伴うものの、あらゆることを整理しながら、妻と相談しながら、一日一日を大切に過ごしたいものだという、夢に近い願望を五十鈴川だよりに書かずにはいられない。

書いたからといって、どうともなるものでもないが、後年振り返ってあの時にはそんな感じだったのだなあと、座標を確認することができる。

五十鈴川だより。を書き始めた日のことは、なぜだか今もよく覚えている。月が美しかった。よたよたとではあるが、右往左往書き続けてきたからこそ、おそらくこんなにも自覚的に生きられる自分がいるのだと思える。

年齢時間と共に五十鈴川だよりを書く頻度は減るとは思うが、日々の動的平衡命の代謝を踏まえながら、命の揺らぎを綴りたいと念うのだ。

さて、話は変わる。30年近く前東京で買った自転車が、処分できずいまだ家に在ったのを、先日近所の感じのいい自転車屋さんに持っていったら、何とかまだ乗れるということで、一念発起修理してもらった。

昨日夕方修理できましたとの電話があったので、歩いて取りにゆき久方ぶりに自転車に乗って帰ってきた 。火野正平さんのテレビが人気だが(私もたまに見る)、初めて買った愛着のある自転車なので、これからしばらくの間、私の体が動く間は、自転車時間を生活の中に組み込みたいと思っている。

可能なら、元気なうちに五十鈴川を自転車で、我が家のご先祖の宇納間まで遡行したいと思う、気持ちが湧いてきた。

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