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2017-06-30

今年も半年が過ぎゆく朝に思う。

今日で今年も半年が過ぎる。なぜだかはわからないが、区切りとかで、どこか気持ちが切り替わる。

特に65歳になって思うのだが、その気持ちの変化は、ゆるやかにゆるやかに流れながら、ある日突然決壊するかの如く変わってゆく。

親子関係も含め、あらゆる関係性が流れながら緩やかに変容してゆく。これがいわば自然で人生というものの、あるがままの無常という真実である、といまは受け止めるしかない。

長女が数年前結婚し、次女がいよいよ独り立ちし、岡山市内で近々自活を始める。私はこれを応援している。寂しくはなるが、子供が家を出て巣立ってゆくのが自然の摂理 だからである。

いよいよ夫婦二人での暮らしが始まる。私はこれを新しい始まりとして受け止めながら、日々をいかに生きてゆくか、思考を続けたい。
ようやく石牟礼道子さんの御本を手にする年齢になりました

いま、私の脳裡に浮かぶのは、晩年の父母の姿である。父は生きてゆくのが、はなはだもって不器用な性格であったが、私はその父の遺伝子を強く受け継いでいるなあ、と歳を重ねるにつけて思い知る。

晩年生活、父はどこに出掛けるにも母を伴っていた。長女が生まれたばかりのころ、世田谷の小さな2Kの団地にも母と共に来てくれたことがある。あのころの父は私とまだ口論できるくらい元気だった。

1998年、母がなくなった後の父は、まるで戦友をなくしたかのように元気が なくなってゆき、2000年あとを追うかのように旅立った。あれから17年の歳月が流れた。

少年時代から思春期まで、ゆく手に立ちはだかる大きな壁のような存在であった父たが、思うに父の存在があったからこそ、なんとか私自身今をこうして生きていられるという、そのことが身に染みて覚る。心から感謝している。

ぼんやりとだが、あの両親のようなイメージで、私も妻と共にこれからの人生を過ごせたらいいなあ、と思う。果たしてどのようになるのかは、神のみぞ知る。

この歳だから恥ずかしげもなく臆面もなく書けるのだが、ヒトは時代の異なる千差万別の家庭事情のなかに生を灯す、選びようがない。何という過酷で厳粛な事実。

現在私には妻の母しか親がいないが、その母が元気でともに近くで暮らしていられる幸運の重みは図りれない。

とりとめなき、梅雨の朝のブログになったが、ご容赦を。

2017-06-28

10日ぶりの五十鈴川だより。

先週の上京後戻ってきてから、気が付くと初めての五十鈴川だよりである。こんなに長く五十鈴川だよりを書かなかったのは、おそらく初めてである。

還暦後、とくに夢が原退職後は可能な限り自燃(じねん)に流れる五十鈴川でありたいので、たまたまこういう次第になっている。

コメントのほとんどない五十鈴川だよりは、ほとんど自問自答の、日々の移ろい、揺らぎを感情のおもむくままに綴っているので、もし五十鈴川だよりを開いてくださっておられる方がおられたら、更新しない、古い五十鈴川だよりを、無作為に読んでくださるとありがたい。

ところで、2泊3日の先の上京旅は、自分自身の現在(変化)が、ことさらにしっかりと確認できた旅となった。

還暦から5年が経ち、五十鈴川だよりを書きながら、ゆるやかに緩やかに変化してきた自分をはっきりと確認できた。

歌の文句ではないけれど、自分がたどり着きたいと思う向こう側にたどり着くには(よしんばたどり着けなくても)何度も何度も、自分のかぼそき体で泳がねばならないが、ようやくにして、少し向こう側にたどり着けたかのような気持ちなのである。

だが、努々油断してはならない、自分自身というどうにも厄介な器とこれからも、五十鈴川だよりを書きながら、自問自答しつつ日々を送らねば、それは砂上の楼閣のように、うたかたのように危うい、何かなのである。

ともあれ、その危うい己を自戒するのに 、声を出すこと、土に向かうこと、65歳から弓を始めたことが、はなはだ有意義であることを、痛感している。(その豊かさを実感できることが)

だからなのかもしれない、五十鈴川だよりを書く頻度が減っても、なにやら私の日々の暮らしは、どこか落ち着いて穏やかさをたもっていられる。

そして、私は老いてゆきながら、ますます私の中の多感期、昭和の原体験的な田舎世界に回帰してゆきつつ、何とか、今という時代のさなかを、かろうじて泳いでいるといった按配なのである。

何度も書いているとは思うが、この表層的なあまりに目まぐるしい、ぐるぐるハイテクデジタルテクノロジー時代の中に在って、揺らぐおのれの肉体に、可能な限り最後までしがみついて、地に足をつけ、お日様と共に、生活できれば、もう私は十分なのである。
わが愛する神田古本屋街についてはまたいつか書きたい

さて話は変わる。18日、葉山の神奈川近代美術館で【砂澤ビッキ展】の最終日に何とか間に合って、作品に向き合って大きな世界に触れ、アイヌの末裔の彫刻家の骨太の作品世界を初めて知った。

直接体験から得る情報のみで、洪水情報に疎い暮らしをしているので、砂澤ビッキという芸術家のことを私は知らなかったが、東京に住むH氏が先月わざわざ私を訪ねてきてきて、その際に展覧会のチラシをくださったので、なにか動かされるものがあって、葉山まで出かけたのだ。

かなりの雨の中ではあったが、出かけてとてもよかった。身体が濡れ記憶に残る展覧会となった。19日午後、上野で異次元を生きているかのようなH氏と再会、あなたのおかげで砂澤ビッキ展に行くことができた旨、つたえたらとても喜んでくださった。

H氏と2時間近くお話した後、神田の岩波ホールでアンジェイワイダ監督の遺作【残像】を一人で見て、夜娘夫婦と久しぶりに一緒に夕食、レイ君が父の日の翌日ということでごちそうしてくれた。その夜は娘のところに世話になった。

20日、夕方の新幹線の時間まで 、上野の東京都美術館で開かれている【ブリューゲルのバベルの塔展】にゆき、3時間ほど過ごし神田に移動、古書店で文庫本を2冊買って後、私の好きな書店東京堂で蜷川さんに関する本、正岡子規に関する本を買い、そこのカフェで時間まで過ごし東京駅に移動、5時前に新幹線に乗り、車中ずっと今は亡き蜷川さんの本を読んで帰路についた。





2017-06-18

弓を始めて初めて巻き藁に向かって矢を放ちました。

今日はこれから上京するので、少し何か書いて遊んで上京したい。

昨日は、朝一番弓にゆき、(1時間)そこから竹韻庵に向かい、(2時間半)帰って昼食を妻と共に二人で済ませ、昼寝(1時間)ののち、来ていた母の指導のもと3人で穴の開いた(猫の花がよじ登り破いた)網戸の修理をした。

まさか、このようなことまで自分でできるようになるとは思わなかったが、母に言われる通りやってみると、これがぶきっちょな私にもできたのである。

何事も案ずるよりも、まさにやってみることにしくはなし、である。徐々にコツがつかめると愉しくなってきて、ものの30分もかからずにピーンと張りのある網戸が完成した。ささやかな喜び。

その後、雑事と読書のあと、早めに簡単に夕飯を済ませ 、弓道教室に出掛けた。(18時半から20時半)そしてちょっとうれしいことがあった。
前書きを読んですぐに買いました、新幹線の中で読みます

約4カ月以上、弓を持たないで、想像上の素引きの稽古に始まり、一月後くらいから弓を実際に持っての素引きの稽古を続けて4か月。

ようやく昨夜、実際に矢を放っての、巻き藁稽古のお許しが出たのである。これから、実際に矢を放つ巻き藁稽古ができるのだ。私にとっては大きな喜びの日となった。

この4カ月、本質的に怠惰で飽きっぽい私なのだが、時間は短くても 自主稽古によく通った。その成果の巻き藁稽古のお許し。

この年齢になると、打ち込めることがあって、気分良く体が動け、こころに不安要素なくば、日向灘育ちの、能天気な私は極楽とんぼ気分なのである。

日々伝えられる、世相の暗いニュースの多き中に在って、いかに自分自身の生活を、ささやかにではあれ社会の片隅で、明るく充実した一日を送れるのか、送れないのか 、自分自身と問答するしかないのだが、その問答をするのには、弓の稽古と、野良仕事、声を出すことは最適であると確信しつつある。

とくに弓は、立禅ともいわれるらしく、こころとからだを、研ぎ澄まさないと矢が放てないので、私のような極楽とんぼ的人間には、はなはだ修養を要する。おかげさまでこの年齢で弓の稽古ができることの、ありがたさを噛みしめながら、一日の終わりの帰路についた。


2017-06-17

共謀罪が成立し真夜中に思う。

共謀罪が成立した。テロ等準備罪も含め、277もあるといういちいちのほとんどを私は知らないが、あらゆることが、国民が十分知らないうちに真綿で首を締められるかのように、事が決まってゆく。

これほど情報科学が発達したにもかかわらず、国民の思考力度が増したのかどうかはやがて歴史が証明するだろう。個人的に歴史的岐路に立たされているかのような重大な法案が、次々と多数決のごり押し論理で決められてゆく。あたかも国民の意志であるかのように。

ごまめの歯ぎしりのように、だが絶望はせず、五十鈴川だよりに、きちんと、やがて狂暴化してゆく可能性のある共謀罪については反対の旨きちんと再び書いておきたい。(それにしても何と悪が勢いを増してゆくかのような、陰鬱な出来事が続くご時世であることか、身の回りくらい悪を避ける知恵を張り巡らせないと)

私を含め大方の人間は、今日のような日が明日も続くであろうことを、どこかで祈りながら生きているに違いないが、やがてこのまま安穏と考える力を身につけないまま 、権力者たちの思うがままにさせておくと、先の大戦のように、そのつけは大方の国民の上に降りかかるのは、歴史が証明している。

話は変わる。詳細は省くが、昨日午前中たまたま、琉球世界が生んだ、偉大な芸人、照屋林助さんのNHK再放送ドキュメンタリー を見た。深く胸を打たれた。(夜はほとんど私はテレビを見ない)

その数日前に、金城実氏という沖縄が生んだ凄い彫刻家の作品世界のドキュメンタリーも、たまたま同じ時間帯に観たのだが、これもすごかった。魂の慟哭。是非その作品に触れるつもりだ。

おごった 権力者たちには見えない、底辺社会にの民の声なき声を、広い救い、芸能の神として伝える、真の芸術家、芸能者の存在をまざまざと視た。

沖縄での唯一の友である桑江良健氏は、これらの沖縄が生んだ偉人の系列に連なる人であることを、確信した。

母が育てたゆり芳香が漂う

わたくしごと気に、何ができるかは全くわからないが、これらの少数マイノリティの声なき声の側に私も身を置きたいとの念が、静かに湧いてきつつある。まだまだわたしの血と肉は生きているのである。

わずかな一握りの人間に富が集中する、狂乱資本主義、弱い邦や、弱者切り捨て、あまりの経済格差や理不尽さ、不条理にたいして、五十鈴川だよりを書くものして、ちょっとまってよ、ということぐらいはきちんと書いておかないと寝覚めが悪い。

ということで、明日日曜日から火曜日まで上京することにした。神奈川近代美術館葉山での、砂澤ビッキ展の最終日が18日までなので。

このような偉大な芸術家の存在を、たまたま必死で知らせてくださる方と の出会いが、私を葉山まで向かわせることになった。








2017-06-10

夜明け前の五十鈴川だより。

5月はなにやらいっぱい五十鈴川だよりを書いたのに、最近ちょっとペースが落ちている、きっと何か理由が自分に中に在るのだろうとは思うが、多分書くことよりもほかに優先してやりたいことが、だんだんと増えているからだろう。

やはりこれまでの生活で一番異なるのは、弓と季節的に土に向かう時間を割くことが増えたがために、その分どこかが減ってきているのである。

何度も書いているが、還暦後はひたすらあるがままに、自分の内なる声にできるだけ正直に過ごしたいのである。他者の声とか、他者の言や知識に刺激されながらも、あくまで無理せず、自分らしく過ごせれば、それでいいのである。自分の奥の細道を静かに循環する五十鈴川。

例えば昨日はどのように過ごしていたか。5時に起きて身支度、すぐ竹韻庵にゆき野菜の様子を見てから、手鎌で約2時間草刈り、竹韻庵で朝食、おにぎり、ばなな、リンゴ、お菓子。

家に戻り雑事を片付けたのち、着かえて徳山道場にゆき1時間半素引きの稽古、もどってちょっと少し遅めの昼食(ちなみに昨日はお蕎麦、昼は8割麺類)、食後少し昼寝ののち、読書そうこうしていると、妻が仕事から帰ってきた。
本をもってふらりと旅したくなります。

夕方メルの散歩と、買い物。7時3人で夕食。食後母が親戚から頂いた小さな梅のエボを取り、ようじで刺し、洗い1.8リットルの容器に梅酒をつけたら午後9時。

昼間とは違う本をもって横になると、あっという間に睡魔に襲われ、深き眠りの世界にといった按配。一言で書けば、健康に動ける身体であちらこちら移動しながら、動と静を 繰り返している私の日常。

弓と野良仕事は、とにかく体を(対極的な動かし方だが)使うので、良き疲れを伴うのである。特に水曜と木曜は、これにシェイクスピア遊読が加わり、3つを循環すると、もう何も書く気がおきないほどに、何度も書くが良き疲れに体が浸され、夕飯を終えると夢間の世界にいざなわれるのだ。

というわけで、五十鈴川だよりを 読んでくださっておられる方には、はなはだもうしわけなく思うものの、更新がなされていなくても広い心でお許しあれとお願いするしかない。

とくに弓を始めたことは、多面的に生活全般に良き影響が生じている。よもやまさかこんなに入れ込むことになろうとは、自分自身思いもしなかった。

この3つは、還暦後に始めたことばかりである。自分がいつまで生きるかわからないが、父の年齢までもし私が生きるとしたら、まだ相当生きないといけない。

そう考えると、これまでの経験や知恵に立脚しながらも、あらたなこれまでやったことがないことに時間を費やし、ささやかなお金で、高齢化時代を日々新鮮に生きるがためにどうしたらいいのか、初老の私は老いつつハムレット的に、うれしく悩むのである。






2017-06-05

外山滋比古先生先生の本は、何を読んでも生きてゆく肝心なことが、実践に裏打ちされていて打たれる。

この数日寒暖差の激しい日が続いているが、おかげさまでわが体調は、すこぶる快調である。

今朝も5時に目が覚めたので、洗面を済ませメルと共に、早朝の岡山市内を快適に抜け、6時前には竹韻庵につき、すぐに体を動かし、7時にあらかじめ昨夜のうちに用意していた朝食を木陰で朝日を感じながら済ませて、もうひと働き、8時半までいて、先ほど戻ってきた。

すぐに洗濯物や布団をを干し 、コーヒータイムがてらブログタイムというわけである。何度も書いているが、あらかたの大事は午前中に済ませる。

尊敬する高齢者知識人であられる、外山滋比古先生が説いておられる、習慣は第二の天性であると。怠け者を自認している凡人の私は、先生の思考のアドヴァイスでどれだけ勇気をいただいていることか。

何度も目から鱗が落ちる思考の、ありがたき栄誉を、先生の著作から拝借、反省しながら、わずかでもと実行している。(つもりである)
先生のお若い時の論文なども謙虚に読みたくなってきた

あのお年での思考の柔軟さは、比類なく群を抜いている。爪の垢でも、大先達のあの思考の柔らかさを学びつつ生きることができれば、凡夫の私にも希望が湧いてくる。(というものだ)

あの思考が生み出されてくる秘密は 、奈変に在りや。先生は独自に考え、独自の道を泰然と地に足をつけて歩まれながら、血の流れを良くするために動きながら思考する。

先生の年齢を重ねるにつけての、磨き抜かれたシンプルな言葉の輝き、日本語の素晴らしき読みやすさは(先生のお若い時の御本も素晴らしく考えることの大切さを説き、鍛えられる)、まさに文はひとなりである。

1923年のお生まれ、驚異的な独自の思考の継続的実践力から生まれた著作の数々は、古びることなく今も(いまだから余計に)輝く。

きっと、私はこれからも先生の御本を繰り返し読みながら、これからの人生を生きる座右にしたい。日本語は上から下に縦に書く、論考など素晴らしい。このような先生に若き日に出会ったら、と私など思うが、後半の人生であれ書物を通じて出会えたのだから良しとしよう。

この10年くらい 少しずつ怠惰な自分を反省しながら、前向きにと言い聞かせながら過ごしているうちに、これまで苦手意識を持っていた、いろんなことがほとんど苦も無くできるようになってきつつある。

それは、きっと外山滋比古先生先生のお言葉から、生きる知恵を私がかってに学んできたからだと思える。

何事もある程度規則正しく、一日の時間の過ごし方を習慣化することによって、それがなせるようになってきた自分がいる。

2017-06-03

ラッキョウをつけ、弓の稽古をし、世界の出来事に耳を澄ます真夜中ブログ。

3日も五十鈴川だよりを書かないと、なにやら流れが泊まったかのような気になるのは、それだけ何か、自分が生きて生活してゆく中で、大きいのだということを感じる。

でも、本当は何も書かなくてもいいのかもしれない、との思いも一方では抱えながら、いつも書くところの絶対矛盾抑えがたく、煩悩的揺らぎを、行きつ戻りつしながら、何かめにみえない律動に動かされながら書いている。

でもまあ、煩悩的(絶対的に語彙が少な自分をいつも感じながら)に揺らぐということが、生きている証であり、老いながらの、わが命の行き着く流れの変化を、かろうじてギリギリ書き続けられればとの念いである。

どのような一文であれ、自分の一文が書けることは幸せである。いつも、つましくもささやかに書けることの幸福感につつまれながら五十鈴川だよりは流れる。

おそらく今まで書いてきたからからこそ、今後も緩やかな蛇行変遷を重ねながら、健康であれば書き続けられる、気がしてうれしい。

日々命の放射 を繰り返しながら、命は入れ替わり、自分という存在は移り変わっていく。変化する日々、自分も変化しながら、何か今を新鮮に感じないと、私の場合の五十鈴川だよりはなかなかにながれてくれない。

いつものように、話は変わる。昨日母から電話があり、ラッキョウが売りに出されていたから、漬ける気があれば買ったらとのことだったので、さっそく泥付きの(なんと宮崎県産だった)を買ってきて、母の指導の下に漬けた。
ささやかに自国の生活文化を身に着けたい

ラッキョウをつけることも還暦後に始めた 楽しみの一つである。私は必ず泥付きのを買うようにしている。なんどもよく洗い根を切り、薄皮をむき、熱湯をくぐらし鷹の爪を、お好みの量入れ、市販の酢を入れれば出来上がり、きわめて簡単である。

ラッキョウをつけたのち、早めの昼食を済ませて、 弓の素引きの稽古に出掛けた。道場には私ひとり、時折夏の日差しが照り付けるまぶしさのなか、約一時間自分の体と向かい合いながら素引きの稽古を淡々と繰り返した。

この歳で7キロの弓をひくことから始め、3ヶ月が過ぎ、漸くにして いま9キロの弓をひいている。K氏に頂いた弓が14キロだから、それをひけるようになるのはいつのことになるやもしれぬのだが、そんなことは何も考えず、ただ今日できることをするまでである。

なにやら最近いい意味での老いを感じる。焦らなくなったというか、焦りようがなくなったという方が近い。ただ単に思いつくやりたいことを、やれる順番に循環しながら日々を送って余計な心に負担を感じるようなことにはとんと、足が向かなくなりつつある。

限りなく 決まりきったことを、淡々とやり続ける。父母のような晩年生活を、そして西大寺の母が今やっているような暮らしに限りなく近づいてゆきたいと願うようになってきつつある。

そんな日々の暮らしを芯にして、世の中を眺め一隅できちんと暮らせたらいうことはないのだが、そうはとんやがおろさないのが世の常、ある日何かが突然起こるのが歴史の常。(そうは簡単に老いさせてくれない絶対矛盾を往復する)

老いてゆきながら、世界の片隅で、そっと世界の出来事(オンエアされない側の)にもかすかに耳を澄ませたい。 その努力を続けたい。