しかし、五月中からのこの暑さ、異変が起きているのではないかと、五十鈴川は案じてしまう。日本列島のあちらこちらで火山活動が 活発である。大変動期に入っているのかもしれない。
畑は気象の影響をもろに受ける。詳しくは書かないがちょっと大量のやとう虫(夜盗虫と書くらしい、夜の間に葉を食べる)が発生しその対策と駆除に、頭と体をフル活動といったこのところの朝夕の私の暮らしなのである。
でも、最近はあまり深刻には動じない。東北の大震災をわずかではあるがこの目でしっかりと60歳の誕生日に焼き付けてきたせいもあるかもしれない、とにもかくにも家族が健康に穏やかに暮らせればそれで十分だからだ。
夢が原退職後、きっぱりと生活を見直すことを、わたしは自分に課して今も生きている。あれからまたたくまに二年が過ぎた。
つましく生きることを可能な限り楽しむためには、どうしたらいいのかを オーバーではなく私自身昔よりずっと考えるようになったと思う。
お金という魔物に距離をおき、可能な範囲で、お金に寄りかからず知恵を生むような暮らしができないものかと未だ私は考えながら日々を送っている。
そして、この数年の実践生活報告ごとき、ことを記させていただくと、出かけない限り、(旅や交際費ほか意外な、出費等)さほどお金は(あくまで私の場合)かからないということがはっきり分かったのである。
玉ねぎは半年かかって立派に育ちました |
だんだん自信がついてきた。知恵は次々に知恵を生む。
そのためにはやはり体を動かし、汗をかき血を温めないといい知恵は湧かない、という事実。精神と体が連動しないと、澱んだ体は何も生まない。(自分の場合です)
声を出したり、畑で草を抜いたり、ブログをかいたり、本を読んだり、
お手紙を書いたり,我流体操したり、掃除したり、
とまあ一日の暮らしの中での、いま現在の足るをしる暮らしをきちんと心かけていると限りなくシンプルに生きられるということが(私の場合)はっきりとわかった。
だから普段から身の丈に合う暮らしを心かけないと大変なことになるのは世の道理だ。人間ごときがどう抗おうと天変地異の前にはただただひれ伏すしかない、というのが私の認識だ。
私などは、裸のサルの類ぐらいの認識。人間以外の動植物は限りなくシンプルにあるがまま本能のままの生存世界を生きている、気がする。自然に寄り添い逆らわない。
人間世界だけが歯止めがない。脳のあまりの肥大化が、(恐ろしいとさえ思わない恐ろしさ、あまりの想像力の欠如)海の森林の辺野古のサンゴ礁を破壊する。
国益、私利私欲暗躍の果ての未来がいかなることになるのか、については五十鈴川はなにも書く気がしない。
ただいえることは、チシャトウがいかに虫にやられても農薬は使用したくないということくらい。
ネパールの被災された方の水田の種もみがダメになり地震で水が枯れたという記事を新聞で知った。農をほんの少しかじっている私には他人事ではない。
間接的ではあれ、自分世界以外で起きている(国内外問わず)過酷なあまりにも冷厳な事実を知ると、言葉の虚しさにおそわれるが、悲しいかな 自分なりの絶対矛盾を生きるしかない。
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