50歳代とは全く異なるといってもいいくらい還暦後は我ながら落ち着いた日々を過ごしている自分を感じています。これはひょっとしたら企画をしなくなった、ということも起因しているかともおもいます。
うまくは言えないのですが、今の生活が今の自分にあっている という気がしています。時代の流行とか表層的なメディアのニュースとかに、ほとんど左右されなくなった自分がいます。
時代の動きに関心が無くなったということではなく、以前より落ち着いて考えるようになってきた自分を感じています。
こうも次々に痛ましい事件や事故がまるであおるかのように、ときにどぎつく報道されると、私のような単細胞は、かるく時代の渦の中に飲み込まれてゆきがちな、ある種の危険性を感じざるをえません。
だから、この数年ほとんど日本のニュース番組はきちんとは見ていません。自分の不得手な分野は、信頼できそうな方の本を読んだりして、努めて自分の頭や感覚で知るように心かけています。
自由民主主義、といいますが、果たして現実はいかがでしょうか。たった63年しか生きていない私が言うのもなんですが、これから数十年後の(世界はいかがな姿でありましょうや) 世界は皆目想像だにできません。
なぜなら、今の世界を数十年前にはまったく想像できなかったからです。ことほど左様に未来を予測することは、かくも難しく、まして事故や天災は言わずもがなのことです。
置かれている状況を、各人がきちんと考え生きてしのいでゆく しかないのは、どのような時代であれ自明の理ではないかと、小生は思うのです。
母とむいたもうほとんど終わりのネギ |
一見平和な我々の暮らしも、状況次第ではあっという間に大きな渦に足元から崩されてされてしまいかねない怖さを、わたくしごときでさえ感じてしまいます。
このようなつかみどころのない不安定な時代の空気感は、私の中ではやはり9・11から、そしてとどめは3・11だと思えます。
だからどのように一日を過ごしてゆけばいいのか、心の穏やかさの持続はいかようにすれば得られるのかを、私はかすかに自分に問いかけています。
私が体を動かし、声を出すことに執着するのは、自分という器がかけかえのない、とって替えられるものではないという ささやかな自覚があるからだと思います。
自覚や痛みさえあれば、努力を楽しめるかと思いますが、自覚がなければやはり難しいというしかない。
自分のことはさておき、この数十年の日本人の顔は、年々貧相になってきているように思えてなりません。自信がない、何故か、私の中では結論は出ているのですが、ブログで書く野暮は避けたく思います。
訳知り的なことを書く気も置きません。パソコンに向かうのは最低時間にして、自分の体と向かい合う時間をこれからの人生大切にしてゆきたいと思う私です。
夜が明けました。
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