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2014-11-09

晩秋、吊るし柿を吊るす、そして思う。

雨の日曜日の休日である。起きてからすでに数時間たっている。眼の前には先週のお休みの日につるした干し柿が見える。ほぼ一週間でかなり水分が抜け色が変化している。とあるところから思いもかけずいただいた渋柿。

昨年は思いかなわず、つるすことはできなかったのだが、今年は十分な量が吊るせそうである。夢が原で働いていたときに、よく吊るし柿をむいたので、そのせいか、すっかり私はその晩秋の日本の家々にかってはつるされていたであろう、風物詩的風情に惹かれてしまった。

元気な間は可能な限り、吊るし柿を趣味としたいという願いが、還暦を過ぎいよいよもって深まってきた。バリバリ働いていたときには、そんな余裕はしたくてもなかなか持てなかったが、ようやくにして、そのような精神的余裕の人生時間が訪れたのだから嬉しいのだ。

抜けるような秋の空のもと、むいたばかりの柿がつるされた時のう美しさはなんとも言えない。手間暇がかかるのだが、その手間をかけるというところに、いわば妙味があるのだ。古人達は飽きず倦まず、継続していたのに違いない。

そのような地道な暮らしを慈しみながら、日々の暮らしをささやかに彩ることが、にわかに最近愉しくなってきた。年末、友人知人にささやかに配布するのが今から楽しみである。

さて、吊るし柿は母と妻との3人での共同作業で続けている。もちろん先生は母であるが、この事に関してはしっかりと我々が受け継いだので、怜君や、娘たちにも伝えたく思う。実は今日もこれから午前中母が来てから、吊るし柿第二弾をつくる予定なのだ。

幸い母がとても元気なので、3人での柿むき作業はとても楽しい。今やれる、眼の前のことを、3人できっちりと楽しむ時間を限りなく大切にしたいのだ。妻は週末のほとんどの時間を母と過ごしていて、私も時折参加させてもらうのだが、母は週末のお昼ご飯や、夕飯を我々とともにするのをとても楽しみにしている。

ちょっとした、散歩や買い物や、ガーデニング、あれやこれ他を共にすることがとても楽しく嬉しそうなのである。いまだ自転車でやってきて、時折は泊まるのだが、一人で気丈夫に生きている姿を見るにつけ、自分もかくありたく今から見倣っておこうと思う。

何をするにつけても、いきなりはできないのだから、ゆっくりゆっくりと自問自答しながら歩むしかない。穏やかな雨の静かな朝は、思索するのにふさわしい。

あれやこれや、生きていると様々な瑣事をこなさねばならないが、時折は無為に何もしないひとときがことのほか重要である。それでなくても現代は、途方方もなく神経消耗の過酷な時代なのだから。

ゆっくり書いて、ゆっくり読んで、ゆっくリズムでの晩年ライフは、私の場合、まいまいカタツムリのように進むのが、事のほかに楽しめそうな気配なのである。12月に入ったら、在来線でまたK氏に会いに上京しようかと考えたりしてる、本を持って。

ささやかにK氏の退職祝いもしたいのだ。ともあれ、無心でバカなことを言い合いながら、柿をむいていると、不思議といろんなアイデアが浮かぶ。脳が完全リラックス、シナプスが紡がれるのではないかと、言う気がする。

読むことも、書くことも、あらゆることがリラックスしていないと、シナプスは活性化しないようなきが私はする。完全にお休みした脳は、また緩やかに動き始める。だから熟睡した朝にしか、私は文章が書けない。

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