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2014-08-25

一週間に一度まとめてゆっくりと新聞に眼を通す時間を持つ。

この夏は、なにやら天候がおかしいと感じるのは私だけではないだろう。急な雨が多く、画面を通して眼にはいる、過酷というしかない状況には、言葉がない。

もし自分があのような状況下におかれたら、いったいどのような心理状況になるのか、全く覚足ない。

映像はどこかで、人間の感覚を麻痺もするし、覚醒もさせる、もろ刃的なところを私は感じてしまう。

ある種の無力感にとらわれることが多いので、歳とともにだらだらとは見なくなった。どちらかと言えば私は映像人間だった、緩やかに緩やかに活字に人間に私は変化してきたように、自分では思える。

一方的な時間の流れの映像に対して、活字は自分の時間の流れで、ゆっくりと受け止めながら、想像力を働かせながら、読むことができるという利点があるからだ。

こうも忙しい時代を、あらゆる情報に取り囲まれながら生きていると、受信する力が確実に弱くなっていくことを、私自身はどこか恐れている。

人間は、というのか私自身は、ごく普通の最初に出会った我が両親から教わった、社会的な常識を、いまだ支えにして生きているかのような、社会的に見れば極めて大多数の、いわば庶民を生きる一人の人間だという自覚がある。

人間は、かすかにではあれ、なにがしかの希望や、生きがい、精神的な支えがないと、どこかしら精神が破綻をきたす、か弱い存在ではないかと思う。

少なくとも、私自身はそうである。だからなのかもしれないのだが、つとめて私は最近眼の前の些細な日常の細部、日々の生活を大切にすることを、なるべく意識的にするように心がけている。(大所高所から、物事を考えるのではなく、まずは自分の生活の足元を見据える)

言うは易く、行うは難しではあるが、なるべく自分の意識をそちら側に、持って行くようにしているのだ。ただ、気が進まなかったり、身体がしんどい時は、無理はしない。

このブログひとつもそうだが、あるがまま、自分と相談しながら流れてゆく。ただささやかに、日々を確認、自分に正直に、謙虚に在りたい。あらゆることが奥手で、気づきの遅い私である。

歳とともに、ようやくにして、知ることの楽しさが増してきた。落ち着いて新聞を読んだり、本を読んだりする時間を、一日30分でも一時間でも持つことで、静かに自分と向かい合うひとときが、私には必須である。

昨日の夕方一週間分まとめて新聞に眼を通し、ゆっくり読みたい記事は切り抜き、図書館にもってゆき、そこでゆっくりと読んだ。私の場合、読むところがだんだん限られてきているが知的、悦楽は、ありがたいことに深まりつつある。

日本語の文字を読むことは、私にとっては知的遊び瞑想時間だ。なにやら精神にたまった澱のようなものが洗い流されてゆく感じ、とくに知らなかったこと知った時は、身体がさわやかな気分に満たされる。

つまり、何やら元気になるのだから不思議だ。言葉、文字はどこにもゆかなくても、私を旅的感覚時間にいざなってくれる。浮世を生きるための知恵を授けてくれる。

【パソコンの調子が悪く、写真がアップできません。娘の結婚式を終えたら、新しいパソコンにします。それまでは、長年親しんだこのパソコンでの、文字だけブログになるかもしれません。どうかご寛容を】

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