私の拙い言葉では伝えようもない、未知の国の世界、宮古島の調べが、声が、唄が全編流れるドキュメンタリーフィルム【スケッチ・オブ・ミヤ―ク】監督大西功一を昨夜見た。
このフィルムは監督の大西氏が上映機材一切を車に積んで、全国をキャラバンしながら、各地で上映会を、配達しながら見てもらうという、創る側と受け入れる側との、いわば協働作業で成立した、画期的な試みで実現した。
たまたま、岡山映画祭で長年中心メンバーとして、地味な映画祭を続けて来られているO氏との御縁で私はこのフィルムを見る機縁に恵まれた。
昨夜見たばかりで、緩やかな興奮がいまだ冷めやらぬ私である。正直一度見たくらいでは何も書きたくはない、またかけもしないのは重々承知なのだが、見ることができたという幸運を一行でも、五十鈴川だよりに書き置きたいのである。
財布の中身のギリギリで、私はDVDとCD2枚を求め会場を後にした。監督との交流会に参加したい気持ちも少しあったが、電車の時間もあり、独りになり映画の余韻に浸りたかった。
今私は昨夜求めた、池間島古謡集を聴きながら書いているのだが、フィルムに登場していた唄う島民の方々の顔や、印象的な数々のシーンが浮かんでくる。
過酷な隔絶した世界で、かくも豊かに神と共に、唄と共に生きて来られた民俗(ひとびと)の存在を初めて知った。
歳と共に無知の怖さを、謙虚に知るということの重みを感じるようになってきた私だが、昨夜もまた、ずしんとそんなことを感じた。人間にとっての根源的な唄とはどこから生まれてくるのか、過酷な労働、生きてゆく生活の中から、命がほとばしるように生まれてくる、言葉にならない神々しさ、生と死が、まさに共存しているかのような、祈りの声。
いたたまれなく、今を生きている私の生活をあぶり出し、照射する。