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2013-06-18

動き回ったこれまでの日々と、動き回らなくなったこれからの日々。


先日つけた梅酒

梅雨はまだまだこれからが本番ということなのだとは思うが、いまのところ梅雨入りしいてからさほど雨が降らないのは空梅雨だからなのか、素人には判然としない。予報では今日の午後から雨とのことなので、それまでに乾いた洗濯物を取り込まなくてはなんてことを、考える自分がいる。

 

わずか3カ月とはいえ、8割は家にいるような暮らしを続けていると、何とはなしに家庭的な感覚が、自分の中に育ってきているような按配の私の日々の暮らしなのである。

 

以前は、あんなにも動き回らざるを得ないような暮らしをしていたのが、何とはなしに遠くに感じてしまうのは、いかなる内なる変化なのかと、いささか考えてしまう自分がいる。(21年間かなり動き回ったた自分自身とはこれからゆっくり、自問自答してみたい)

 

さて、次女が通っている大学の学長(ちなみにこの方の父は2・26事件で殺されていることを最近知りました)が書かれてベストセラーになっている本、置かれたところで咲きなさい(私はまだ読んでいません)ではありませんが、人間は環境や、情況が変化してもある種の適応力を持って生き延びる生きものであるということを、自分のこととして感じている。

 

私がまがりなりにも、18歳からなんとか生き延びることができたのは、父親に嫌というほど鍛えられたことと、持って生まれた楽天性と、いまもそうだが過去を引きずらない(引きずっても前向きに引きずる)性格のおかげなのだということを感じる日々である。

 

もうひとつ、これは何度もブログで書いているが、演劇的に何事も遊び・PLAYとして転化して考えるという癖のようなものが、有難いことに若いころ演劇を学んだおかげで身についているということがあるのだなあ、と感じている。この世は舞台(シェイクスピア)

 

そんな私を、妻はあきれながら、眺めているといった光景(図)。ギリギリまでは何事もドンキホーテ的に突き進むのだが、駄目だとおもったら、すんなりあきらめるのである。だからこそ生き延びられたのかもしれない。つまりはいい加減な性格という事に尽きる、とおもう。

 

それにしても、自分の本質はぐうたらなのだということを、43年ぶりくらいに実感している。これからは何を言われても、ひんしゅくを恐れず、可能な限り許されるものなら、面白半分ぐうたらに生きてみたいとおもうこの頃の私だ。細胞の隅々にストレスをためず、のらりくらり、だらりゆるりと、そしてたまにしゃきっと、なんてライフを夢見る61歳のわたしだ。

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