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私はこの方の本を愛読している |
退職して本を読む時間が増えた事はすでに書いたかもしれないが、きちんとは書いていないような気がするので書いておきたい。
世の中に出るまで私は、映画は観ることがあっても、レコードを聴くことはあっても、活字を追うことはほんとに苦手な子供だった。五感の中で眼と耳に重きを置いた、手っ取り早く楽しめることに耽溺し、好きなことに関する以外の本はまず読むことはなかった。
いまでもそうだが、感覚的であり感性的であり、(でも少しはおかげで考えるようになった)じっくりと腰を据えて物事に取り組むというタイプではなく、時代の流行を追う、たんなる軽いタイプのどこにでもいる、あの時代の空気をたっぷりとすった、ちょっと夢多き田舎の少年であったのだ。
私の意識が変わったのは18歳で上京し小さな演劇学校に入ってからだ。まさに井の中の蛙というしかなかった。あれから43年、これまでの自分の人生を振り返ると、ほとんどすべてのことにと言っていいほど、私は奥手であったのだということが今、理解できる。
大胆であるかのようなわりには、小心翼々としていた自分の青春時代、でもそれなりに生き延びて黒沢明の映画のタイトルではないけれども、わが青春に悔いなし、(少しの悔いついては70過ぎて元気だったら書きたい)というくらいの按配でなんとか今を生きている。
ところで恥ずかしい話だが、本当に本を読み始めたのは、私の人生で初めて、心から読みたいという気持ちと、読める時間環境が、異国の街で一致してからで、25歳で初めて海を渡りロンドンで、日本語に飢えた生活をするようになってからだという気がする。
あの時ほど、日本語が沁みるように、自分の身体に入ってゆく読書体験がなかったらと考えると、いささか冷や汗が出る、理屈ではなく自分という存在が日本語でできているという実感を持ったことはない。それほどに私は異国で日本語に飢えたことによって、日本人である自分を強烈に初めて意識した。
持参した、翻訳されたシェイクスピアの文庫本や、山本健吉の歳時記、丸谷才一の文章読本、小林秀雄の近代絵画など、かな文字、日本語独特の言葉の綾,漢字のかたち、が沁みるように身体に入ってきた事の体験は、大きい。芯からの幸福な読書体験といってもいいと思う。遅まきの春のめざめ。
日本に戻ってきて、またもやパンを得る、生きるに忙しく、自分が痩せた貧血気味の身体をただ引きずって生きている存在のような気がした時には、まさにすがりつくようにして、本の世界に韜晦した。戯曲、文学、詩、随筆などなど、日本語による豊かな言葉の海の表現は、無学無知蒙昧の田舎者の私の薬となり、滋養となり、私を奮い立たせた。
大学にゆかなかった(ゆく能力もなかった)私はささやかに、働くことも含め独学する喜びを糧に生きてゆこうと、何とはなしに考えるようになったし、いまもそのように考えながら生きているのだ。
そして何よりも、仕事であれ企画であれ何であれ、物事をひとつひとつ実践しながら、歳を重ね、本を読むという行為の中でかろうじて精神のバランスを保ち、なんとか生きてきたこれまでの自分の人生を思う。拙い表現しかできないが、本には眼に見えない人類の叡智歴史知的財産が詰まっている。そのことにわずかであれ、本を読むことで気づいた私は幸せである。
有限な人生の時間の中で、本も人も含めて、あらゆる出会いは、限られている。ヒトは森羅万象との出会いなくして、己は存在しない。会いたい人には、いま会えるときに会っておき、巡り合えた本は今しか読めないのである。
退職し、ゆっくりと精神の散策をしながら、本を読めるということは、人間に与えられている、これ以上はない手軽さでできる、無上の悦楽ではないかと最近私には思える。リタイアした高峰秀子さんは、やがてゆっくりといろんな整理(家も小さくし、あらゆるものを処分し)をしながら、本を読むことをこよなく愛されていたそうである。
憧れる。なんともさわやかな、その一途さにしびれる。ゼロから出発し、名人的な域にまで達した、艱難辛苦の上に咲いた見事な花というしかない。
今しばらくは、煩悩の花を生きるしかない私なのだが、やがてはあのように老いてゆきたいというお手本的な素敵な方々を、読書体験で間接的に巡り合うことができた。一冊の素敵な本は、その瞬間私の世界の全てである。
本を読まなかったら、今頃お金(をいかに使うかが今ほど問われている時代はないとおもう)がすべての世界にすっぽりと精神が汚染され、みじめな人生になっていたであろうことは、言をまたない。
昨日も、散歩と、ささやかな身体動かしと、ゆきつけの公園の木陰での読書で終日を過したが、梅雨の晴れ間風が気持ちよく、しばし昔の人たちはこんな感じで、各々が自分の時間を過ごしていたのに違いないとの確信をもった。