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2013-02-28

そこはかとなく春の訪れを感じる朝

第五福竜丸展示館で求めた本

昔と違い寿命が延び、定年も見直されそうな気配の世の中ではあるけれども、私の場合はとにかく、定年を機に夢が原を辞めることを選んだ。自分なりにやれることはやったということもあるけれども、還暦を過ぎたのを機に、見果てぬ夢、というのか、無謀というのかもしれないが、原点帰りのようなことが、可能かもしれないと考えたのである。

 

安定した仕事がなくなるという道を選択するということは、そこはかとなく、ある種の勇気がいることではあるのだが、振り返ると何度も安易な生き方はしてこなかったというのか、そういう生き方が自分の場合は出来なかったというのか、だからこそ今の自分があるとも言えるわけで、終わりよければすべてよし、ではないけれども、大昔からヒトは限りなく不安定な中を、必死で生きてきたのだということが、この年になると深く実感するのだ。全身で考えるからこその面白みがあるのだ。お金では買えない醍醐味。

 

スリリングだからこそ、意識が活性化するのだということを、いくばくかこれまでの経験で私なりに学んできた。ギリギリの生活になることは覚悟している。ギリギリなのだから、金銭がともなう交友関係の充実もおのずと限られてくるかもしれないが、そういう私と変わらなくお付き合いして下さる方とは、今後ますます深くお互いの一回性の人生を楽しみたい。

 

辞める決意をしてから、昨年一年限りなく無駄使いしない生活を心がけてみて、私なりに得心したのだが、お金の無い暮らしというものも、工夫考え方次第で、充分楽しめるということが、自覚できたのである。

 

何よりも私は、中世夢が原という歴史公園で21年間(この時間は本当に私を変えたと思う)働いてきたおかげで、現代人のお金にしか価値観が見出し得ない、精神も体も全てからめ捕られ、一見自由などといいながらがんじがらめの生活、否応なくひとつの流れに収れんされる、異様な世界金融化グローバルな流れに、直感的に体が違和感を覚えていた。

 

だから、アフリカをはじめ、そのような流れにいまだ汚染されていない国ぐにに住む人たちの、お金まみれではない音楽を私は企画してきた。人体や、臓器、etc,音楽や、心の中までが売り買いされるということは、おかしいということを、私は戦後民主主義学校教育で学んできたつもりである。

 

知恵と工夫で生活しながら、お金がなくてもささやかだが心からやりたい企画を、1996年から昨年までなんとか実現することができた。このことはきっと、私と同じような思いの方々が少なからず存在するということの証で、そのことが今持って私の中のかすかな希望である。春の訪れと共に、また今年も私の中で何かが始まる。

 

 

2013-02-25

これまでで最も長いブログ


私が生まれた1952年は、アメリカの占領政策が終わり、再び日本が独立を果たした年である。

 

あれから、61年間を生きさせてもらった。特に18歳から上京後、はたから見れば羅針盤の無い、田舎者としては無謀とも思える人生を選択してきた私にとっては、よく生き延びてきたものだという思いを禁じることができない。いま、この年齢にようやっと辿り着き、何かに急き立てられることもなく、移ろってゆく自分と向かい合いながら、穏やかに過せる、今の暮らしがことのほかに在り難い。が、のほほんとそんな感慨にふけっている時代ではない。3.11から、確実に自分の暮らし方が、緩やかに変化しつつある。

 

この世に生を受け、故郷での暮らしを、1期とし、東京での暮らしを2期、40歳からの夢が原での仕事を3期とすると、今年4月から、いよいよ4期に入ることになる。うまく言葉化しにくいのだが、これからどれほどの時間が、自分の人生に残されているのかということはともかく、若いころとは違って思いついたら即行動とはいかないが、これまで生きた時間の中で身に付けたことを活かしながら、ゆっくりと思念し、4期目を春からスタートしたいと思っている。

 

話は変わり、昨年暮れ、第五福竜丸展示館に行ったことは、一月のブログで触れましたが、その折に買い求めた・ここが家だ・という絵本が今手元にある。無知蒙昧の私はこのような画家の存在すら知りませんでした。第五福竜丸にインスピレーションを得て描いた、ベン・シャーンというアメリカの画家。構成と文章は詩人で、これまたアメリカ人のアーサー・ビナード(この方の本は読んだことがあります。素晴らしい仕事をされている)

 

一発の水爆で、一度に何百万人のヒトを、大量に殺戮できるといういわゆる悪魔的、核爆発破壊兵器の恐ろしさを、第五福竜丸を描くことで50年も前に(私が11歳)ベン・シャーンは伝えています。(1969年に亡くなっています)ビナードさんは、1967年生まれですから、私より12歳も若く才能もすごい。国籍の異なる、それも原爆を落とした国の人が、人類の一人として核エネルギーでまき散らされる、放射能の見えない恐ろしさを、芸術的に表現し伝えていることに、ささやかに企画を続けてきた人間の一人として、遅まきながら何度も繰り返し見入っています。

 

またもや話は変わり、進歩って何だろう、幸福とは何だろう、生きるとは、なんてことを、高校生になったころから考え始めた私にとっては、受験勉強をするなんてことの具体的意味が自分の中で全くよくわからず(それよりもなによりも学校の勉強ができず)時代についてゆけない、悶々とした高校生活を送っていました。

 

私が、高校を卒業できたのは、高校2年生の時父の仕事が転勤になり、生まれ故郷の、のんびりとした高校に転校し、たまたまM君という演劇部の同級生に、あんた演劇部に入らんな、と声をかけられたことによる、男が足らんとよ、と。

 

当時、映画館にゆくことくらいしか、居場所を見いだせなかった私は、演劇部に居場所を見つけたのだ。授業にはついてゆけなかったけれど、俄然学校にゆくことが苦にはならなくなった。元来本質的に、軽佻浮薄、楽天的なところがあり、おだてにのりやすい私にとっては、似たような面白い人物たちがたむろし、他愛もないことを心おきなく話せる演劇部に、私は一抹の光を見出したのだ。

 

今振り返り、演劇部に入ったことにより、か細く痩せた少年は、声を出し仲間ができたことで生き返ったのだ。この世を劇化し、フィクションとして、いやがうえにも眺める癖のようなものは、いまだに私の中に、大きいということを実感している。

 

役者は自己を劇化し、途方もなく自由に遊ぶ精神を具現化する存在なのだと思うが、そのことを私はたまたま演劇を学ぶことで、最も影響を受けたウイリアム・シェイクスピア(たまたま思春期入れ込んだに過ぎない、他の劇作家はあまり知らない)からほんの少し学べたように思う。

 

シェイクスピアは、エリザべス朝時代の、(1600年前後)歴史的大転換期を生きた、(今も又いろんな意味で大転換時代だと思う、だから世界中で、新しい解釈で演出し直される)英国が生んだ一大劇詩人として、燦然とその名前は、全世界にあまねく知れわたっている。

 

最も多感な田舎の高校生の時、悶々とした日々に見た、フランコゼフィレリ監督のロミオとジュリエット。私と同世代の悩める若者たちの青春群像劇、(1968年、当時パリをはじめ世界の悩める若者は何かにいらつき・理由なき反抗・をしていた、もちろん日本でも)素晴らしい俳優の朗誦・名台詞の数々と、イタリア、ヴェローナの中世の街並み、衣装色彩、音楽、全てに私は心を奪われた。気障に表現するなら、田舎者の少年の心に世界への扉が開いたのだ。

 

魔法のような言葉で、人間の真実性を劇的に浮かび上がらせる、天才。あの当時の階級社会、時に恐ろしいほどに人間の闇の奥底を描く、的を得た宝石のような言葉の数々は永遠に色あせない。

 

TOBEORNOTTOBETHATISAQUESTIONという言葉は、今を生きる我々にも、無数の言葉で翻訳できる。この核の時代、どのように生きてゆけばいいのか、いけないのか、と。

 

思わず、話が横道にそれ、長くなってしまった。還暦を過ぎたというのに、いまだ青臭さの抜けない私がいる。ベン・シャーンの絵本・ここが家だ・を途方にくれながらも、春の日差しの気配の中、61歳の肉体の声で、小さな声をだして読んでいる。

 

1954年、3月1日、夜明け前、何とも美しいマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカは水爆実験をした。ハムレットの最後の台詞、後は沈黙、この意味は。

 

 

 

 

 
再出発はこの絵本を読むことから始めます

2013-02-16

藤原新也さんのブログを読んで考える朝

娘と怜君ともにクッキーを作っている(2・14)ブログとは関係ありません

起きて藤原新也さんのブログを読んでいたら、なんとも信じられないようなフクシマの南相馬でしか聞くことができない話がアップされていて、何やら気の重い、憂鬱な気分での朝ブログである。

 

何か書かずにはいられない。私ごときの個人的能天気ブログは、極めてありきたりな、自分も含めて、何か今日一日を、元気に暮らしてゆけるような、気持ちが一歩前に向かえるブログを書いてゆきたいとは思うものの、いろんなことを知るにつけ、なんとも暗澹たる思いにとらわれる。しらぬが仏というのは真実でもあるという、表裏の感覚。

 

世界で唯一の被爆国である日本。ソフトボールくらいの大きさで、何万人もの人を一瞬であの世に送り、その後もヒトを含めた多くの生き物が後遺症に苦しむ、悪魔というしかない多様な核爆弾。(私が高校生の頃ベトナム戦争が泥沼化していて、その映像を見た多感な私は、人間のやることにおぞましさを覚えた、市街戦、裸で逃げ惑う少女の写真が脳裏にいまだ焼き付いている)

 

北朝鮮の核実験のことも、私のブログでは触れていませんが、もうどんなことが起こっても不思議ではないという、ある意味では悲観的に過ぎるかもしれない感覚は、9・11以後私の中にはある(世界の不条理に対するやり場のない暴発の連鎖)

 

しかしヒトはやはり、生きている以上前向きに生きる、肯定的に生きるというのが庶民思想の私の考え(でないと生きられない)。藤原新也さんは、明日地球が破滅するとしても花を植える、というマルチンルターの言葉を引用しているが同感する。

 

これまで大国米ソ、をはじめいわゆる核を持つ先進国といわれる国々は、気の遠くなるほどの数の核実験を、この美しい水の惑星で、今も行っていると現実にたいして、私自身を含めての鈍感さは、いかんともしがたい。がさて、どのようにそのことを実感を持って、真摯に考えたらいいのかということについて、限りなく途方にくれてしまうのである。

 

でも考えないといけない。おそらく産業革命以前の地球は信じられないくらい美しかっただろうと想像する。47億年の地球の歴史から、わずか数百年で、緩やかにあらゆる人類が生み出したゴミと核汚染の水の惑星へと、刻一刻流転しつつあるのだ。

 

命の未来ということを考えるなら、猛毒プルトニウム(消えるまで2万4000年)を内包するあらゆる原子力、核エネルギーは、不要と考えるのが、単細胞な私などの考えだが、そうは単純にゆかないところが、魑魅魍魎の人間世界の厄介なところだ。

 

口で言うことはたやすい。オロも含め、何かアクションを自分の中で起こすことで、荷が重いけれども核についても考える企画を今年何かやりたいと、思わずにはいられない。

 

 

 

 

2013-02-14

偶然的必然性でオロを企画することに胎を決めました


21年前、夢が原には企画広報担当職員として就職したわけなので、私はお恥ずかしいくらい必死で(何せ40歳での再スタートでしたから)自分なりにやれそうな、あれやこれやを、文章を書くことも含めてやってきました。

 

先日のブログで、企画者生活に一応のピリオドを打つと書いたのは、夢が原は野外での企画がほとんどでしたし、これまでおもに自分が企画してきたような、野外でのライブとか、かなりのお金が必然的にかかるような企画は、ピリオドをうつということ、です。

 

これからは、夢が原というフィールドではなく、邦楽番外地もそうでしたが、屋内でのあるいは、ミニの企画、肩に力を入れず、しかし独りの人間として、いまどうしてもやりたい、エネルギーが湧いてくる、やらねばならないと思える企画を、これからの時間は企画したいのです。生活はなんとか他のことをしてしのぎながら。

 

さて冬眠中の私ですが、昨日仕事中に、なんと私が昨年誕生日を迎えた遠野から、大切な先輩、友人のT氏から電話がありました。氏は遠野に雪かきのボランティアにいっていて私が行っていたところと同じ場所から、たまたま電話を下さったのですが、偶然私の誕生日でありました。

 

話を続けていたら、なんとT氏も2月13日が誕生日だというではありませんか。いやはや又してもの機縁、これだから人生は面白い。一気に二人して、この何とも言えない偶然的必然性に何がしかの啓示を得たのです。

 

結論から言えば、氏が撮影監督して、昨年封切られたドキュメント、チベットの少年、名前はオロ(タイトルも)のフィルムを、今年企画しなさいという暗黙の啓示だと私は受け止めたのです。61歳の誕生日に、同じ日に生まれたT氏からの電話は、夢が原退職後の、企画第一弾としてはこれ以上望めない作品なのではないかという気がするのです。

 

長くなるので省きますが、チベットは高地の過酷な環境にある邦です。人々はチべット仏教を芯にして暮らし独特の文化を持つ、わたしには限りなく神聖なイメージの邦です。その国の亡命した少年と、チベットに惹かれる日本人監督との淡い触れ合いを静かに描いたフィルムです。

 

大きな国、中国に弾圧されながらも亡命政府をインドにつくり、自国の歴史、文化を守る、チベット民族。安穏と暮らせる独りの日本人の私は、彼らの人間としての限りない精神性の豊かさに、この年になっていろんな意味で惹かれます。

 

ともあれ、T氏とどのような形での上映会にするのかも含め、ゆっくりと実現したく、私の胎は決まりました。そんな訳で、冬眠から覚めたら、春から一気にまた動き始めます。

 

どのような企画も、胎が据わらないと一歩も前に進めない私です。藤原新也さんが撮った、チベットの写真をWMで眺めています。友人知人の力を又、集結することになります。

 

 

 
一人でも多くの方に見てもらいたいと思います

2013-02-13

歩くということの、新しい喜びを昨日少し感じました。

福島の雪に覆われていた砕けた防波堤

昨年の還暦の誕生日は、岩手県、遠野のボランティアセンターで迎えたことは、今でもはっきり脳裏に刻まれている。あれから1年がまたたく間に過ぎたのだが、私の中ではいろんな意味で、あれから自分が少しずつ変化してきていることが自覚できる。

 

あの被災地の現場を、わずかな時間ではあったけれども、全身で寒い中感じられたことは、今もささやかに、私にどんなことがあっても生きてゆかねばならないという、何か言葉化できない、感情を植え付けたように感じながら、一年後、先ほど起きて61歳の生誕の朝を静かに迎えている。

 

話は変わりますが、私はほとんど人生の訓話のような本は読まないのですが、妻が図書館から借りてきた本を犬のメルが悪さして、図書館には買って返すことになったのだが、たまたまその本を手にした(天台宗の千日回峰行を2回もやられている、御住職の本、単純ですばらしい)ことから、最近のことなのだが急に歩くことに興味が湧いてきつつあるのだ。

 

私のことだからまた急に関心がなくなるかもしれないのだが、思いついたら吉日ということで、昨日はお休みでしたので、天気も良かったし、自宅から東岡山まで歩いてみることにしたのですが、これが思いのほか、ひとりで楽しく歩くことができたのは、意外な発見でした。

 

身体を動かすということは、夢が原でこの21年間普通の生活をしている方に比べたら、随分動かしているとは思いますが、長い距離を歩くということは普段あまり意識してやったことはないので、意識してやってみいたいという自分が、最近います。

 

ある程度の距離を、さほど億劫にならずに、歩くことが楽しめるというのは、年齢を重ねれば重ねるほど、楽しく、また嬉しいことなのではないかということが、昨日歩いてみてハッキリ自分の中で覚ったのである。

 

西大寺から東岡山まで9キロくらいですが、1時間20分で歩くことができました。これから天気のいい休日は、お結びを持って歩くことを、あえて意識的にやってみようという気になっています。何故こうも寝たきり老人が増えてきつつあるのかということに関しての私なりの考えは、やはり体を現代人は昔の人と比較して動かさなくなったから、ということに尽きるのではないかというのが、現時点での私の結論です。姿勢が悪い。

 

だから、私はいよいよもってこれからは、歩く、身体を動かす、声を出す、読み書く、人と話す、こんなことを意識して心かけたいと思う、61歳ほやほやの朝です。

 

 

 

2013-02-12

60歳最後の日の朝ブログ


ブログでは触れなかったけれども、この5,6年、昨年から今年もまた私にとっては影響を受けた方とか、素晴らしい活躍をされていた方たちの、あらゆる分野での訃報が知らされる。

 

いちいちは記さないが、話はしていないがお目にかかったことがある、小沢昭一さんの死。何冊も我が書棚に本があるが、あの何ともいかがわしくも憎めない、人間の哀しさの表現は、無比の存在感で、やはり時代が生んだ、奇優であった。数年前、銀座のキャノンギャラリーで(本橋成一さんの写真展の特別ゲストでお二人の対談を聴くことができた)お声を生で聞くことができたことは、わが生涯の宝の思い出である。

 

中村勘三郎さんも、とある場所でお目にかかったことがある。まさに芸人というしかない腰の低い気配りの人で、あの豪放磊落な役者魂は両極端を併せ持っているからこその為せる演技だったのだろう。それにしても、57歳、早すぎる。

 

市川団十郎さん、テレビでしか見たことはないが、あの大きな目と他の誰にもない雰囲気、誠実で柔らかくも剛毅な語り口は強く印象に残っている。ともかく余計を承知で、歌舞伎界は大変なことだと思うが、賢い観客がいる間は大丈夫だと思わずにはいられない。しかし、興業主は、役者の健康にもっと寄りそう興行を続けないと、肝心かなめの役者がこうも早く、他界しては身も蓋もないのはないかと、素人としては案じてしまう。すぐに代打を出すような按配には行かないのだから。建物が立派になったって役者がいなきゃ。

 

再び、市井の庶民のたわごとを書かせていいただきますが、この年まで生きのびた者としてささやかに感じることの一つに、相撲界、柔道界、教育界、経済界、東電の被災者救済、、、。きりなく書かなければなりませんが、この国の人間を大切にしない体質のようなものは、いつ頃からなのか、顕在化はやはりバブル崩壊後一気に加速して、現在に至り噴出してきているような気が個人的な認識です。

 

全てに心の懐が、お金と共に浅くなり、小利口なものがはびこり、賢者(見者、目利き)の存在の不在がいかんともしがたく、人間力の低下、魅力的な人材の枯渇が、多分野でこの日本列島を覆っているというのが、正直なところ。

 

アルジェリアで日本人が一番なくなったことに関して、藤原新也さんが書いておられました、世界からもう日本人が尊敬されない時代がやってきたということが。

 

さて、そこでどうするのかということは、一人一人の特に責任世代が考えなければいけないことはもちろんだが、過去の胆力の座った素晴らしい日本人のお仕事は文字となり、音となり、色となり、形となり、姿は見えねども生きているこちら側がきちんと学ぼうと思えば、死者の遺した膨大な宝は無限にあるわけですから、生き還るのです。

 

小生少々あちこち痛みだし、いささか古くはなってきましたが、怠惰で昔学ばなかった分、今ごろになって、ようやっとという感じ、全てにあれやこれやが遅い私です。亡き母がいつも言っていましたが、気づいた時が一番若いのだと、その言葉にしがみつくしかありません。

 

 

 

 
近所の小高い山の散歩に妻とゆきました

2013-02-11

書斎の整理整頓をゆっくりと続ける冬時間

全編英語で書かれた娘の卒業論文

後ろ髪をひかれながらも、私がこの世を去るときに、共に燃やしてもらいたい、頂いた便りや写真、またこれまで企画したポスターやチラシなどどうしても処分できないものを除いて、昨年暮れから、時間をかけてゆっくりと処分している。

 

この数年、2階の書斎に足を入れるのが、実はすごく億劫になっていたのだが(私はこの数年ほとんどの時間を一回の和室で過ごしている、ブログも正座して書いている、ときおり胡坐も書きますが)思い切って足を踏み入れ、整理を始めているのである。

 

東京を去るときに、かなりの本なども処分したのだが、18歳から20代の終わりまでに、生きるのに忙しく、なかなか腰を落ち着けて読めなかった、若い時だからこそ背伸びして乏しいお小遣いの中で、買い求めた本が(難解な演劇書や観念的な本が多い)いまだ棚の中に眠っている。

 

おそらくはもう読むことはないのだとは思うのだが、手放せないのである。手にするとその本を買った当時のあれやこれやが、思い出されてきてたちまち、もの思いに耽ってしまう。したがって、整理は遅々として進まないのだ。

 

性格的に私はきれい好きだとは思うが、整理好きとはいえない私なのである。その欠点を我妻は補って余りある能力の持ち主なので、彼女に相談すると的確に助言してくれるので、私も思いきれるのである。

 

それにしても、人間とは記憶の生き物、人それぞれいろんな事象にこだわり、執着して生きていることであるかと、我ながら途方に暮れ呆れてしまう。でもそれがまだ現時点での私なのであるから、還暦を過ぎたとはいえ、様々な煩悩を抱え、凡人としての現在を生きる他はないのだ。

 

というわけで、お休みの日に時間を区切って、なんとか3月末までには、書斎に入るのが億劫にならない程度には、片付け、整理し過去の思いのもろもろを内包しながら、次なる新しい人生の時間に進みたい、と考えている。

 

立ち止り深呼吸しながら、転機にあらゆる整理するということは、やはりとても大切なことだと痛感する。いくつになっても若いころの多感な時期に、感動したり経験したことが、自分のその後の人生に大きな影響を与え続けている、ということがあらためて覚るのだ。

 

加齢と共に、感動するばねは自然と弱まってゆくのが、当然のことなのかもしれないが、感動するということは人間に与えられている最高の宝のような感情であると、深く認識している私にとっては、その感情だけは、一日でも長く持ち続けたいので、そのためにはどうしたらいいのかを乏しい頭で、身体を動かしながら、読み書きしながら考え続けたい。

2013-02-09

秒読みになってきた夢が原時間


夢が原で過ごす時間も何やら私にとっては、秒読み取いう感じになってきました。丸21年間ひとつの職場にいたことがない人間としては、やはりよほどの何かの巡り合わせというほかないくらい、私にはジャストフィットの職場であったのだと思う。

 

がしかし、何事にも潮時、時の流れ、決断しなければならない時というものがある。やがてはいつに日にか、ゆっくり夢が原のことも、また、その前までのことも振り返ることがあるかもしれないが、今はただ、今日一日をしっかりと働く、生きるということしか考えていない、自分がいる。

 

もうおそらく、することはないかもしれない茅をそぐ単調な作業をこのところ寒い中続けているのだが、そのことが全く苦にならない、無心で体を動かせる自分がいる。気がつくとあっという間に一日が経ち、身支度を整え自宅に向かう。

 

夢が原から新倉敷までは車、電車の中ではくたびれた体に栄養になる本を(行きと帰りでは読む本が異なる)読む。あっという間に西大寺に着く。とっぷりと日が暮れ、家まで歩く。3か所角を曲がると家の明かりが見える。

 

一足先に帰って、妻が薪ストーブに火を入れ部屋を温めてくれている。妻との愛犬メルの散歩、夕飯と週に4日はまるで、判を押したかのような平凡の極みのような生活が、昨年の邦楽番外地を終えてから続いている。

 

もうあとわずかで、そのような生活も終わりになる。こんなことを書くと何やら侘しさを伴うが、私の中では意外とすっきりしているのだ。自己分析的な趣味は持ち合わせていない、性格的なものかもしれないが、ケセラセラ、人生はなるようにしかならない、その時点で万事を尽くす、という感じで生きてきたのだから。

 

今後のことも考えないではなく、考えていると言った按配で、多寡をくくっているのではなく、今日一日をきちんと、3月末まで働きたいという心境。ただ、4月から22年ぶり生活が一変するということに関して素直に嬉しい。

 

夢が原からある意味では、解放されるのだ。何かを断つことによってしか、新しい世界は見えてこない。私としては今後どのような展開の人生になるにせよ、何かに導かれるままに、無理なく自分の感覚に添った生き方を模索してみたいのだ。幸いというしかない伴侶に恵まれ、これからの身の振り方は、4月1日から、身体を動かしながらゆっくり考えたい。
昨日の朝屋敷はうっすらと雪化粧をしていました
 

2013-02-08

2月5日は亡き父の命日でした


ブログを書き始めて3年以上経ちますが、2月5日は父の命日でした、という書き出しで書くのは初めてです。先日父の書き遺してくれた文章について少し触れました。

 

私の少年期から思春期にかけて立ちはだかった大きな存在としての父のことは、おそらく私がこの世を去る刹那まで、意識というものがはっきりしている間は、消えることなくときおり、浮かびあがり、繰り返し生き続ける、そんな気がします。

 

思い出す父のことなど、書けるときに書いておこうと、最近そんな気にいなっています。(もちろん母のことも、この両親あっての私なのだということを思い知る最近の私です)

 

先ほどお線香を立て、何も考えず手を合わせました。年々落ち着いて手を合わせられる自分がいます。私が世の中に出た18歳の時、父は53歳でした。振り返ると父が元気なうちに父の少年時代や戦前のことをもっと、個人的な体験として聞いておきたかったという後悔の念が私にはあります。

 

引き揚げ体験のことは、大変だったというのみで、多くは語りませんでした。藤原てい著・流れる星は生きている・を読んで全くその通りだったと語るのを高校生くらいの頃聞いたことがあります。(後年この本を読みましたが、日本人必読の本だと思います)

 

ゆっくり里帰りできるようになったのは、私が岡山に移住してからです、当時父は70代半ばになっていました。私の娘達にもお年玉をくれる好々爺になっていました。小学生の時のあの怖い父親の片鱗はもうどこにもありませんでした。5人兄姉弟、4番目の私は両親にたいして何も親孝行出来なかったことがいまだに、心のどこかで悔やまれます。

 

母は西大寺で私の企画したインド音楽を一度だけ聞いてくれましたが(インド音楽に身をゆだね、気持ち良さそうに寝ていた姿を思い出します)、父はとうと私が企画したものは、一度も耳にすることはありませんでした。

 

ただたった一つよかったのは、娘たちの記憶の中に両親の姿が残っているということです。父が亡くなり、お葬式の時、臆面もなく涙する私の姿を長女はハッキリ記憶していると言います。

 

娘たちに、小さいころ私が過した故郷を感知してもらいたく、節約しながら車に娘たちをのせて、何度も連れて帰りました。夜仮眠をとりながら(娘たちはシートを倒して横になって寝むれるくらい小さかった)走り、早朝、高千穂に着いて、そこで娘たちと誰もいない清流の水で顔を洗いました。頻度は少ないにもせよ、私の故郷は彼女たちの中にもいくばくかは伝わったかと思います。

 

お金が浜で(サーフィンで有名)小学生の娘たちは何度も波遊びをしました。波と興じる娘たちの姿は、まるで夢か幻のようにいまだ私の脳裏にくっきりと焼き付いています。

 

娘たちは大きくなりました。これからまた時が流れます。ようやく、やっとここまでたどり着きました。
ちょっとピンボケでごめんなさい

2013-02-02

漆喰の壁のすす払いと、ストーブの灰出しの休日


早2月です。私の冬の一番のささやかな楽しみは、夜、薪ストーブのあるリビングで過ごせるということにあります。1999年に家を建て替えた時に、私が一番欲しかったのは、こだわったのは、部屋のどこかに薪ストーブを設けるということでした。

 

以来ずっと冬の夜長時間、家族全員が薪ストーブの温かさの虜になっています。ただたった一つ問題は、煤がどうしても出て、それが我が家の漆喰の壁を黒くしてしまうのです。あらかじめ覚悟はしていましたが、丸12年燃やし続けた結果、いくら何でも気になってきていまして、いつかなんとかしようと思いながら、この数年延び延びになっていたのです。

 

それを昨日一念発起、スポンジで洗い落としながら、雑巾でふきとるということをこころみたのですが、やはり案ずるよりやってみることだということを、またしても教えられました。完全には程遠いのですが(これはこれで我が家の歴史、味わいが出てきました)なんとかなりきれいになる、何よりも煤のよごれは落ちるのだということが、はっきり分かったのです。

 

煤さえ落ちればまた漆喰が出てくるのですが、そのこびりついた煤を落とすのは根気がいるのです。でもその根気に関しては夢が原でかなり修業しましたから、磨いては拭き取り磨いては拭き取ることの繰り返し、少しずつきれいになる、どれほど私が嬉しかったかわかりません。家はやっと建てることのできた、私にとっては夢の砦、いよいよこれからの晩年ライフをすごすための基地ですから。

 

ついでにストーブの出口に溜まっている灰のかきだしも、あの重いストーブを動かし、なんとかひとりで元通りに据え付けました。書くのは2行ですが、これもかなり悪戦苦闘しました。悪戦苦闘を一人で楽しむ、休日のおじさんタイム。毎日家族が過ごすリビングは、我が家の要ですから、親父としてはここ一番奮闘しました。

 

おおよそ3時間半、それで午前中の時間は過ぎたのですが、ストーブのまわりの空間が、さっぱりと明るく変身しました。このブログで何回か書いていますが、私は雑巾がけをするということを意識的にこの数年やっているのですが、雑巾4枚が真っ黒くなりました。

 

これからの晩年時間の過ごし方としては、静と動の時間をくりかえすことを心かけたいのです。お掃除、雑巾がけは精神の健康にとてもいいということが実によくわかります。午後は掃除が行き届いた部屋で一人静かな時間を過し、夕方運動公園に散歩にゆきました。

 

仕事を終え帰って来た妻が、ストーブのまわり(もちろん中も)の壁や、部屋がきれいになっていたので、すごく喜んでくれました。歳月がたち古くなってゆくのは仕方がないのですが、人間も、家も、ストーブも出来る限り、きちんと手入れして磨きながら、大切に使いたいと、少々古くなってきたおじさんとしては思わずにはいられないのです。
薪ストーブと周辺さっぱりしました