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2012-10-30

岡山県良寛会の会長にお会いしました


昨日、ご紹介して下さる方がいて、岡山良寛会の会長をされているT氏にお会いすることができました。というのは、今回土取さんが演歌を歌ってくださる玉島の円通寺は、添田唖蝉坊さんが、もう歌を唄わなくなった晩年、四国お遍路の帰りに、良寛さんの生き方にひかれ、良寛さんが若き日に修業をした御寺だということで立ち寄り、歌を一首詠んでいるのです。

 

そのことを、土取さんが調べ私に教えてくれたのです。まあそういうこともあって、それなら円通寺で是非やろうということになった、という流れなのです。

 

添田唖蝉坊が読んだ歌は・良寛の追憶涼し円通寺・というものです。そういうわけで、良寛会の方に、御挨拶もかねて伺ったのです。

 

やはり、企画をしたものとして、思いつくあらゆることに労を惜しまず、ベストを尽くしたいということが、私をT氏宅に向かわせました。T氏のお宅は鴨方の駅の近くにあり、T氏はわざわざ駅まで、私を出迎えて下さいました。

 

藪から棒の訪問にもかかわらず、T氏はご自宅で、ことのいきさつからゆっくり私の話を受けとめてくださいました。その間一時間近く、その上予期しないことに、何とチケットを一枚その場で、買ってくださったのです。お会いする前、電話で私が宮崎の出身で、若山牧水の生家の近くだということを話したら、なんと牧水に関する新聞記事のコピーまで用意して下さっていました。

 

良寛会の会長は、やはりひとかどの人物で、まったく退屈することなく、いろんな話をすることができました。私より14歳年長、かくしゃくとしてお元気で、好奇心強く、PRのお役に立ちましょうと言ってくださいました。

 

御宅を辞した後、訪ねてよかったという思いが私の心を満たしました。企画をした以上、やはりベストを尽くさないといけない、でないと何事も生じないのです。訪ねるということの重さに、改めて何かを感じ入りました。動ける、企画できる間は、自分の身体を総動員して、考え動きながら企画しないといけないということを、思い知りました。

 

また、今回の企画は、私を良寛さんに出会わせてくださる企画にもなりそうで、今良寛さんが書き遺した世界を、深く知りたいという思いが私の中で育ってきています。

 

 
今年2月石巻・あれから8か月です

2012-10-28

友の情けが身にしみる朝

今年もたくさんの実をつけた我が家のはっさく(水滴が美しい)

私はパソコンを、ほとんど朝しか開かない。先ほど雨の止んだささやかな庭の花を眺めながら、パソコンを開くと、9月7日の映像記録を撮ってくださったT氏から、当日のライブの編集作業がほぼ終わったというメールが届いていた。

 

T氏は、チベットのオロ(昨年封切られたばかり、岡山で上映会をしたい)という亡命を余儀なくされている少年の、ドキュメントフィルムの撮影を担当されている、一流のカメラマンである。その方が私のために、ボランティアで記録を撮り、彼のプロの知人に頼んで、編集して下さったのである。

 

おそらくこのDVDは、私の現時点でのこれまでの人生での歩みが、あらゆる意味で集約されていると思う。イベントが実現するためには、あらゆる裏方の仕事がなされない限り、先ず実現しない。そのことに関しては、またいつの日か書くことがあるかもしれない。

 

今はただT氏のおかげで、かけがえのないきちんと編集した記録が残せたことが、言葉では言い表せないほどに嬉しいのである。T氏にはすぐにお礼のメールを書いたのだが、ブログでも書かずにはいられないほどに、何かがこみ上げるのだ。

 

T氏とは、ほぼ22年のお付き合いだが、密にお付き合いしているわけではないけれど、氏から送られてくる年賀状だけ(世界各地からの)は、全部とってあるし、ときおり上京した際に連絡を取り合い、お互いの元気を確認するくらいの、つまりは君子の交わりの仲なのである。

 

氏をはじめ、私は10人くらいのかけがえのない友人に恵まれているのだが、この方々に巡り合えたことは人生の宝というしかない、いろんな意味での喜び、希望の支えであり、心からの財産であると沁みて思う。そう思える自分は果報者だと、ただ庭に眼をやり、虚空に向かって感謝するのである。

 

亡き父が、繰り返し言っていた、友人を大切にせよという言葉が、還暦の私の身体の中に響きます。これからは一年一年、これまで培ってきたかけがえのない友との時間を大切に過ごそうという気持ちが一段と強まってきました。

 

ほんとうにしなやかで、強い心がけがないと、他者にはやさしくなれません。他者を思い、いたれるということは、ほんとうに難しいことだと思います。自分自身を省みて、切にそう思わずにはいられないのです。

 

T氏が、なぜここまでして下さるのか、謎として受け止め、拙文を持って深い感謝の気持ちをこの場を借りて、お伝えしたく思います。

2012-10-27

邦楽番外地・11月25日が近づいてきて思う


9月7日の邦楽番外地を終えて、11月25日に玉島の円通寺で、午後2時半から土取さんの独演会をすることにしましたが、あれよあれよと、時が流れもう一月をきってしまいました。

 

個人でやっているので、ほんとうに人が来てくれるのか、邦楽番外地だけは今まで、企画してきた中で最も反応が鈍いので、正直大変なのです。でもぼやくのは私の性に合いません、賽は投げられ決断したのは私なのですから、当日までやれる限りのことをやってみます。企画できる間は、当たって砕けるの精神力がなかったら、とても企画はできません。

 

不思議なのですが、苦労した企画ほど心に残るのは、何故なのでしょう。ともあれ、本番まであと何回か、聴きに来てくださいのお願いを、このブログを通じてすることになるかと思います(溺れる者はわらをもつかむの心境)、演歌に関心が弱くとも来られた方は、意外な世界を体感することになることに、きっとなります。どうか友人知人お誘いい合わせの上、いらしてくださいと、私としてはお願いするのみです。

 

さて話題を変えて、企画のことを別にすれば、個人的には体調も回復し、極めて充実した秋を過しています。身体にとてもいい気候で、何よりも本を読む時間の幸福は、個読ならではのものです。若いころに読んで、理解できなかった本とか、読み進むのに気が重かったような本が、歳と共にしみいるように読めるようになってきた自分を、(ようやく穏やかな時間が過ごせるようになってきて)感じるのです。

 

どんなことでもそうですが、好きなことは続けられます。添田唖蝉坊演歌の歌詞ですが、あんたこの世に何しに生まれてきたの、という問いは、自分に問い続けられる感覚が(あるいは勇気が)ある間は、生きてゆくあらゆることの時間を過しながら、考えるに足る永遠の問い、なのではないかと個人的に私は考えます。(それが企画を生む)それがこの年になると、ある意味でもっとも贅沢な時間の過ごし方かもしれないという気がするのです。

 

なにもない空間、私が尊敬する世界的演劇人ピーターブルックの名著です。プロジェクトEMPTYSACEは私が企画する際使用している標示。恐れ多くも、かってに少し変えて使わせてもらっています。この地球という惑星に、裸で生まれて裸で死ぬ。

 

私が土取利行さんの世界に惹かれるのは、言葉では言い表し得ぬ、まだ人類が言葉を持ちえていないころから、ヒトという生き物にとって・音とは何かという問い・を、また音を発する身体についての考察を一貫して続け、そしていま,唄(歌)とは何かという、根源的な問いを演歌を通じて、現代社会に鋭く投げかけているというその一点に、音楽家という枠ではとらえられない、真の意味での芸術家というしかない行為を感じるからです。

 

持たない演劇、肉体の神秘を演劇化することに生涯を終えた、ポーランドが生んだ、稀なこれまた世界的な演劇人、イエジェイ・グロトフスキーは・演劇とは出会いであると・言っています。異質なものとの出会い、あるいは尊敬のなかから崇高な何かが生まれてくる。

 

この二人の天才の書物に、若いころ演劇をたまたま学んだおかげで、巡り合えた私は幸運だったとこの年になって、思います。

 

 

 

 

 

 
1971年に買った(私が19歳の時)初版本

2012-10-25

久しぶりコメントを頂きました


私のブログにはほとんどコメントがないから、コメントがあるのを見落としてしまうことがあります。でもコメントを頂くととてもうれしいですね。やはり。

 

五十鈴川だよりは、極めて個人的なきままな、ある意味では我が儘な、思いつきどうでもいいような(他者には)ことを多く書いているので、いまでもこんなことを、ブログに書いても読んでくれている人がいるのかという気もするのですが、ときおり読んでます、という声をダイレクトに聞くこともありますし、何よりも自己慰撫的なブログですので、そのことを踏まえて読んでくださると嬉しいです。

 

さて先日、夢が原にコマの回し方を教えてほしいという、女子大生が3人来られたのです。ちょうどその時、私はお箸作りの体験予約が入っていたので、そのための準備をしていたのですが、一通り教えました。その女子大生の方たちからのコメントでした。

 

うちの娘と同じ世代の方が、コマを習いに来るというのは極めて珍しいのです。とても素直な人たちで、すぐにコツをつかみ、回せるようになりました。教える、習うという関係の中で、秋の穏やかなとてもいい時間が私の中を流れてゆきました。最近とんと夢が原のことについては触れていません、夢が原にいる時間は残り少ないのですが、私は役職を離れ、極めて充実した時間をなんのストレスもなく過しています。

 

秋は遠足が多く、現代の子供たちと、夢が原ならではの触れ合いを私自身とても楽しんでいます。このような場所は、そうはなかなかないので夢が原を辞しても、子供たちや若い御父さん、お母さんと共に、何かITライフ以外の楽しみ方なんかも伝えるようなことが、ささやかに日高事務所で取り組めたらと、来年に向けて緩やかに考えたく思っています。

 

夢が原で学んだことは、とても私の中では多く大きく、その中で、なにを一番学んだかというと、それは身体を動かすということだと思います。この21年、いまも夢が原では日々身体を動かしています。だから、夜はブログを書く元気もなく、ひたすらぐっすりと寝るという、極めて当たり前なシンプルライフなのです。しかもいきいきと思考できる。

 

おそらく、夢が原を辞してもこのシンプルライフは、基本的に変わらないようにしたいと考えています。読み書き、身体を動かす。そして時折企画が可能ならする。企画はお金が必要なのでなかなかできませんが、それ以外はそんなにお金が必要ではありません。

 

遠い過去の人々の暮らしを、自分の身体を使って想像しながら働いてきたこの21年間は、私自身の中に、言葉にはならないいろんな気づきをもたらしてくれました。それをこれからの晩年ライフに活かしたく思います。だから、今思うことをこうやって、徒然書くことが必要なのです。

 

何かを書こうなんて決めなくても、自然に文章を書きはじめると精神が転がるのです。疲れが取れた朝、静かにパソコンの前に座りコーヒーがあれば、自己慰安の始まりというわけです

 

 

 

 
最近ハマっているお箸作り

2012-10-21

知の水先案内人・松岡正剛氏の松丸本舗主義読了

松岡正剛氏の今も続く千夜千冊はまさしく知の開拓者

風邪で体調を崩しいていましたが、その間も何とか夢が原での仕事や、身過ぎ世過ぎをしながら、なんとか普段通りには動けるようになってきました。

 

お休みは、まってましたとばかり、個人的にやりたいことにほとんどの時間を費やせるので、嬉しいです。明日夢が原に往かなくてもいい日の夜は、つまりは今のところ、毎週土曜日の夜が一番夜更かしできる、だから珍しく、土曜日の夜に何気なくブログを書いています。

 

私は手紙を書いたり、個人的な仕事は集中して午前中にやることにしているので、おもに土曜日の夜が、いまのところまったくの、リラックスタイムなのです。ひとりでボーっと身体も頭もやすめる時間というのは、仕事柄他者と関わることが多い私には、極めて貴重なのです。

 

そのような私にとっての一番の友は、何度も書いていますが本です。テレビやフィルムなども、たまには見るのですが一方的に流れる映像や音声に身をゆだねるのは、年々控えるようになってきている自分がいます。(自分時間が必要大切です)

 

そのことをどのように感じたらいいのかとも考えるのですが、知るという本を手にしての悦びに、他のメディアが、やはり及ばないということに、私の場合尽きるようになってきたということなのだと思います。

 

静かな時間を、気にいった本を手に過せる時間というものは、まさに至福の時間なのです。特に私の好きな作家や、関心や興味のある分野の本を手にしている時は、一刻も早く読みたくて、いまだ少年時代のように心がワクワクする自分がいます。

 

小さいころは、周りに本がなかった環境のせいだと思いますが、あんなにも本はわたしにとって身近ではなかったのに、今では本さえあれば、なんとか生きてゆけるというくらいに、本との時間が身近な私です。

 

さて、本といえば9月末日、奇跡の本屋さんといわれた松丸本舗がわずか丸3年で閉店したということを、たまたまこの間上京する前、岡山駅の本屋さんで、(やはり何かが呼ぶのです)店主であった松岡正剛氏が、事の顛末を記した本・松丸本舗主義を見つけ、買うことで知った私ですが、そのかなり分厚い本を、ようやく時間を見つけて読み終えました。

 

関心のある方は、是非手にしてみてください。このような前人未到のお仕事を多岐にわたって継続される方と、同時代に生きて呼吸しているということの喜び。氏のお仕事から、わずかであれ、知的体力を身につけさせて頂いているということの感謝はたとえようもない。

 

松岡正剛氏や、土取さん、桃山さんのお仕事は、いまの時代趨勢の中では評価されにくいのかもしれませんが、個人的にははなはだ残念というしかありません。がしかし仕事は残ります。

 

そのことは、松丸本舗主義を読み終えて痛感します。本は読み終えても、手元にあるだけで、何かを語りかけてきます。記録は大事です。70過ぎたら、手元の近くに気に入った本に囲まれて暮らしたいと夢想する私です。

 

日高事務所でも、共読会なんかもやりたいです。いくつになっても多分野の本を(人を世界を、認識しきり結ぶ、哲人です)繋げる天才編集(偏執)人が松岡正剛氏なのだと、私は畏怖しながら理解しています。

 

桃山春衣さんを偲ぶ会や、NRAJIA(遷都1300年事業)で、お話しぶりを耳にしたことがありますが、その茫洋感はたとえようもなく、なにか思考し続ける知的巨人というしかないオーラを放っていました。

 

 

2012-10-18

ああ、分からないからこそ、ジタバタ生きるのです

35年の付き合いの友人が撮ってくれた東大赤門を背にする

一体ぜんたい、この地球の上でなにが起きているのかを、キチンと伝えてくれる、まともな感覚の人間、まっとうな人間(なにがまっとうなのかの議論は、今は置きます)の、少なさ、そんなには多くはいこと(私を含めてのことです)を、わずか60年の人生で沁みて感じるこの頃です。がしかし、いろいろ探していると、やはり中年オジサンに、希望の火を灯してくださるお仕事を、している方が数多くいて、個人的に救われます。

 

探す(とりあえず知る)努力をしないといけないということを痛感します。自分自身を反省するのです。流されてはいけないと自戒します、それも若い方々の中に。私も含めた中年オジサンたちの、覇気の無さはいかんともしがたく感じるのは、私だけでしょうか。だから、私は心ある元気な中年人に会えることを、切に望んでいます。琴線に触れあえる会話の成立する方を。

 

風邪でひっくり返っていたのですが、熱が下がり、鼻水も逍遙を得るを得たので、溜まった新聞の書評を読んでいたら、1976年生まれの亀山亮写真集・アフリカ・が取り上げられていて、思わず新聞を切り抜いた(買います)。切り抜いたからといってどうということはないのかもしれないのだが、必死で現場に命がけで入り込み、世界の痛ましいというしかない、現実を伝えることを、職業にしている人の写真集。書評氏が伝えてくれるからこそ、かろうじて知ることができる、この事実の重みは希望の火にさえ感じられ、私には大きい。

 

何故こういう事に、私の何かが反応するのかは、このブログで書くには整理が不可能なので控えますが、添田唖蝉坊の唄に惹かれるのも、根本のところで現代世界と対峙する、感じるアンテナが、小さき者や弱者をないがしろにするような、事実に対していかんともしがたく、いわば単細胞的に義憤を感じるところに起因しているのです。

 

その種子は、やはり父親の存在を抜きにしか語れないという気がするのですが、そのことに関しては、いつか時間をかけて、ゆっくりと自分の生い立ちも含めて、書いてみたいと思っています。こうまでにも弱者が、強者の犠牲にならざるを得ないような、時代状況は一体いつまで続くのでしょうか。

 

現代の世界的大状況の議論はさておき、原子力発電にせよ、IPS細胞にせよ(現段階では私にはなんのコメントもできない、同次元では語れないことではありますが)、夢のような領域に人間世界が入るというのは、私には個人的に、命とは何かということについての、認識のあまりの深まりの無さ、想像力の欠如が空恐ろしく感じられるのです。

 

ノーベル賞は(素晴らしい賞だとは思いつつも)、自然に寄り添い地球上に暮らす多くの民に、幸福の明かりを灯し続けているのか、添田唖蝉坊流に言うならば、ああ、わからないというのが、正直な気持ちです。

 

 

 

 

2012-10-17

上京中に風邪をひきましたが、なんとか回復しました

東大安田講堂の前で友人と記念撮影

季節の変わり目にいつものように身体が敏感に反応して、風邪をひきました。上京中からなのですが、考えてみると昨年肺炎にかかって以来なので、やはりこのくらいで、少し休みなさいという信号と受け止め、やらねばならぬことは、あっても昔と違い、なにもせずひたすら身体を休めました。

 

なんとか、今朝からパソコンに向かう元気が出てきたので、いささかホッとしています。私の場合、扁桃腺が小さいころから弱く、年に2回季節の変わり目には必ずと言っていいほどあらゆる種類の風邪をひいてきたので、何とはなしにもう定番のようになっているのです。

 

身体というものは、それにしても微妙であると思います。なんとも言えないだるさというものにおそわれると、やはりなにもできなくなってしまうのです。とにかく、栄養をつけ休む、それしか方法がないことは分かっているので、その通りにしたのですが、いつもより回復が早く、このようにブログが書けるのはありがたいことです。

 

さて、2泊3日の上京の旅は、またもやいろんなことを感じた旅になりました。一年一年、歳を重ねながらの旅、いい意味で、この年になったからこそ、沁みてくる時間を感じながらの旅となりました。岡君の独演会が行われた、木馬亭での時間も沁み入りました。

 

東京は本郷にある、竹久夢二の個人美術館にもゆきました。すぐそばに東大があり初めて中に入り、学生食堂で赤門ラーメンというとても安くて美味しいラーメンをお昼に食べるということもしました。

 

江戸から明治へ、その象徴として立てられた東京大学、三四郎池を散策し、弓道にひたむきに励む凛々しい女子学生たちを眩しく眺めながら、歴史を感じながら大きな樹木の中を友と歩きました。

 

明治大正の激動期、多くの文学者や、学者たち、一般の人々が生きていた本郷界隈、過去を偲びながら、歩きました。土取さんの明治大正の演歌の唄を聞きながら、私の中で、明治大正から戦前までの時代の流れを、いま一度個人的に整理しつかんでおきたいという思いが強まっています。

 

上京する前に書いた、松岡正剛さんが店主であった、閉店した丸善の松丸本舗にもゆきました。わずか3年での幕を閉じざるを得なかった、奇跡の本屋さん、2回しか往けなかったけれど、本を読むこと(小さいころは本を読むことが極めて少ない環境に育った)の素晴らしさを私に教えてくださった、(本格的には40歳を過ぎてから、今は本なしでは暮らせない)松岡正剛さんのお仕事は、これからも続きます。その遊び心の素晴らしさを、私はほんの少しでも心の糧として、生きてゆきたいとの思いなのです。

 

あれやこれや、還暦を迎えたばかりですが、本を読まねばならないというという、一念はますますもって強くなりました。これからの私に遺された時間は、遊ぶ(学ぶ)読む、ということに多くが費やされてゆく、ということの自覚が一段と深まる旅となりました。

 

個人で何かを企画をするということは、大変なリスクを伴いますが(動くエネルギーも含め、あらゆる体力がいるの、でそうは出来ない)本はなんとも言えない、痴(知)的遊びが可能で、書物の中に世界があるのを、ひとりで感じることができるという意味では、いまのところ他に私の楽しみは見つからないというところなのです。

 

今しばらく身体が欲する間は、(それに見合うアーーティスト)企画もしたいのは山々なれど、やがては出来なくなるという引き際を、見つめながらかけがえのない時間を生きなければならないとの思いを、風邪で我が身を横たえながら考えました。

2012-10-12

岡君の演歌独演会を聴きに浅草に行きます


深夜バスのチケットがとれなかったので、急きょ仕事を終え、今夜から新幹線で上京することになりました。

 

慌ただしく身づくろいをして、ブログを書いているのですがやはり落ち着いて書くには、最低の時間がいるので、最短の短いブログになります。

 

目的は、こないだ西大寺にゲストで、来てくれた岡大介君の独演会があり、土取さんや山脇さんも出演するので、浅草は木馬亭に聴きに往くのです。

 

またご報告できると思います。話は変わり松岡正剛が創った、この3年上京したら必ず立ち寄っていた、本屋さん、松丸本舗が閉店するということを知り、非常に残念なのです。

 

非常に実験的な本屋さんで、私に本を読むことの宇宙のすごさ、面白さを知らしめてくれた、松岡正剛さんの本屋さんが今のこの時代の趨勢の中で、閉まるというのは何か言葉ではいい知れないさみしさと共に、言い知れぬ知的衰退、奇妙な時代の到来を暗示するのではないかと、個人的に危惧しないではいられません。

 

ともあれ、時間が来たので、今朝はこれくらいにします、写真はこないだの旅の写真です。

 

 
わが故郷祝子川から見上げた青空

2012-10-11

故郷への限りない私の思い


夜明け前のひととき、寝る前はもう何の思考力も、本を読む気力もないくらいに、疲れ切った身体が、ひたすら休むことで生き返るというのは、いまさらながらに不思議である。何度も同じようなことを書いているような気がするが、年齢と共に微妙に何かが少しずつ変容していっているのを、書きながら今の自分の中で感じている。

 

この朝の時間というのは、寝起きで身体がまだきちんとは起きていないので、頭もまだしっかりしていないし、ぼわーっとニュウトラルで、その中から湧いてくる言葉というものは、自分でもときおり不思議なのです。書き終わって、ああ今日はこんな感じのブログになったなあ、という全く予期しないようなことが書けるときが、一番自分では嬉しく楽しく、それが書きつづけられるもとなのかも、と考えています。

 

さて、昨日のブログで今回の帰省の旅で、長兄夫婦をはじめ、姉夫婦、次兄に大変お世話になったことを書きましたが、故郷に対する私の思いの深さの、根拠は一体奈変にあるのかということを50歳を過ぎるころから、鈍行列車(今回は新幹線でした)につらつらゆられながら、尻が痛くなっても帰郷するのは何故なのかを考えるのですが、ようやくにし言葉にできるような気が今回の旅でしました。

 

それはあまりにも当たり前なことで、言葉にする必要もないのですが、あの故郷の環境の中で(両親、姉兄弟と過ごした、幼年時代の記憶の全て、いまも私の中でしっかり生きている)私の精神の核が出来ているということです。気障な表現をするなら、還暦を迎えてもなお、いまだ止み難く幼いころの自分が過した原風景に抱かれたいという(そこが地球の上で最も心が安らぐという場所)衝動が私の中に、激しく存在するということなのだと思います。

 

両親には会えない今、おそらく姉や兄がいなくなったら、もう故郷にはあまり足が向かわなくなるのではないかという気がします。もちろんそのころには私が先にこの世から、姿を隠しているかもしれないのですが。

 

こんなことを書くと、何やらさみしげな気がしますが、そんなことはないのです。平静にやっとこんな一文が綴れるようになり、兄や姉と、老いたとはいえまるで幼年時代に帰ったかのような時間が過ごせた、帰郷の旅は又一つ、別の次元に私の意識が育ったような感覚さえ、覚えました。

 

このような感覚は、やはり還暦を迎えたからこそ成し得たもので、健康に生きているということの在り難さ、奥深さを知らしめるのです。

 

故郷の、山河(家族)に向かいていうことなし、ただただ、ありがたきかな。という、私も若山牧水のように、故郷の万物に感謝したい心境です。

 

 

かけがえのないわが故郷への還暦の旅


遠見山の夜明けと、祝子川(ほうりかわ)の清流

2012-10-10

万感の思いに包まれた故郷への旅

10月8日の朝、兄と二人で故郷の全景が見渡せる遠見山を散歩する

3泊4日の古里への旅を終え、昨日夕方我が家に帰ってきました。まだ旅の身体の余韻が冷めやらぬ感じです、が、とりあえず眼が覚めたので、何か書いておかなくては、とのおもいです。

 

今回の帰省は、春(この旅も兄弟の絆を深めました)に続き2度目ですが、やはり還暦とは再生の時なのだと痛感しています。気心の合う仲間との3人旅は、男同士おそらくはきっと忘れられない、充実した記念すべき里帰り旅になりました。S氏、M氏の同行は、何かがやはり巡り合わせてくれたのだと、いま思っています。

 

がそのことはまた時間得を見つけて書きますが、今回最も私は感動したのは、還暦を迎えた、いまだ人生あれこれ彷徨する愚弟の、友人を連れての帰省を、兄夫婦と姉夫婦がこれ以上には、望めないほどにあれやこれや細やかに心尽くし、迎えてくれたことでした。

 

特に兄は私の無理なお願いを快く聞き、熊本までわざわざ義理の姉と共に迎えに来てくれ、見送りまで、今回の全行程の旅のドライバーをし、旅の眼目、大崩山(おおくえやま)にも同道してくれました。私とは全く異なる人生を歩み、おたがいには共通の話題が少ないのですが、そんなことは雨散霧消、それぞれの人生の穏やかな黄昏時間が訪れたのです。

 

我が兄姉弟5人は、父の仕事の関係で小学校5年生までは共に過ごしましたが、それ以後は兄弟がばらばらに過さなくてはならない環境を生きてきて、各々皆それぞれの人生を生き、ようやっと仕事からも解放され、それぞれの晩年ライフを健康に過しています。

 

今回ほどに、しみじみとしたある種の感慨に打たれたことはありません。姉のこと、長兄のこと、すぐ上の次男のこと、弟のこと。それぞれの我が兄弟のことは、私が元気なうちに、書ける範囲でこのようなブログであれ、何らかの形で思い出の記憶(記録)として、書いておきたく思うのです。

 

以前、このブログでも触れましたが、戦後我が兄姉弟が生きてきた時間(同世代全ての)は一体全体どのような、時代であったのかを落ち着いて振り返り、現在を確認しながらこれから先の老いてゆく晩年を、可能な限り一年でも長く兄弟と共に過ごしたい、との思いが私の中で、抑えがたく私の中で膨らんでいます。

 

人間とは、限りなく自己中心的に、人生を美化しがちな生き物、であることは承知しながらも、生前父が姉兄弟仲良く、と言っていた言葉が沁みた旅でした。

 

この場を借りて、姉(義兄)、兄(義理の姉)、次兄に感謝し旅の報告とします。

2012-10-06

中年男3人での故郷への旅

旅に持参する本は3冊(その中の一冊)

4月から、夢が原と日高事務所の立ち上げと充実した忙しさを生きていますが、今日から4日間オフをとり、故郷の門川(延岡と日向の間にある、海沿いの小さな町)にかえります。ブログのタイトルになっている、五十鈴川がながれている、平凡な小さなさびれた町ですが、私にとってはかけがえのない、故郷なのです。

 

故郷を後にして42年、若いころはなかなか故郷に帰ることは叶わなかったのですが、岡山に越してからは、年に数回出来るだけ帰るように心がけています。おそらく日本国中の街が、面影が見いだせないほどに変貌しているのではないかと思います。我が町も例外ではありません。

 

がしかし、幸いなことに我が故郷は、寂れて、生家も跡形もないとはいえ、私が泳ぎを覚えた、五十鈴川はいまだその清流をとどめ、小学生のころ今は亡き父に連れて行ってもらった、故郷の山や海の自然は、私の少年時代の記憶のままに、その面影を留めています。

 

だからこそ、歳を重ねる度に私の故郷に対する思いは深まるのです。特に今回は還暦を迎えての里帰り、両親のお墓に日高事務所立ち上げ企画(邦楽番外地の)の報告もきちんとします。

 

さて今回の帰省には、二人の友人が共に旅する、三人旅です。お二人とも岡山にきてから一方ならぬお世話をかけているS氏(岡山のとある郵便局長を定年前に辞められ、今は自由に気ままにいきておられます、山と自然をこよなく愛しています)と表町で50年近く・車すし・を営んでおられるM氏(S氏とは対照的、お酒好きですが、自然が好きなところは、皆共通しています)の二人。

 

ひょんなことから、一緒に往くことになったのですが、中高年男の3人旅、実に楽しみです。歳を重ねてきて何と言っても私が嬉しいのは、気の合う仲間がいて、健康にこうやって、遊べるということの、晩年になった(一仕事終えてから)からこそ味わえるという、ちょっとしたささやかな、お金はなくとも贅沢ができるということの喜び。

 

故郷には、姉と二人の兄貴が近所に住んでいまして、今日は私の無理なお願いを聞いてくれ、長男が熊本駅まで、遠路車で迎えてくれることになっています。熊本から山越えして、ドライブしながら高千穂など数か所立ち寄り、夕方門川に入る予定です。

 

姉と兄の家に、3泊します。兄弟が健康で、愚弟と友人を温かく迎えてくれるということはありがたく、幸福なことです。健康で生きられる今を感謝し、皆で楽しい時間を過してきます、またご報告します。

 

 

 

 

 

2012-10-04

忙しくも、充実した秋の一日


休日なのですが、今日は予定が詰まっています。午前10時からは、レディオビンゴに生出演、遊心塾と11月25日の、邦楽番外地について10分間、お話します。だから早めに福山に出かけ、話す内容を詰めておこうと考えていますから、ブログタイムは、30分です。

 

午後は、玉島は円通寺の近くに住む一人の女性が、私の遊心塾に関心を持ってくださっているので、ひとりではありますが、とりあえず年内3カ月、毎週木曜日の午後、個人レッスンをすることにしまして、今日がその初日なのです。とりあえずテキストは、シェイクスピアの間違いの喜劇を持ってゆくことにしています。

 

それを終えて、夕方5時ごろから、以前ブログで書きました、木下さん御夫婦を訪ねる予定なのです。奥様のMさんは、声を出すことにも関心を持っておられ、遊心塾にも参加したいということなので、遊心塾の出前講座を・きのしたさんち・でも始める予定です。

 

とまあこんな感じで、日高事務所は緩やかに、しかし確実に前に向かって進んでいます。岡山でも日高さんが来てくれるなら参加したいという声が、あがっており何と言うのでしょうか。何事も扉を叩かないことには、可能性の隙間は開かないということでしょう。

 

何よりも、私が呼吸・意気生きていないと、先ずできません。先人達が培ってきた、宝石のような多様なジャンルの日本語(おもに文語体)を自分の身体を使って声を出す、ということの中で、自分自身に気づきながら、いきいきとした精神と体を取り戻すための塾なのです。

 

そのためには、やはり最低6~7人くらいの人が集まれば、かなり楽しい塾ができる、と演劇を学んできた私は確信しています。20代、つくづく演劇を学んできてよかったと痛感しいています。おかげで還暦まで生き延びることができました。

 

時間がきました、今日は写真を入れる時間がありません。ゴメンナサイ。