ページ

2024-01-20

【間違いの喜劇】の音読リーディングに老いゆく体が反応する。大寒の朝に想う。

 なにか打ちたい。メルと散歩に出ると水溜まり、今は落ちていない。予報は雨である。今日は妻もお休みなので、穏やかな一日が過ごせればと思うが、被災地の私のような高齢者や、受験生他の置かれた方々の千差万別の困難は想像を絶する。

2年前の先生との再会が全ての始まり

水が出て、お風呂には入れ、暖がとれ、食べるものがあるということのありがたさは、永久に体験したもののみが関知する他はないほどに、想像を絶する。そのようななか、今朝も能天気に五十鈴川だよりを打てる、打つおのれの生活の在りがたさを噛み締めている。

さて、老人生活を堅持しながら、N氏のフライヤーの素晴らしさ(いたく想像力をかきたてる)に背中を押され、日々肉体労働をしながら、一歩一歩3月に向けて、なにがしかの私なりの実践を送っている。

コロナ禍のこの4年間、何はともあれ日々を、自分なりに有意義に生活を営めてきた、おかげで、きっとこのような素晴らしいフライヤーに巡り会えたのだと、勝手に思っている。幸運は積み重ねた上にしか咲いてはくれない。

どこか諦念感覚を持ちながらも、しぶとく一寸あきらめない絶対矛盾を、未だ微かに持ち合わせている情熱の残り火、のようなものにしがみついて、あちらこちらの数は少ないが熱い友人知人に、お手紙やメール、電話等で私の念いを伝えている。

一月も今日で二十日、大寒であるが、老人の私のハート、体はどこかしら熱い。そのような感覚がないと、とてもではないが、間違いの喜劇の音読リーディングはまず無理である。フライヤーができてから、ほぼ毎日、間違いの喜劇の個人レッスンを続けている。平均すれば毎日ゆっくりゆっくり2時間続けている。(正味一時間半)

間違いの喜劇を音読するのは、2016年以来だから7年ぶりである。小田島雄志訳ではなく、松岡和子訳でのリーディング。微妙に随所に翻訳が異なる。小田島雄志訳で馴染んでいた体に染み込んでいた言葉を洗い落とすように、まずはリーディングしている。今現在の自分の年齢体でのリーディング、これが自分でも新鮮なのに、ちょっと驚いている。

30才で読んでも、65才で読んでも、今読んでもやはりシェイクスピアの言葉は(日本語に翻訳されても)私の体の奥深く、琴線を刺激する。その言葉を面白く感じる想像力、キャッチする感覚があれば、である。

吉備路文学館でのフライヤーのキャッチコピーには、私の思いが籠められている。このような今をいきる一人の老人生活者の思いに反応してくれる、未知の自分を発見したいという勇気を持ったヒトに、私は出会いたい。ただそれだけである。

久しぶりに丁寧にリーディングしてみて、7年前とは明らかに異なる現在の体が言葉に反応する。30才でイジーオンを読んだときには、まったく関知し得なかった感覚が、老人の我が体が喜んでいる感覚を、今私は間違いの喜劇に発見している。最後、家族との再会の場面では、思わず涙腺に込み上げるものがあった。喜怒哀楽快不快、心から開放し伸びやかにリーディングする。あくまでも自然に木の葉が落ちてゆくように、自分の摂理に従うリーディング。

生きている喜びとは、体の赴くまま自分の摂理を生きる喜びの発見だと、今また私は発見しているのだ。喜びの発見、人生の喜びはヒトそれぞれ千差万別である。たまたま私はシェイクスピアの作品の言葉に出会い、救われ続けているだけなのである。幕開きのイジーオンの長い台詞を、諳じる事にまず41年ぶり挑戦している。



0 件のコメント:

コメントを投稿