ページ

2024-01-26

1月21日【文忌】という、故マルセ太郎さんを偲ぶ会に参加して来ました。そして思う。

 熱はないがちょっと体が重く、鼻水が出るので大事をとって、今日は肉体労働はお休みして布団のなかで猫になっていたのだが、新鮮な内に、忘れない内に21日の事を打っておきたい。

マルセ太郎という知るヒトぞ知るボードビリアン、芸人をご存じのかたがおられるだろうか。マルセさんは2001年1月22日、岡山のK病院で逝去された。

マルセさんと再び再会した。

長くなるので、五十鈴川だよりでは、要点のみ簡単に記す。私は40歳で中世夢が原で、企画者として人生再出発をした。18才で宮崎の田舎から上京して40才まで東京で基本的に生活をした。(一年半のロンドン自費留学、富良野での足掛け3年を除いて)

その22年間に体験した、主に演劇、映画や音楽、の感動体験の蓄積をバネに、失われた時間を取り戻すかのように、ガンガン企画をしていた。

中世夢が原という、遊びをせんとや生まれけん、企画者心を無限に刺激する場と空間を与えられた私は、自分でも信じられないくらいの、エネルギーが沸いて動いていた。(気がする)感動の蓄積(インプット)がアウトプットを支えていた。

私が20代の終わり、4年近く在籍していたシェイクスピアシアターという小さな劇団(日本で初めてシェイクスピア全作品の完全上演を成し遂げた)は客席数120席のジャンジャンという渋谷の山の手教会の地下にある小劇場を本拠地にしていた。

綺羅星のようにスゴい多ジャンルのアーティストが日替わり、もしくは数日間で出演する小さな半地下の劇場。今はない。そこで私は雪村いずみさんの歌や、浅川マキさん、中村伸郎、ほかそうそうたる面々のステージに、まさに出会った。

振り返るとジャンジャンで私が体験し学んだことは、いまとなっては、帰り来ぬ青春、宝である。そこでたまたま一度観たのが、マルセ太郎さんという一口では形容できない異色の芸人であった。 

まだ誰もなしたことがない映画をまるごと一人で語る、映画再現芸、スクリーンのない映画館というピン芸を創造されたころであったと思う。私が富良野での修行生活を終え、再び東京ライフを始め、さあいよいよこれから後半の人生をいかに生きて行くべきか、大きな岐路にたたされていた頃であった。

はしょる。当時妻と巡りあったばかりの頃で娘もおらず、よもやまさか岡山に移住し、企画者になるなんて思いもしなかったころである。だが事実は小説より奇なり。企画者となった私は、その後中世夢が原で小栗康平監督の【泥の川】、西大寺の五福座で黒沢明監督の【生きる】を企画することになる。

再びはしょる。一昨年の暮れ、突然マルセさんのお嬢さんからお手紙をいただき、たち消えになりかけていた、マルセさんがお亡くなりになってまもなく、50名の方々が当時書いた文章を、やはり本という形にしたいという熱い思いを、岡山でお嬢さんの梨花さんから直接聞いた。

あれから20年の歳月が流れた、だが梨花さんのなかで片時も離れずマルセ太郎という存在が、ますます大きな存在となって発酵し続けていたのである。本という形にしたいという念いが実り、昨年11月上梓され手元に届いたのである。(まるでマルセさんが奇跡的によみがえったとしか言えないような、閉塞感極まるこの時代に明るい快挙というほかはない)

話は飛ぶ。マルセ太郎さんがお亡くなりになってから、神戸にて【文忌】というマルセ太郎という無比の存在を偲ぶ会を21年の長きにわたって継続してこられたNさんという方がおられる。(まさにマルセ太郎に魅いられた方である)

梨花さんとお会いしてから、その文忌に昨年、今年と二年連続して参加、2回目が21日だったのである。上梓されたばかりの本を10冊買い求め、初めてNさん梨花さん、弁護士の弟Rさん、そして梨花さんのお嬢さんとの語らいに最後まで参加し、楽しい時間をすごし、結果赤穂線の終電で帰ったのだ。

明日、熱がなければ大阪に筑前琵琶を聴きに行く予定なのだが、その帰りに神戸のN氏に夕刻会うべくアポをいれた。会える人には会えるときに会っておきたい。

1 件のコメント:

  1. 日高さん、お手紙ありがとうございました。名古屋の沼野です。先日思い切って出掛けた神戸での文忌、梨花さん、竜介さんをはじめ、いろんな方にお会いすることが出来、行った甲斐がありました。そして日高さんと親しくお話しができ、マルセさんの引きは強いな、と思わざるを得ませんでした。僕より十歳上なのに活発に動かれている日高さんのお話を聞くにつけ、僕も頑張らないと、と突き動かされた次第です。とにかく初めの一歩は人と会って話すこと、これに尽きますね。今後ともよろしくお願いいたします。

    返信削除