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2022-10-31

36回目の結婚記念日の朝に想う、五十鈴川だより。

 10月31日は36回目の結婚記念日である。昨年も打ったかもしれないが、36年前はハロウィンでのお祭り騒ぎなどは全くなかったと記憶する。私などの世代にはまるで異次元のお祭り騒ぎのような感じでただ傍観者的に眺めている。時代は急激にあっという間に移ろう。

お隣の韓国イテイウォン盛り場では、狭い路地に密集した若者たちが犇めきあふれ、身動きがとれなくなり坂道を転げ落ち、日本人二人も含め154人もの命がなくなるという惨事が起きている。痛ましいという言葉が、どこかむなしいほどの、現代という世相をあぶり出しているかのような出来事である。

結婚記念日日だまりの花

地方に住んでいて、すでにほとんど社会的な役割を終えた高齢者の私ではあるから、今の若いかたたちの群れをなした、アノ集団行動には理解が及ばないにもせよ、だからこれ以上触れることは控えたいののだが、なにか不気味な嫌な予感の暗示を、私は感じてしまう。富と人口の一極が大都会に集中し、地方は高齢者率が上がる一方の過疎化のご時世である。

充分に老人であり、ほぼ親の役割を終え、地方にすむ古希の私は思う。あらゆるところにまるで毛細血管のように、経済力始め無数の格差が、この数十年で日本社会の隅々に張り巡らされ、未来に希望の出口が閉ざされているかのような今の時代、若者たちがハロウィンという格好のお祭り騒ぎに一夜熱狂するのは、十分に理解できるような気がしてしまう。もし私が若くて、なんの希望も持てなかったら、きっとあの匿名性の熱狂の渦のなかに身を老いていたかもしれない。

政治経済始め、あらゆる分野に人間力が落ちてしまった今の日本をわたしは感じる。日本社会はこの3年にもなるコロナ渦と、ウクライナでの戦争からの物価高騰続きでで、問題山積閉塞感極まる暮らしを大多数の庶民生活者が、都会人も田舎人も抱え込んで出口が見えない中を必死で生きている、というのが私の見立てである。かくいう私もその一人である。だから唯一のこの体でもって、この浮き世の世知辛さを、いかに生きるかまさに必死で考えるのである。私の場合は、五十鈴川だよりをうちながら。

解決策や、出口は容易くはおそらくは見つけられないだろうが、置かれた状況のなかで、いかに生きて行くのかいかないのかは、非情にも聞こえるかもしれないが、古希までなんとか生き延びてきた私に言えることは、まずはやれることは体が壊れない範囲で、何でもいやがらずやってみることだ。知恵を絞って考え、動いてみること。今の若者たちにエールをおくることはこれらいしか、私にはない。

世の中は甘くない、不可解、不条理、理不尽さに満ちている、のが偽らざる実感認識ではある。だが、太陽はあまねく全人類他生物すべてを平等に照らす。土と水と光があり大きめのプランターがあれば植物は育つ、希望は持とうと思わない限り永遠に持つことは叶わない。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、ということばに何度も救われた私に言えることは、簡単に絶望したりすることは、もったいないということにつきる。

いきなり話は変わるが、私がシェイクスピア作品が好きなのは(すべての作品ではない)多種多様な登場人物の、王様から物乞いまでの台詞のなかに生きてゆく上でのヒント、あるいは勇気をもらえる言葉がかくも豊かにちりばめられているからである。

その気に入った作品の言葉を呪文のように唱えると、気分が上向くのである。我が体は言葉でできていることがよくわかる。気持ちのいい言葉を音に出し、音のシャワーを浴びる。私もかなりお金の弊害が染み付いている、のを否定しない。がお金がすべてではない、のだ。もうこの年齢になると、必要なときに必要なことが賄えればそれで足りるのである。

足りなければ動けるからだがあり、必要とされる限り働き、足りていれば好きなことをし、疲れたらなにもしなければいいのである。お金に頼らなくても楽しみは見つけられる。要は見つけられる体と頭があるか、ないかである。畏敬する作家、佐藤優氏は拝金教といっているが、小さい子供は遊びを見つける天才である。その事をもうみんな忘れてしまったのである。

とりあえず、今日一日やることがあり、今日一日を平穏に生活できれば、ありがたいという他はない。


2022-10-30

昨日藤原新也さんのふるさとで行われている集大成、回顧展に出掛けてきました。そして想う。

 昨日日帰りで、北九州市立美術館別館まで、藤原新也さん(なんどかお目にかかったことがあるので、さんと呼ばせていただく)の50年にも及ぶ、集大成の、形容し難い多岐にわたるお仕事の回顧展に足を運んできた。

私ははそれぞれの人生の季節に、出会えた人や書物から自分でもおもいもよらぬほどの影響を受けてしまうことがある。他の人とは比較しようもないが、ことに私の場合はそのような傾向がある、ということを否定しない。

20代の後半から30代、40代まで折々藤原新也さんの書物、写真集をずいぶん手にしてきた。それらはすべてではないが、私にしては多い。いろんなことを学ばせていただいた。この年になってみるとずいぶん影響を受けたのだということがわかる。折々の人生の転機の決断をするときに、藤原さんの発する言葉や美醜の概念を破壊し創造するこれまで見たこともない写真に圧倒された。裏表、多面的複合的に対象に迫り、見据える強靭な眼差しに、何度もこの人にはかなわない、お見通し、と脱帽した。

藤原さんの発するコトバニ勇気をいただきました

修羅場を潜り抜け、土ぼこりの舞う荒野を一人歩き、おびただしい世界の多様性、世界の国々の多様とでもいうしかない人間の存在の豊かさ、生活の営みの上に築かれた人間の存在感のたしかさを知らしめてくれた写真家である。

若かった私はビックリした。自分も見知らぬ世界の人々をこの目でみたいと思った。だが、当時の自分にはあまりにも力がなかった。だからか細い自分を鍛え、真っ当にいきる勇気を身に付けないと、このまま時代の大きな流れの渦のなかに巻き込まれ、うたかたの泡のような人生を送ることになるのではないかという恐怖心のような気持ちにおそわれた。当時20代の終わりで、これからどのように生きて行けばいいのか途方に暮れていた私は、もし藤原さんの書物に出会わなければ守りに入って安易な人生を送っていたかもしれない、のだ。

それほどに、若かった私は藤原新也さんの特に言葉に触発され影響を受けたのである。そして今つくずく想うことは、影響を受けて良かったということである。31歳で富良野塾に参加しようという勇気がわいてきたのは、明らかに藤原新也さんの時代を深く見据える言葉に、まだ若かった私のからだが鋭く反応したからだと、おもえる。

テレビをあまり見ない私に、藤原さんの番組が日曜美術館であることを友人が知らせてくれた。藤原新也さんの集大成の回顧展が、ふるさとで行われているのを知った。足を運んだのは間接的ではあれ、感謝と、見ておかねば、という強い気持ちが動いたからである。

回顧展の集大成のタイトルは【祈り】である。ひとこと五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい、出掛けてよかったことを。藤原新也さんは勇気ある単独行動表現者である。50年間、この激動人類人間社会の行く末に絶望的危惧を抱きつつも、今も写真を撮り、ことばを発し、書をしたため、絵を描く。

78才、50年間の回顧展、一人屹立し、ただただじっと地球に生息する人間、風景を見つめ写真を撮る。ことばが生まれる。人間と同じように花や蝶もゴミも水滴も、生と死まるごと曇りなく見つめる。人類はどこに向かうのか。

独自、藤原さんタッチ、夢か幻のような写真の多様さ、紛れもなく氏にしか撮れない写真である。詩人的な感性は、自由自在に時代を地球を横断する。権力者の横暴に単独で古希を過ぎても怒る。畏敬するに足る希な表現者である。行動しSNSで発信する。香港の雨傘運動をこのような形で発信した写真家が他にいただろうか。私は知らない。みずみずしくやわらかくあたたかくやさしい。希な普通感覚で世界の不条理を打つ。能力は遠く及ばないが、この精神を少しでも藤原さんから学びたい。この希な表現者と同時代に生きて出会えたことの幸運を、きちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

2022-10-29

古希のこれからは松岡和子先生の翻訳で、ウィリアム・シェイクスピアを音読することに決めました。

 一昨日、日本で初めて女性でw・シェイクスピア全作品を翻訳された松岡和子先生から御著書【すべての季節のシェイクスピア】という本が送られてきた。直筆の一文も添えられて。

20代の終わりの数年間、私は当時渋谷のジャンジャンを拠点に、小田島雄志氏の、当時新しい翻訳で、シェイクスピア全作品の完全上演に挑んでいた劇団シェイクスピアシアターに在籍し、日本ではほとんど未上演の作品8本に、最後の数年参加することができた。(この体験はその後の私の人生をどこかで決定的に支えているように思える)


もう40年も昔のことであるが、その当時の記憶はいまだ生々しく脳裏に刻み付けられている。そのようなことを打ち出したら、長くなるのではしょるが、松岡先生はたぶん当時はまだ大学の先生で、シェイクスピアの翻訳はされておられなかったと思うが、よくシェイクスピアシアターの舞台を観に来られていた。まだみずみずしくお若くキラキラ輝いているお姿を、度々私は見かけていた。

あれから幾年月、歳月は流れ、私は40才で岡山に移住、中世夢が原に職を得て、全くやったこともなかったが、企画者となった。22年間の仕事を終え、子育ても終わり、61才で再びシェイクスピアを声に出して遊ぶ塾を立ち上げ、青春ではなくなったが老春を今一度ってな感じで、奇特な塾生とともにシェイクスピアの豊穣な作品群に挑んでいた。

松岡和子先生が筑摩書房から、文庫版でシェイクスピア全作品を翻訳しているということは知っていた。ある日丸善に足を運んだ。すでにかなりの作品の翻訳がすすみ、翻訳されたご本が並んでいた。私は小田島訳をテキストにしていたので、松岡先生の文庫版は読んでいなかったが、文庫の巻末に作品の日本での上演史が掲載されているのを知って驚いた。

【間違いの喜劇】の配役表のなかに、なんと私の名前が記されていたのである。今ではかなり名前の知られた俳優、吉田鋼太郎氏の名前とともに。面映ゆい気持ちとともに、青春時代の貴重な個人的な記録として、文庫本のなかに一行私の名前が残っていることに、私は嬉しさを禁じ得なかった。妻や娘たちはわたしの熱き20代を知らないからである。

松岡先生の翻訳は脚注が多く、私のような無知な輩は本当に学べる。そして学ぶことが無限に面白いのだ。細やかな女性ならではの配慮が、この小さな文庫本にはぎっしりとつまっている。このような視点での、全作品完訳の偉業をなされたかたと、ほぼ40年ぶり今年の夏8月、下北沢、本多劇場に加藤健一さんの芝居を見に行った際、芝居が終わったロビーで松岡和子先生と再会したのである。(その際のことは五十鈴川だよりに書いている)

私は完全翻訳のお祝いを言葉で伝え、上演史のなかに私の名前があることのお礼も直接伝えた。岡山に戻りいただいた名刺に梨を送った。(シェイクスピアへの無限の情熱的な愛が詰まった文庫本での翻訳の偉業に脱帽する)そしてそのお礼のご本が届いたのである。

60代は小田島訳、70代は松岡和子和子先生の翻訳で、無限にシェイクスピアを学びつつ、枯れつつも小さな声で音読できるかと想うと、燃える秋へと私は誘われる。

2022-10-23

10月23日朝、昨日の書評の一部を貼り付ける。そして想う。

 お休みの日でも、ほとんど起床時間は変わらない。起きて昨日土曜日の書評を読み、そのうち5つをノーとに貼り付けた。たぶんこのようなことを20年くらい続けている。内省時間を、静かに一人で過ごすにはまたとないひとときが持てるからである。そのうえ自分のあまりの無知をおもい知らされるからである。何故このような習慣が身に付いたのかは、きっとおこづかいが限りなく少ない子育て中に、お金不要で、部屋で居ながらにしての知見が広がりが持てるからである、とおもう。

老いつつも生きている精神を、かき回してくれる書評に出会いたいのである。今もどこかで、可能なかぎり有意義に存在したい、感じたいという、いわばあまのじゃく的なおもいの性なのである。


すべからく、やがては貼り付けたことさえ忘却の彼方へと誘われるとはいえ、愉しいことには抗えない、のだ。ことさらな理由はない。掃除しないと気持ちが悪いのににている。書評氏の読んでほしいとの切実なおもいが伝わり、読んで本当に良かったとの私のおもいが合致して、しっかり読みましたよとのおもいが、ノートに貼り付けさせるのだと想う。

どこかで徒労のようなこの行為、時になにをしているのだろうとのおもいも偶さかよぎるが、習慣化、どうにも落ち着かないのは、無知の扉を開くと老いつつある体に、新しい光が差し込んでくるかのような刺激をいただけるからである。(とおもう)

今朝は、小島ゆかり評、松村由利子著【ジャーナリスト 与謝野晶子】 鹿島茂評、矢崎泰久・和田誠著【夢の砦 二人でつくった雑誌、話の特集】川本三郎評、呉濁流著【アジアの孤児】中島京子評、松居直著【私のことば体験】佐藤優評、新美敬子著【世界のまどねこ】を貼り付けた。

特に、【世界のまどねこ】の書評、佐藤優氏の一文には打たれた。氏は腎臓ガンであることを告知されていて、現在週に3日、4時間の人工透析をされている。そのような日々の暮らしの中、ウクライナでの戦争を一日も早く止めさせたいという思いで、情報収集と原稿書きに追われている、とある。そして猫に見習い、日にあたって体調を整えている、と。そして私は、佐藤優氏の一文に、言葉の光を浴び、ノートに貼り付けるのだ。

2022-10-22

桑江良健さんからお葉書をいただきました。そして想う。

 数日前、桑江良健さんからお葉書をいただいた。桑江さんの絵に魅いる子供の写真のポストカードに、今後は風のように存在するとの言葉が記してあった。いたく同感する。やはり一仕事をなし得たものにしかわからない、本人にしか関知し得ない心境のようなものがあるのだと想う。芸術家は絶対的な孤独を生きている。私などの凡ぷには、計り知れないほどの画業時間を生きて、試行錯誤の果てに、氏にしかなし得ない作品群を創造してきた、氏の内的発露の思いの深さを前にして、ただ脱帽してしまう。

ヒトは心が動く生き物である

このような希な人とお近づきになれ、冗談が言い合え、その上お葉書をいただけるなんて、古希男は、ただ嬉しいのである。この喜びは四半世紀のご交誼の時間があればこその、喜びでもある。生まれ落ちた、言わば宿命のようなものから、人は逃れられない。いやでも自分という得たいの知れない、傷つき壊れやすい生命という器を抱え運びながら、人はあらゆるすべを身に付けながら、みすぎよすぎこの世、天国と地獄をいきる。

私が出会った、数少ない芸術家とでも呼ぶしかない一人の画家が、桑江良健さんなのである。絵のことは門外漢の私だが、出会って間もない頃に、氏の絵を一枚求めている。今となってはよくぞ求めたものである。本能で。

企画者と画家との風変わりな交流が、何故にこのような関係性が持続継続しているのか、自分でもよくはわからない。私のような企画者の端くれを、良健さんが面白がってくれていて、ほとんどなんの利害もないのだが、時おり忘れないでこのようにお便りをくださるからではないのかと、手前勝手に思っている。

良健さんは饒舌ではない、どちらかと言えば寡黙である。がしかし、心を許した相手には饒舌になる。私より4才年上の良健さんの話し相手になれるなんとことは誉れである。愚弟としては、一見静かで穏やかに振る舞っている氏の奥底に眠る、決して癒されることがないマグマが画業となり、桑江良健さんの絵となって無意識のうちに産み出される。

年上だが、四半世紀の交誼をふまえ友人と呼ばせていただく。この年まで生きて、初めての画家の友人である。この惑星には80億近い人間が存在しているが、ヒトが生涯に出会い、折々の人生の季節、交流できるのは150人程度と言われている。その中で、四半世紀以上の交誼が持続するのは、家族以外では極めて希な出来事である。ましてやこの70年間の時代の移ろいは、形容し難いほどの目まぐるしい渦中の最中にである。

人の心は、時に残酷なほどに移ろう。それもまた致し方ないとの側に私は立つ。だがしかし、ギリギリのところで、時代の行く末を見つめながら、限りない風圧と戦い根を張りながら生きている、そして作品を産み出し続けている画家の存在は、私に勇気を与える。桑江さんとの邂逅は宿命になりつつある。

(PS 私は古希を記念して桑江さんに絵を一枚発注した。ゆっくりと絵が完成するのを待ちたいと想う)

2022-10-17

企画者として30年(中断もいれて)、家族なくしてはあり得なかった。そして想う。

 来年の春の企画を決めたことで、そこに向けてゆっくりと進みながら、静かに穏やかな生活を、まずは足元の家族の日々の健康を願いながら、心がけたいと想う。今日は思ったよりも雨が激しくはないのだが、肉体労働はお休みにした。

自分では若いつもりでも、なんと言っても古希なのであるから、もうこれからは細心の注意をはらって、無理無謀なことは控えようと決めたのである。(とは言ってもやってしまうのかも)

だが私は老いのブレーキというふうに考え、初めて経験する70代を、家族や友人たちと生きているからこその喜びの時間が持てるように、一日一日を毎日は打てなくとも、五十鈴川だよりをうちながら、考え続けられれば、と思っている。

一度お会いしたかった尊敬する人

さて。家族LINEで来年の企画を決めたことをいの一番に伝えたことはすでに打ったが、いの一番に妻が手伝うといってくれたことが、何よりも嬉しかったことを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

30台半ば妻と廻り合い、娘に恵まれ、私に家族ができ、私の人生は一変した。18歳で世の中に出て、演劇などというまさに無謀きわまりない世界(まさに井の中の蛙でした)に足を踏み入れ、運が良かったというしかないが、なんとか今をいきられているのは、臆面もなく打っておくが妻との出会いのお陰である。そして家族のお陰である。

話は変わるが、コロナの出来からまもなく3年である。この間打ち込んでいたシェイクスピアの音読塾は閉鎖になり、人生で初めての大きな手術があり、次女に最初の子供が授かり、私は二人の孫のお祖父さんになった。そして今年の2月24日には、紛争というにはいうにはあまりにも大きな、人類の分かれめにもなりかねない、ウクライナでロシアによる侵略戦争が始まり、今もおぞましい戦争がやむ気配はいっこうに見えない。

そのような中、私の生活は続いている。私は家族のことはあまり五十鈴川だよりでは打っていないと思う。自分のうちわのことにふれるのは、妻も私もきが進まないからである。だが誤解されてもいいから打ちたいのは、他の企画者のことは存じ得ないが、私の場合、どこか家族が慎ましく穏やかに生活がなし得ていないと、企画ができないのである。

もっと打てば、具体的な応援ではなくても、精神的な応援がないとできないのである。身内に心配事があれば、きっと私のような輩は企画はできないのではないかと思われる。だから、私がつくづくありがたいのは、私のやることを理解するには遠くても、そこはかとなく家族の応援があればこそ、私はエネルギーが湧いて来るのである。

私は思想信条もあやふやな輩であることを、どこか心の片隅で、コンプレックストラウマとでもいうしかないほどに、認識している。だがその事をいい方向に考えることで、凡ぷなりになにがしかの企画が生まれてきたし、でくの坊世界、老いの可能性を見つけたいのである。やがて企画はできなくなり、必ずヒトは、私は死ぬ。

だが今は生きている。そして一人ではない、家族や仲間が応援してくれる。それが今のところの私の絶対的価値であり、宝である。最低のお金は必要だが、十分ではない。ギリギリのところでこそ命は輝く。

企画者の私を鼓舞するアーティストとの出会い。黒子に徹し水面下で支えるスタッフ。そしてどこからともなくやって来て客席を埋める当日の聴衆。まさに一期一会のイベント。40才で初めて企画をして以来、中断含め30年企画を続けているが、家族がいたからこそ、応援してくれたからこそ、企画が今もなし得ているのだ。ただ、感謝である。

2022-10-15

金井喜久子著【愛のトウバルマー】ある歌姫の物語、読みました。そして想う。

 沖縄から戻って、頭の中にこの旅で受けた刺激を整理できないまま、肉体労働仕事をしながら、五十鈴川だよりを打つことが叶わず、今日ようやく打っている。

来年春の4月23日、RSKの能楽堂ホールを押さえたので、多嘉良カナさんを企画することにした。まだカナさんにはお伝えしていないのだが、私の中の腹は決まった。その事は一番先に、家族に伝えた。家族に一番先に伝えたのは、春の私の10年ぶりの企画が実現できたのは、全面的な家族のバックアップがあったからである。

さて、詳しくは記す時間がないのだが、那覇を発つ日に、長年のカナさんの理解者であるT氏から一冊の本を手渡された。タイトルは【愛のトウバルマー】ある歌姫の物語である。カナさんのお師匠さん、初代可菜(カナ)さんのノンフィクション小説である。

数奇な宿命を生きた家族の物語

まったくカナさんのことを、存じなかった、無知な私である。仕事の前、新鮮な頭で5日かけてゆっくりと読み終えた。書いたのは可菜さんの妹の金井喜久子さんである。昭和59年に上梓されている。(私は32才、富良野の大地で悪戦苦闘していた)

川平家という宮古島の旧家に生まれ、激動の時代、太平洋戦争、沖縄戦を生き延びるまでの可菜さんの壮絶な人生が、綴られている。姉に対するおもい、琉球に生まれたおもい、比類ないふるさとへのおもいが、愛あふるる一念が、こもっている希な書物である。

読み終えたばかりなのだが、川平家の一代記というにとどまらず、音楽、歌というものに人生を賭した姉妹の物語である。羨ましいくらいの愛に満ちた姉に対する妹のおもいに打たれる。姉は沖縄の歌、妹は西洋音楽を学びながら、沖縄の旋律を取り入れながら、沖縄の現代音楽を創作してゆく。

今日はこれ以上触れないが、沖縄戦を生き延び、戦後可菜さんは養女を迎え、結果的に2代目となる、カナさんに歌と踊り一切を伝える。この事には触れられていない。来年私はこの初代可菜のお弟子であるカナさんを企画できるという、身に余る運命の糸を引いたのである。

愛のトウバルマー、沖縄戦の最後の姉が妹に語り伝えた、一文の悲惨さは、筆舌に尽くしがたい。ほんのページが残りすくなるにつれて、老いた私の体は想像力が刺激され、おもいはウクライナやアフガニスタン、他の戦争被災地で今も続く理不尽不毛不条理エリアに誘われた。

ありがたいことに、私はもう血気逸るほどには若くはない。若くはないことを、なんとかいい方向に向きを変えて考え、若いかたとはまた異なる。老いたからこそゆっくりと企画ができる世界もあることを、実証したい誘惑を押さえられないのである。

今朝はただ、来年の春へ向けて、暫し老いという言葉を振り払い、カナさんの歌と踊りをRSKの能楽堂でご披露したいおもいである。よき聴衆に来ていただきたく、微力をつくすもりである。


2022-10-09

岡山に帰る日の朝、ホテルにて五十鈴川だよりを打つ。

 充実した那覇滞在3日間が瞬く間にすぎ、岡山に帰る日の朝を迎えた。一昨日の夜は桑江さんご夫妻のよき理解者の方たちとのひとときの宴に招かれ、骨のある方たちとの楽しく、また未知の方たちとの語らいで、言葉にならない多くの刺激をいただいた。

そして昨日の夜は、桑江純子さんが私のために、純子さんイチ押しの芸能者、琉球舞踏家であられる、多嘉良カナさんの踊りと歌と演奏を生で眼と鼻の先で直接聴く機会を設けてくださった。演奏後思いもかけぬ語り合える会席の飲食時間をもうけていただき、わずかではあるが、私も久方ぶりに連日アルコールを体に入れ、饒舌に拍車がかかった。カナさんの人生、芸に対する念いの深さ、自信に圧倒された。

佐藤優氏の旅のお供に欠かせない

この連夜の、濃厚濃密な時間のあれやこれやを、しっかりと書き連ねるのは不可能である。が、日録的にわずかであれ五十鈴川だよりに打っておきたい。特に昨夜の多嘉良カナさんの踊りと、三線を手に全身で歌われた一夜の贅沢というしかない時間は、企画者の端くれにとって、深く脳裏に刻まれたことを、打たずに入られない。

今日はなんの予定もなく、チェックアウトまでの時間があるので、ゆっくりと我が家ではなく、那覇のホテルで朝の日差しを浴びながら五十鈴川だよりを打っている。まもなくコロナ渦中生活は3年になる。いよいよ人の移動も本格的になってきた。ウイズコロナの時代へとシフトしてゆく。そのような最中での今回の桑江良健さんの個展に合わせての那覇への旅は、今年古希を迎えた私にとっての、ささやかではあるにもせよ、大きな言葉にならない意味を与えてくれたように、思える。

今年の2月24日、ウクライナでの大規模な思いもよらぬ侵略戦争の勃発は私の企画者としての老いた血をたぎらせ、10年ぶりに多くの知人友人家族のお陰で企画ができた。そして戦争は未だ止まず、世界各地でのおぞましい戦争は続いている。いったい何故なのか。でくの坊のなりに、蟻のように考える。このまま時代の推移に傍観者的に何も企画しないのは、忸怩たる思いが押さえられない。思想信条もまったくない初老凡ぷの私だが、人と人が殺戮しあう狂気の戦争はどのような大義があれ、ノーの声をあげ続けねば、とおもう。

今もどこかで無念の思いを抱えている、むこの言葉を持たないあまたの民衆、分けても子供たちのことを想像する。やりきれない。ハムレットは、このままでいいのかいけないのかと問いつづけ、あとは沈黙といい死ぬ。桑江さん御夫妻をはじめとする沖縄のかた達の、無念極まる不条理、理不尽さの永遠に癒されない痛みの一端に、四半世紀のお付き合いだが、初めて耳にした。その事は桑江御夫妻の友人として、企画者として私に何ができるのかを、日本人の一人として考えさせずにはおかない。

私の現在のか細い知力、体力、能力で何が企画できるのかと、その重さが私にのしかかる。のしかかるのだが、そのことに躊躇っている時間はないというのが、正直な今の私の思いである。身のほど知らずであれ、これまでも全身で体当たりしながら企画をなし得たのだから、要は冷静に、高齢者の心意気企画を打ちたいとの思いが、今深まる。

2022-10-07

沖縄の那覇の個展会場で桑江良健さん、純子さんと再会しました。そして想う。

 昨日午前10時15分、沖縄についてモノレールで安里(あさと)へ。娘たちがまだ小さいときに訪れて以来の沖縄。ホテルに荷物を預け、すぐにパレットという県庁前にある大きなデパートの6階で開かれている、桑江良健さんの個展会場に向かった。こじんまりとしたスペースの会場に、氏独特というしかない作品群が掲げられていた。

多分良健さんと会うのは、我が家での葉書サイズの展示会以来である。パートナーの純子さん共々、相応に歳を重ねておられてはいたが、絵はもとより門外漢の遠来の珍客を、まったくおかわりなく笑顔で迎えてくださった。暫し作品群に視いる。独特というしかない、形、色彩、無限に創造的にキャンバスを埋め尽くす、沖縄の人々、家族、風景、裸婦、家、植物。樹木等々が。

ともあれ、このような唯一無二の作品を産み出す、桑江良健さんという画家と、ひょんな縁で出会って以来、縁が切れずにこのような形で、時おり再会が持続しているのが何故なのかは、自分でもよくわからない。だが、はっきりと五十鈴川だよりに打っておきたいのは、途方なまでに、頑固一途な画業時間を費やしてきた生まれてきた作品群を眼前にして、私は言葉を失うのである。

言葉を凌駕してあまりある作品を前にして、ただ私は脱帽し頭を垂れ感動し、打たれてしまうのである。まさに絵を描くために生まれてきた男というしかない。何故そのような男が沖縄の歴史、風土から生まれてきたのか。そのことの一端をほんのわずかでも知りたく、私は今回の個展に足を運んだのかも知れない。

私も古希を迎え、以前の稚拙な私ではなく、幾ばくかは歳を重ね、氏の画業に対する常軌を逸したかのような打ち込みの、佐藤優氏の言葉を借りれば、内在的論理が幾ばくかは感じ取れるようになってきたからではないかと、考えている。けっして手前みそで言っているのではない。そういう思いがあるからこそ、多分、氏の発する寡黙な向こう側の息づかい、業の深さ、思いの深さ、もっと言えば生半可ではない絶望の深さを、私は感じてしまうのである。

だが、絶望という言葉を、言葉尻でとらえたら浅い理解で終わってしまう危惧を私は覚える。私が良健さんにいたく魅いられるのは、その余人には理解不可能な絶望と真反対の人間に対する希望、未来への兆しのようなものを、あの物言いに感じるからである。

個展会場です。

私にとって沖縄は、桑江御夫妻をおいて、他にはいない。二人で一対の人間なのである。桑江良健さんの絵は、至らない私を沖縄から照らす。お会いする度に、今をきちんと生きていますかと、問われているような気がするのである。あの一見おおホラ吹きと自分では謙遜しているが、絵に込めた業の純粋さ深さは、門外漢の私でさえ、比類ない画家の存在力でもって圧倒されるのだ。氏の老いつつも枯れない絵に込めたオーラを浴びて、私もささやかに、何かを企画したくなる、のだ。(PS 夜御夫妻に沖縄の夕飯をご馳走していただきました。お昼は友人差し入れのお弁当をいただきました。完食しました。)


2022-10-06

沖縄に桑江御夫妻に会いに出掛ける日の朝の五十鈴川だより。

 起きたばかりで、あまり時間がないのだが、日録ふうに少し打ちたい。これから沖縄に出掛ける。8時15分発なので6時には家を出る。沖縄の友人ご夫婦、桑江夫妻のご主人の絵の個展が開かれるのに合わせ、本当に久しぶりに会いにゆくのである。

今まで、沖縄に出掛けるのはどこか内心忸怩たるものが自分の中にあり、そのことに関して打つのは容易ではない。だがようやく、その忸怩たる思いがなくなってはいないのだが、少しは以前よりは減ってきている。がその事に関しても打つのは、容易ではない。

理屈はともかく、ヒトがヒトに会いにゆくだけなのである。今、元気なうちに会って、いろんなお話をしたい人なのである。この年齢になると心から会いたいという人はそうはいない。なにはなくとも特に語り会いたいという人はそうはいない。だから嬉しいのである。

沖縄にかじまや、在りです。

たった二人の、だがとびきりの私の沖縄の友人に会えるかと想うと、嬉しいのだ。沖縄にゆくのはいったいいつ以来か。もうずいぶん行ってないのは事実である。コロナ以前も沖縄には行っていないので、いずれにせよ、ずいぶん出掛けていない。だから繰り返すが嬉しいのである。古希を迎えた高齢者ではあるが、どこかまだうきうきする自分がいるので、今回の沖縄への3拍4日の旅が嬉しいのである。ついこないだの故郷帰省旅を終えたばかりなのではあるが、続いて沖縄への旅ができるのは、ありがたいというしかない。

普段は静かな生活が続くだけなのであるが、時おり非日常生活が偶然連続して続いたりするのもまた、老いゆくなかでの楽しみのひとつとして、自由自在に流れてゆきたいという思いが強くなっている。いずれにせよ、もうこの年齢になると、すべてはお導きに身を委ねるしかない、というような心境なのである。

計算したようには、人生はまったくと言っていいほど進まない。生活しながらとぼとぼ歩いていると、これは私の場合だが思わぬことが起こるのである。だから桑江御夫妻似合うのが楽しみなのである。分けても、ご主人の良健さんと男同忌憚のない話ができるのは、無上の喜びである。

沖縄が宿命的に抱え込まざるを得ない途方にくれるあらゆる問題にたいして、絵筆一筋、人形劇一筋、これほど真摯に生きておられる御夫婦に、何故か出逢えたこの巡り合わせを、私は今回の旅で、しっかりと受け止め耳を傾けてきたいと考えている。耳をそばだて、企画が生まれてくる可能性を自分の中に期待したいのである。私には企画することしかできないからである。

2022-10-05

一般道を往復運転し、先週末ふるさとに帰省古希の旅をしてきました。そして想う。

10月に入って最初の五十鈴川だよりである。先週金曜日早朝から、車でふるさとに向けて運転し、日曜日午後9時過ぎに無事に帰ってきた。月曜、火曜と働いたので、落ち着いて五十鈴川だよりを打つことができなかったのである。

実は心のなかで、3日間でふるさと往復1200キロを運転するのは、少し不安であったし、妻にはちょっと、秋なので遠出すると伝え、ふるさとに帰るとは言えず、そっと家を出たのである。前日オイルを交換、タイヤやその他のチェックも済ませ、準備はしていた。(非常食、飲み物他)

私はこの数年、ほとんど高速道路を走らなくなった。自分の判断力、反射神経の衰えを感じているからである。万が一事故になったら、まず大変だからである。命は買えないのだ。したがって、ゆっくりと自分では安全だと思える普通の速度で一般道を走る。一般道路であれば、休息さえきちんととって安全運転を心かければ、事故に遭う確率は、普段の暮らしの中での運転と大差ないと考える。死ぬ確率は高速道路よりずっと低い。

信号待ち他、都市部を抜けるのは時間がかかる。だから私は呟く。リア王の台詞のように、神よ老人の私に忍耐を与えたまへ、と。音楽を聴きながら妄想老人は走る。車はコロナパンデミックが始まった頃、買い換えて普通車にした。シートを倒せば車内で横になって仮眠ができるようになっている。
小泉八雲記念館で求めました



広島まで走り、宮島のコンビニでゆっくりと休んでいたら、急にやはりお墓参りに帰りたくなった。兄に電話をしたら驚いていたが、嬉しそうな声で、とにかく安全運転で無理をするなと、当たり前なお返事。それから二時間に一度くらいの休憩をコンビニでとりながら、お昼過ぎ関門海峡を越え昼食、長めの休憩本を読んで昼寝、目覚めコーヒータイムをして、別府大分と走った。

日が暮れ、夜の運転は、このところほとんどしたことがないので、余計に慎重に運転し、大分で夕食を済ませ、再び少し横になって、両親がなくなって以後のこの20年、よく運転した大分から延岡に抜けるよく知っている、通行量の少ない道を走って午後10時無事に兄の家に着いた。

西大寺を出たのが朝の5時過ぎ。日にちが変わる前にたどり着いた。翌朝となりの姉の家を訪ねると、姉はビックリしていたが、愚弟の里帰りを喜んでくれた。義理の姉の美味しい朝御飯をいただき、すぐに姉と共にお墓参りにいった。お墓参りに帰ったのだから、もう目的は達した。

その日は終日兄の家で体を休め、姉と義理の姉が作ってくれる美味しい家庭料理の昼食を堪能し、兄たち姉たちと語らい会う時間を持ち、急な帰省の喜びに浸ることができた。午後、義理の姉が作ってくれた鯵のお寿司や、姉がくれたお土産を積み岡山に帰る準備を済ませ、兄夫婦と外食の夕飯を済ませ早めに寝た。日付が変わった真夜中地震で目が覚めた。兄も起きていたので、お礼を伝え予定より早く岡山に向かって故郷をあとにした。

関門海峡を抜けるまで、日曜日だったので車が少なく、途中何回かお休みしながら、コンビニで熱いコーヒーを飲みスムースに運転することができた。西日本に入ったら安堵l感におそわれ、下関で数時間仮眠した。

下関からは191号線で萩をぬけ、なんとも美しい入り江の日本海の海を眺めながら、9号線を走り、浜田の道の駅で日本海を眺めながら昼食休憩し、午後3時に島根、松江に入り、以前からゆきたかった小泉八雲記念館を訪ねた。ゆっくりと2時間近くをすごし、松江から新見へと抜け、岡山に入り高梁から総社を走り午後9時過ぎ、無事に帰ってきた。すぐに兄にメールを打った。

頭はまだ冴えていたが、一気に疲れが出てお風呂に入ってすぐに横になった。ちょっと時間的にはハードな古希の帰省旅となったが、兄や姉、義理の兄姉とも年を重ねたもの同士の、まさに一期一会の時間を過ごせたことが、ありがたかった。なにはなくとも、お互い元気で今をいきられていることを確認し、会えただけでも、私としてはいうに言えない満足旅となった事を、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたい。

老いてゆくなかでの、オーバーかもしれないが、私にとってささやかな冒険帰省旅であったのだ。コロナ渦中、古希を無事に迎えられたことに対する、自己満足帰省旅がしたかったのである。今現在の体力やあらゆる事を総合的に勘案しながらの老いゆくドライブ旅は、これからの70代をいかに生きてゆくのか、そのための出発点の旅となったように思える。

私だって無謀なことはしたくない。家族に心配をかけたくはない。やがては新幹線での墓参りになるのは承知しているが、今はまだ運転できるし、何よりも自由自在時間が、自分の判断で可能なのだから、やれるときにやっておかねばとのわがままが、言わば私の贅沢なのである。お金では変えない喜びを、我が体はこれまでの人生で体得したのである。自虐的ではまったくなく、今回の旅で今後の生き方の方向性がくっきりと見えてきたように思える。