ページ

2022-02-28

【イテイウォンクラス】というドラマを妻と見ました、そして想う。

 今日は妻との、もう回数は打たないがウォーキングの日である。妻とのウォーキングはすべて妻の歩きたいところを歩くことにしているので、どこに出掛けるのかは未定だが、どういうわけかはわからないが、妻と歩けるのであれば、どこでもいいのである。

まったく妻とのウォーキングがこんなにもすんなりと自然に始まり、とにもかくにも、お互いがお休みの日に持続していることが、私としてはとても嬉しい。

おのろけになるが古希を過ぎたからもういいのである。限りなく老い楽の遊び心を夫婦で見つけられたらサイコーである。理由はない。二人で意味もない他愛もない韓流のドラマなどの話などしながら歩いていると、子供心感覚とでも言うしかないような気分に帰れるのである。不思議である。

子供の時に、少額6年生くらいまで、あれほど夢中になって読んだ漫画を読んだときのように、ではまるでないのだが、最近絵空事漫画チック韓流ドラマを次女の推薦でイテイウォン(漢字がでないが私はこの街を歩いたことがある)クラスというドラマを寝る前に一話ずつ二人で見終えた。

古希過ぎて・薪割り励む・庭仕事

意外や意外古希を迎えた老人であるわたしが、子供に帰ったかのように、漫画にはまるかのように、次回が楽しみなほどに見たのである。

その理由を少しだけかくと、愛の不時着もそうだが奇想天外とでも言うしかない嘘のダイナミズムに満ちている、その事に大衆の夢の無意識願望がつかの間の夢の淡いを見させてくれるのである。

ドラマであるとわかっていながらも、主人公たちのあり得ないドラマの展開進行、これでもかのフィクションの画面の絵図らの鮮やかさ、女性が(男性も)当然はまるファッションとメイク、若者たちが群れ集うファッショナブルな居酒屋が舞台。SNS、まさにスマートフォンドラマである。

だが、ドラマの内容は今も変わらぬ、韓国らしいとでも言うしかないほどに古くさい。中卒で前科ものの若者が主人公。居酒屋、自分の店を繁盛させてのしあがる野望に燃える。その主人公の回りに社会のなかで疎外された個性的な面々が集まる。トランスジェンダー、黒人と韓国人とのハーフ、もとやくざ。そして決定的なデジタル時代の申し子のような一話では未成年の、人生を虚無としか感じられないイソ。(私はこの女優さんに魅せられた、美人ではないが美しい)

五十鈴川だよりではこれ以上詳しくは触れないが、関心のある方はどうぞ、このドラマには絵空事のなかに、今現在の多様性というダイバーシティの問題が、水面下で静かにちょっとずつ顔を出す。絵空事なのだが細部にキラリキラリと、人間にとっての揺るがない大事なことが、まさに絵空事だからこそ、描かれているのだ。

主人公たちが追い込まれ逃げるシーンがある。若者たちは都市の路地をひたすら走る。つぎつぎに降りかかる困難、スーパーヒーローに女神は舞い降りる。あり得ない、だが多くの集合的無意識大衆願望をこのドラマは満たすのである。

そして、決定的なのは古典的なあり得ない男女の恋愛の行方の引っ張り方の、常套的な絵図ら、構図、これでもかと韓流の情を刺激する音楽。つかの間の夢を満たしてくれるエンタメ満載ドラマである。それにしても、演技力のある俳優がなぜこうも韓国に現れるのか。

このドラマは今現在の時代の空気を的確にキャッチ、ヒットする条件をほとんど満たしていると私には思えたし、古希を過ぎた男にも泣けたシーンが多々あった。騙される快感である。何よりもいいのは、主人公たちがいびつで社会的な弱者であるのにも関わらず、輝いていて美しいのである。大きな男が丸め込むように、小さな女性を抱き締める。

男は人生ではじめて、心から女性を抱き締めながら、小さな外見的には従来の美女には遠い、しかし内面的には限りなくまっとうとでも言うしかない、美しさに気づき目覚め、逆に抱き締められるのである。

これ以上は、野暮だから打たない。タンダム(店の名前)にに集った青春ドラマに、古希を過ぎた私は、限りなく自分の過ぎ去りし時に恥ずかしい青春時代を何度も思い出した。


2022-02-27

術後一年後、そこはかとなく春を間近に感じる朝に想う。

 ウクライナのことは打てないが、どこか心の内に留め置きながら、五十鈴川だよりを今朝も打ちたい。

ちょうど一年前の2月の末の一週間は原因不明の高熱が続き、すでにコロナ下医者にゆくのがギリギリとなり、近所の町医者にかかってもらちが開かず、結果その町医者に紹介状を書いてもらい西大寺では大きい病院に駆け込み診断してもらうと、肝膿瘍。敗血症を併発していて即入院手術となった。

あの入院までの、ほぼ一週間の経験したことのない夜になると上がる熱の辛さは言葉では言い表せない。退院した日ははっきりと覚えているが、入院した日にちは記憶にない。

くどくど綴るのはよすが、それから一週間の間に3回も手術することになろうとは、まったく予期しない出来事であった。あれから一年の時が流れ、岡山まで歩いて行けるほどに、体力気力が充実して生活できていることが、どこかしらまぶしく感じられるほどである。

昨年3月は、五十鈴川だよりを打っていないと記憶する。生まれてはじめて集中治療室を経験し、体の3ヶ所から管で点滴を受けながら薬、栄養などをとり生き延びることができた。とくに二回目の全身麻酔のあとがしんどかったと記憶する。(管をぶら下げながら、病院の廊下を歩いて、リハビリをM先生の言葉にしたがって始めた。たぶんそれがウォーキングに結実している)

生板の上の鯉という言葉があるが、覚悟を決めるしかない。腹をくくってM先生にお願いし委ねた。良き先生のお陰でこの世にふたたび生還することができた。あれから一年が瞬く間にたとうとしているが、無事に古希を迎えることができたことの喜びは例えようもない。まかり間違っていたらもう自分はこの世には存在していなかったかもしれいのだ。

そのようなことにおもいをいたすとき、退院をしてからのこの一年は、自分でもこれまでの人生ではじめて経験するストイックで静かな生活を送っている。もちろんコロナ渦中であるからとも言えるが、その事を差し引いてもである。

謙虚にこの方の言葉に耳を傾ける

なんといってもお酒を口にしなくなったがために、生活が限りなくシンプルまっとうでどこか、隠者とまではいわないが、俗物丸出しであった自分が、どこかに消えたのではないかと思えるほどに。

ある意味では現世的には面白味のない初老男になってしまっているのではないかとの思いもあるが、これは致し方ないと想っている。

経験してみてはじめて見えてくる世界というものが確かにあると私はおもう。術後私のなかには、以前とは異なる自分が確かに存在するようになってきたというか、あらわれて来たように思えるのである。

なにかしら大切な存在への優先順位、気付きが変わってしまったのである。古希も過ぎたし臆面もなく打つが、妻とのこれからの時間を大切にいきることに決めたのである。そのためには、現在情熱を持続していることが(妻はまったくそのようなことは望んでいないが)できなくなっても構わない、というくらいどこか私のなかでの変異というしかないほどの経験、出来事であったのだと、おもっている。

何はともあれ、今こうやって五十鈴川だよりを打てるだけで、歩けるだけで、働けるだけで、音読できるだけで、本が読めるだけで、空を眺めるだけで、美味しくご飯がいただけるだけで、孫の成長を拝めるだけで、もう十分にありがたいのである。こと更なことはもうこれ以上必要以上に望まないといえるほどに。

後は縁のあった方々からとの、手の届く範囲での企画や、音読他の今やりたい心に浮かぶよしなしごとに、うつつをついやし、ふたたびいただいた命を大切な家族や親族、仲間とともにすごし歩みたい(とおもう)。

2022-02-26

【ただ歩く・無意味に歩く・冬の朝】2月26日義父の命日の朝に想う。

今日から3連休、肉体労働バイトは今月は昨日で終わった。

今日は義父の命日である。10回目のウォーキング、なぜか足はふたたび岡山駅まで向かった。今回は音読も、途中寄り道もなし、ただただ地面を踏みしめ、なるたけ深呼吸しながら、できるだけおなじリズムで歩いた。

途中スマホで写真を撮ったのと、ドリンクを飲んだ以外は、ひたすら駅を目指して歩いた。

家を出たのがまだ薄暗い朝の6時20分、岡山駅についたのが8時50分。なんと2時間半でついた。前回は、相当寄り道をしたのである。今回は普通に今現在の体力測定のような気持ちで、ただ歩いたのだが、思ったよりも楽に歩けたのには自分でも驚いた。

前回歩いた日は、やはり相当な疲労感がからだにあったし、それなりに筋肉痛ににもなった。が、今回はほとんど疲れがなく、余力を残してのゴールだった。結果想像以上に楽しい前回とはまた違ったウォーキングができたことを五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

今朝の夜明け

古希を迎えて、こつぜんと始めた、私なりの事始め行脚だが、わずか10回程度ではなんとも言えないが、新たな世界が見つかったというと大袈裟だが、なにか内なる目に見えない世界の深まりのようなものを感じ始めている。

競争相手なんていないし、ただただ自分自身を慈愛するかのように、古希を迎えることができた感謝を己の体に込めながら、これまでお世話になった方々への慰霊におもいを馳せ、ただただ歩ける内に歩こうという気持ちの深まりが確認できたことを、打っておきたい。

晴れ晴れという言葉がある。天晴れという言葉がある。清々しいという言葉がある。気持ちのいいことは続けられる。やはり10回目でかなり体がウォーキングに慣れてきたからなのだとだとも思えるし、何よりも今現在これだけの距離をこれだけの時間で歩ける体力が備わっていることへの在りがたき気づきは、やはり形容しがたく嬉しい。

あすはゆっくりと体を休めほかのことに集中し、あさっては妻との6回目のウォーキング。手の届く範囲で、面白おかしきことを見つけながら、夫婦での時間を大切に、まさに歩む。

岡山駅について赤穂線を待ちながら、コンビニで求めた熱いコーヒーがなんとも言えず美味しかった。わずかなごほうびであるが、きっと昔のヒトは慎ましくも裕にいきる術を心得ていたのに違いない。

赤穂線に乗りスマホを開いたら、次女から7ヶ月の孫の裸のダンスの動画が送られてきていた。無性に命のいとおしさが込み上げてきた。


2022-02-23

【古希過ぎて・平凡に咲く・在りがたさ)を噛み締める、2月23日天皇誕生日の朝に想う。

 天皇誕生日の朝である。我がなき父はわたしが小さな頃、日の丸の旗を家先に掲げていた。小学生の頃まではと記憶している。中学生の頃から時代の推移と共に、父は日の丸の旗を掲げるのをやめてしまった。次第に近所でも旗を掲げていたりする家は徐々にみかけなくなってしまった。かくも人心は移ろう。

あれから半世紀以上の歳月がながれ、いまでは、おそらく私の家の近所でもカカゲテイル家は無いのはないかというきがする。何とはなしに。家先に日の丸の旗をかかげるのが、カッコ悪いというような空気感が世の中をおおうようになってきて、父親もやがて時代の推移に抵抗しきれなくなっていったのだろう。

さて、移り変わる心といったものはいったい全体体のどこにあるのであろうか。日本的な心とは。(今私はちびりちびり岡潔先生のご本を詠んでいる)

それがなぜなのかを打ち出したら長くなるので打たないが、古希を越えた私には、矢鱈小さい頃の懐かしい記憶が浮かぶのは、やはり老いの心のなせるなにかなのかもしれない。

ところで、我がふるさとが生んだ歌人、若山牧水は、[今日もまた・心の鐘を打ちならし打ちならしつつ・あくがれてゆく]という歌を詠んでいる。私の生家あとから20キロくらいのところに生家が今も残っていて、家ノ前にはきれいな川が流れている。

コロナ以前の夏、川の対岸にある牧水記念館を訪ねたさいに泳いだことがあるのだが、五十鈴川よりももっと小さい川で、小さな子供が泳ぎを覚えるには最高の川なので、いつの日にか孫たちをつれてゆきたいと、打っておきたい。

ところでいつものように話はこつぜんと変わる。遠い島国で平和に慣れきった初老男には、ウクライナほか、アラユルいまこの瞬間に起きている世界の出来事の、皮膚感覚で遠い不可解さには、なすすべくなくどこかに微かに忸怩たるおもいがする。どこか仕方なくもやるせない。

寒空に咲くけなげなボケの花


日本で報道されている一部の良心あるメディアの中の、良心あるジャーナリストの声をキャッチする努力を怠ると、老人はますます老人化の一途をたどるのだと想う。不可解であれ民族のあまりにもいりくんだ歴史を知らないと、安易に自国の国益優先報道に染まってしまう。危ない。

よくはわからない複雑怪奇な現代の紛争には、凡ぷなどの頭では、簡単にことの善悪などはおよばない。だから黙しているほかはないのだが、関心のバネはどこかに持っていないと、まずいという感覚はいまだある。

いつも想うのだが、どこかに対岸の火事ではないのだという感覚を持っていないと、まずいと想う。万が一事が勃発したら、世界は繋がっているのだから、ガソリンの値上げ等ではすまない事態が、我々庶民生活者にも必ず及ぶ。

今や我々の生活は電気やガスや石油なくしてはたちゆかない。複雑怪奇という他はないほどに、こんがらかった経済テクノロジー資本お金主義が毛細血管のように全世界をおおっているのだから。

超高速デジタルサイバー攻撃、ドローン兵器、特殊生物化学兵器消費紛争(になっては大変である)。冬季オリンピックは終わったが、この間五十鈴川だよりはまったく触れていない。もうまったく個人的に関心がわかない、のである。

なぜか、長くなるのではしょるが、【老いてみて・平凡に咲く・在りがたさ】とでも言うしかない感覚、すべての命が尊いのである。

2022-02-20

5回目の妻とのウォーキングの翌朝の朝に想う。

 よく休んだ体で、なるべく新鮮な心持ちで、可能な限り邪心なく流れて行く五十鈴川だよりを、10年目いよいよ自念に綴り往きたいと、想う朝である。

おそらく一年前手術をしてから五十鈴川だよりは、かなりの変化が見られるのではないかと、打っている本人は思っている。

あえて言葉を選んで打つが、心の微妙な変化というものは、いったいなぜいかようにして生じてくるのかは、皆目自分でも判然としないのが不思議である。あれほど打ち込んでいたことに、まるで興味が湧かなくなったりする不思議は、例えは悪いが恋愛が冷めてゆくかのようにもおもえる。

もっと打てば、自分でもようとはわからないの言うのが、正直な気持ちである。だがこのようなわがままに、わからないままになにか、体の奥深いところでの声のような、虫の知らせのような、いわばお導きのようなお告げ感覚があるからこそ、なにかを手放し未知の世界にいざなわれてゆく、としか今は言いようがない。

岡潔先生の言われる、日本人の心といったものがなへんにあるのかは、私ごときはまったく考えたこともなかったので、これから先の時間のなかで許せる限り、凡ぷの頭で考えてゆきたい。なぜ五十鈴川だよりを打ちたいのか、なぜふるさとが呼ぶのか、なぜ音読したいのか、なぜ歩きたいのか、なぜあの人に会いたいのか、なぜあの人とはうまく行かないのか、なぜ旅をしたいのか、なぜ懐かしいのか、なぜなぜなぜなぜと、玉葱の皮を剥くようにきりがない。

だが、気の向くまま。風の吹くまま風情の赴くまま流れてゆく他はない、はかなくも例えようもない不確かな心を抱えている存在が、きっと移り変わる自分なのだろう。移り変わる今日の私という他はない。

とまあ、朝からいささか正面切った、五十鈴川の流れになってしまったが、話を変える。昨日午前中妻とメルの3人でみさおやまの入口まで車でゆき、そこから護国神社まで往復した。所要時間一時間半、思いもかけず雪が降ってきた頃、ちょうど駐車場にたどり着いた。

家に戻って、薪ストーブに火を入れ、それからは午後ちょっと人にあった以外は、終日家のなかで夫婦二人だけの時間を、のんびりとすごした。夕飯のあと二人して好きな俳優の出る韓流のドラマを見る。まるで漫画のような嘘をここまでエンタメ徹底展開して、とまあ、あきれながらも変に感心なぜ今こういうドラマが流行っているのかは、私の頭の及ぶところではない。(タダコウ言う嘘八百のドラマを作り上げるスタッフ、俳優も含めそのエネルギーには脱帽する)

そしておもうのは、人間はかくも嘘に騙される存在、おれおれ詐欺にせよ何にせよ、欲望に足を掬われる悲しき存在とでも言うしかないのである。私なども何度もそういう痛い思いをしてきたえられてきたのから。(そういう人ばかりではないから    わたしなどは救われている)

もっと打てば騙されることにもどこかしら快感を覚える存在とでも言うしかないほどのものであるかもしれないと時に絶望的におもう、でなければあんなにCMをオンエアーするはずがない。

私も含めヒトは幻想に弱いのである。だから油断してはならないのだ。老人ミーハー(古くて申し訳ない)の私としてはこれ以上は打たないが、韓国のお金狂いもの狂い社会をどこかでからかっているように私には思えてしまったのである。ドラマのなかで、北朝鮮の貧しき社会のなかでけなげに助け合って生きる民衆の姿が、皮肉なことに現在の韓国社会を逆照射しているようにも私には思えたのである。日本もにている。

護国神社にて妻とメル

どこかに、他者の痛みを思いやる余裕なき社会、持てるものが持てないものを上からの優位目線で無自覚であることが、私には恐ろしい。現実社会は理不尽で不条理に満ちているとおもうのであれば、それはなんとかしようとおもうのが、普通だとの側に私は棲みたい。

愛の不時着、レイさんがネットフリックスで見れるようにしてくれたお陰で、思いがけない絵に描いたような嘘のドラマを妻と冬の夜長見るはめになったが、細部に普通の人間の発する善き言葉がちりばめられている。(人生の愛の着地はありやなしや、人間の尊厳を見失ったら闇である)

それとやはり韓国の男女の俳優の素晴らしさである。個性的な脇役人が勢揃いである。内容はともかく顔を眺めているだけでどこか私には懐かしいのである。

韓国の映画の質の高さには五十鈴川だよりではほとんど触れていないが、アカデミー賞をとるのがうなずける。コロナ下ずいぶんと日本映画ではなく韓国映画にはお世話になっている。もう20年近く見続けている。昔見たヒロインがお母さんやくをやっていたりするのは、日本も同じだ、映画には時代の流行り推移が鏡のように映っている。ことほどさように時代の相貌はあっという間に姿を変える、が、変わらない心のあり方を大切なことを見失わない思索を続けないと、簡単に足元を時代の波にさらわれてしまう。(とくに私のようなやからは)岡潔先生から素直に学び続けたい。

ウクライナでの緊張が高まっている報道が、ずいぶん見られた昨日の雨の一日だった。

2022-02-19

古希を迎えてはじめての夫婦ウォーキングの朝に想う。(5回目)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

おやすみ土曜日の朝である。珍しく妻もお休みなので散歩うぉーきんぐを共にしようと思っている。午後からは雨の予報なので午前中あるこうとおもっている。こないだ岡山まで歩いた際、気に入った操山をメルも連れて3人で歩く予定である。妻と共に歩くときは音読はしない、音読は明日一人で歩くときにすることにする。

ところで新しいタブレットで五十鈴川だよりを打てる喜び、いい年をして我ながら子供みたいだと思うのだが、いいのである。起動するのが早いし何か新鮮な感じで静かにコンパクトに打てるのが嬉しい。

古希を迎えてあらためておもうのだが、1970年18才、あの無知丸出しの田舎者が、よくもまあ、大都会で生活し、幾年月星雲は流れ、34才で西大寺生まれの女性とで廻り合い、37才で父親になり、40才で岡山に移住、子育てを終え、ふたりの男の子の孫に恵まれ、古希を迎えることができた事実をおもうとき、にわかには信じられないくらいの感慨にやはり襲われる。
  • 森田真生氏に教わって読み始めた岡潔氏の著作
     
  • 世のすうせいに流されながらも、辛うじて踏みとどまり、妥協を重ねつつも、しつこく自分の居場所を探し求めつつ、悪戦苦闘の果てに現在地で古希を迎えることができたことを、ただただ素直に、万物のお陰と感謝の気持ちをしっかりと五十鈴川だよりに打っておきたい。

事実は小説より奇なりというが、まさにしかりである。無数の偶然の、今思えば必然なのかもしれないと思えるほどに、オーバーではなく、時に神の降臨、おんちょうとでも言うしかないほどの幸運が重なったが故に、古希を迎えることができたのだと。(想える)

さて、古希を迎えたからといってさほどの大きな生活上の変化はない。年明けから臆面もなく打っているが、これからは、妻との時間を最優先で生きて行くといったこと以外は、ほとんどこれまでとかわらない。

もう一寸先は何が起こっても不思議ではない年齢なのであるから、なにか突発的な出来事が起きたさいに備えての、心構えをきちんと日々養いながら、養生一番で歩みたい。

還暦を迎えたときとは、全く異なる感覚が今の私を包んでいる。なにやら身軽になったと言うか、自由になったと言うか、自在な感じが増して、どこか楽になった感がましている気がするのは、気の迷いかもしれない、が。

ともあれ、時は後戻りしないのであるから、厳粛に老いを見つめながら、今しばらく家族や私を必要としてくださる方々との時間を大切に歩みたいといったくらいのことしか思い浮かばない。

ただ、18才で世の中に出たときに比べれば、ほんの少し世の中のことがわかった気がしているので、独学の楽しみ、のようなことを今後も可能な限り生活者の視点で学びたい。古希近くなってチェーホフ作品に再会できたこと、ありがたい。ささやかに継続の上に老いの花は咲くと信じる

絶対矛盾するかのように、人生時間が短くなってくるにつれて、偉大というしかない文学作品の奥深さが、爪の垢くらいはわかるようになってきつつある自分がいる。

そのような文学作品を、音読したいという欲求は以前より深まっている。ポストコロナを見据え、老いの努力を続け、ささやかに世界の片隅で発表したい。

2022-02-13

69歳最後の日、昨日家から岡山まで歩いた日の翌朝、古希を迎えた朝にに想う。

 私の記憶では65歳の誕生日に家から岡山まで歩いた記憶があるので、昨日8回目のウォーキング、岡山まで歩いたのは今回が2度目である。

さて、今日は私の70歳の生誕日である。昨日のかなり長いウォーキングは古希を迎えるにあたって、何かちょっと記念になるかのようなことができないかと考え、思い付きでただ歩いただけなのだが、結果としてはとても良い思い出ができたことを、五十鈴川だよりにうっておきたい。

家から岡山丸善まで歩いて本を買いにゆくという、ただそれだけの目的で歩き始めた。できるだけ車の少ない、小道や自転車道、百間川を土手沿いに歩き、途中操山の中(これから私のウォーキングコースになる)を散策寄り道して、原尾島から後楽園に抜け、丸善に着いた。所要時間4時間。

今現在読みたい文庫本を3冊求め、そこからは久しぶりに路面電車で岡山駅に、遅い昼食を(天丼、空腹で沁みるほどおいしかった )済ませ赤穂線で西大寺に。家を出たのが午前9時、帰り着いたのがちょうど午後3時だった。

 

昨日求めた3冊の文庫本

やったーあっ、というささやかなれど達成感が私の中に湧いた。仕事から帰ってきていた妻が祝福してくれた。身近な手の届く範囲で、何かしらの面白きことをわが生活の中に見つけるいうのが、古希以後ライフで特に私が、意識したいことなのである。

無理をしないで、路傍の花や景色風景を愉しみながらのウォーキングは、まだ年明けからわずか8回(妻とは4回)ではあれど、距離ではなく(昨日は特別)歩くことで見えてくる、視界に飛び込んでくる。いま生きている愛でる喜びの発見という意外性がわが体を満たすのである。

古希からの事はじめ、今のところまだ、妻も私もアルバイトをしている関係で、ともに歩ける日は限られるが月に何回かは夫婦で歩くひとときを大事にしたいと思っている。夫婦でささやかな良きことを見つけたという喜びが私を満たす。

ところで、昨日は途中歩きながら音読も一時間以上やったのだが、何と太陽光の下では、老眼鏡も不要、土手の上では車の心配もなく、実に楽しく音読ができたのである。まるで、二宮金次郎のようであるが、じっと座って読むのとは、また違った解放感があり、人気が遠いところでは、川向うに大声が出せたりして、野外音読の楽しさもまた見つけた。

昨日はチェーホフの【白鳥の歌が聞こえる】を2回音読することができた。さて、古希を迎えたからといって特段な生活の変化はないのだが、これまでのルーティン生活でやっていたことはこれからも続けることはもちろんなのだが、これに野外音読散歩ウォークが、新たに加わることになるのが、古希からの事始めということになる。

一寸先のことはだれも皆目わからないのは、コロナや、先の手術体験で沁みてはいるが、とはいってもささやかに下りつつも挑戦したいではないか。いよいよ古希から、もっと一日を丁寧に生き、なにがしかの楽しい努力、自分の気持ちが上向いてゆくように老いゆく身体を運んでゆきたいと、念う私である。

2022-02-11

昨日午後妻と4回目のウォーキングの翌朝に想う。

 今日から3連休、肉体労働老いバイトはお休みだが、午前中は薪づくり用の木を取りに行ったりと体を動かすつもりである。(妻は仕事日なのでひとり作業だが、古い私は男の役割だと認識している)

日々生きて生活を営むということは、もうそれだけでかなりの時間がいる。昔の人のほとんどは、日々生きて生活するだけで、一日を終えていたのに違いない。昔の人にとって薪づくりは重要な冬の仕事であっただろう。私はもう限りなくどこか昔人の生活に(できなくても)憧がれ、可能な範囲で実践したいのである。

人間は進化の果てに、生活の中での生きる愉しみとか、趣味とか、あらゆる芸能や芸術や文化というものを必要とする、複雑怪奇で面妖この上ない、生き苦しい社会を今も作り続けているのかもしれない、なあと初老凡夫は、時折はたと考えるのである。でももう十二分にそういった世界を堪能する人生の季節は卒業、終わったのだとの認識が私の中にはある。

昨日妻と4回目のウォーキング  

もうこの年齢になると、あらゆるものから身軽になりたいと私などは考える方に、いちだんと思いはシフト加速している。執着しない生き方、シンプル極まりないライフスタイル、自分らしく存在するために今現在大切な人やモノにのみ重きを置いて、交信してゆけるような古希以後ライフを、五十鈴川だよりを打ちながら、おくりたいのだ。

というと、何やら世捨て人感が漂うが沈思黙考ライフ、限られたエネルギーを大事に、第一義に生活したいのである。何もしないのではなく、限られた生活範囲の中でゆっくりと動き充実感の持てる、時の過ごし方というものを追求模索実践したいのである。

話はいつものように変わる。数学者の岡潔先生の著作の解読、森田真生氏の御本で知らされ、繰り返し日本人の心についての在り様を、哲学的に思索を深めてゆかれた、稀な数学者であられた方であると知らされ、この歳になって学ぶことの、何たる見えない世界の豊かさを、息子くらいの年齢の数学者に知らされ、教わっている。若い豊かな生き方をされている方に教わるのだ。

コトバなき孫のほほえみに、目に見えない真実摂理が詰まっているのを、おもい知らされる古希のいっとき、若き数学者は私のこれからの歩みをきっと照らし続ける。たまたま音の神秘世界を私に伝えてくれた土取利行さん、たまたま数学的に世界をとらえ思考を深化し続ける数学者。良き言葉、良き音は、今の私の精神をかくも活性化させる。

正直、難解な語彙や言葉も多々あるのだが、繰り返し言葉を音読かみ砕き、素直に学ぶ。手掛かりを見つけ高い山によじ登る様に読み進めてゆくのが、たまらなく面白いのである。きっと面白がれる間は、わずかではあれどこか心が豊かになれるような気がしている。

 

 

2022-02-10

間もなく古希を迎える朝に想う。

月日がまるで雲が流れてゆくかのようなように流れてゆく。還暦を迎えた時にも思ったことだが、間もなく古希を迎える身としては、あれからの10年が まさに矢のように過ぎたという感慨を持っている。

だがこれからは、以前にもまして早く歳月の流れを感じるようになるのだと思う。還暦を迎えた時と異なるのは、10年後を見据えて生きるといったことができないという、思いである。10年後私は存在している(はしたいが)かどうかの自信が持てないからである。

事程左様に元気に動き回れる人生時間は短いのである。(あだやおろそかな時間を過ごせないのである)時間を大切に生活したい。だからといって特別に生活に変化はないのだが、今日一日を以前にもましてきちんと過ごしたいのである。

還暦の時には、10年後の自分を想う人生時間の余裕のような元気な感覚があったので、遊声塾も立ちあげたりして、すんなり60歳代に入ってゆけた様に想う。まだまだ老いてゆく感覚の実感が遠かったのだ。

だが、古希を迎えようとしている今想うことは、もう10年先のことではなく、3年先を見据えて生きてゆこうというような気持に私はいる。心の奥底には10年後も生きて在りたいというという存在欲求は在るのだが、はかなくも自信をもって打てないのである。

家族カレンダー(娘たち作)

もっと打てば、もうそのようなことには関心がないというのが本音かもしれない。いよいよ年齢のことは考えない、とらわれない、左右されない、時間(記号としての)無視、自分の内なる感情の思いのままの感覚に身をまかせ、流れてゆきたい。還暦の時にもそう思ったのが、もっとわがままにあるがままにくだってゆきたいのである。(こどもにかえるかのように)

ただひたすら一年を、春夏秋冬を過ごす大まかな計画を立てて畑を耕すように冬から準備し、人生の晩年時間を可能な範囲で実る様に、ささやかに存在したいという思いなのである。一回こっきりのわが人生を思い切り遊ぶのである。

何やら最近、この2年以上あまりにも静かな生活を過ごしていたがために、コロナが終息したら(あるいはこのままずっとコロナが終息しなくても)なにがしかの老いの行動アクションを起こしたくなっている自分がいる。

土取さんをはじめとする、元気で活発に活動されておられる諸先輩たちに刺激を受けていることもあるが、私らしくやれそうなことが、音読をこの10年続けてきたおかげで、時期を見つけて音読ひとり会をやれそうな気が古希きっかけにして生まれてきたのである。

古希からの私の時間は、まったく未知である。春はまだ先ではあるが、私の中ではかすかに老いの春の足音が私の体に響いている。

2022-02-07

【数学の贈り物】を読み終えた、翌日の朝に想う。

 森田真生氏の本【数学の贈り物】を昨日終日ゆっくりカタツムリのように読み続け、終えた。理解できるから読むのではなく、文体の思考の果てに紡ぎだされる、今現在の氏の日々の生活の中で生み出される、20篇の珠玉のエッセイ集、あだやおろそかには読めないのだ。

2019年3年前に上梓されている。あとがきを書かれた日付が記されていたが、2月13日とあって驚き、何か奇縁を感じた。私の誕生日である。まさに私の古希を祝う誕生日プレゼントのように思える本に、今私は勝手に出会えた喜びに浸っている。

まあ、このような子供じみたところが初老になっても抜けきらないところが、かろうじて現実と私の今の生活を支えているところなのではないかと、いい方向にかってに考えるようにしている。

若いひたむき極まる真摯な数学者が、必死に思考し紡ぎだす言葉は、ビビッドで実に新鮮に初老男の私の中に、まるでさわやかな野にそよぐ風 のように入ってくる。この閉塞極まる状況下に。読んでいて、コトバに触れていて楽しいし、(もちろん愉しいばかりではない)世代を超えて感動を禁じ得ないのである。

良き本は音読力を養う

氏の言わんとするところをどれだけ理解しているのかは覚束ない限りだが、今の私にはそのことよりも、娘たち家族にすごい数学者がいるよ(あなたたちの世代に近い)と、または五十鈴川だよりを開いてくだだ去る方々に、ささやかに内心の声をお伝えしたいのである。

東京から移住、29歳でひとり京都に居を定め、在野の数学の研究者として生きてゆく決意をされる。ごく普通の一人の父親として親になり、生まれてすぐの手術から、1歳を過ぎてだと思うが2度目の手術、そして退院して書かれた当時2歳半くらいまでの息子さんとの関係性で紡ぎだされる言葉は胸に迫る。

生活者の視点から数学者として世界を、(病院のベッドに置かれている小さき存在者たちにとっての生きる糧としての希望の数学世界の成り立ちのとらえ方の淵源)とらえるために悪戦苦闘し、コトバを紡ぐ。稀な数学者の出現というほかはない。

五十鈴川だよりでは、とてもではないが【数学の贈り物】についての多岐にわたる内容について素晴らしさを記しきれるものではないが、わずかではあれ打っておきたい、のだ。



2022-02-05

亡き父の命日に読む森田真生氏の【数学の贈り物】

昨年の手術後からから今に至るまでのおおよそ一年間、なんともいえないくらい新しいというか、新しい生活に突入している感じで日々の生活が送れているように思う。端的に一番の目に見える変化は、お酒を断ったことであろうと想える。

今ではまるでほしくないのだから不思議である。飲むのが当たり前のような生活を手放したことで、飲まないのが当たり前になってから、何やら新しい自分が生まれてきているのを、古希を目前にして遅ればせながら感じている。何かを手放すと、何かが手に入るのだとあらためて感じる。

そんな矢先、年明け早々に手にしたのが、森田真生氏の著作である。これは手元に置いてじっくりと読まないといけないと思い、アマゾンでとりあえず一冊注文したのだが、氏の著作は折々学ぶという姿勢で、今年からは特にきちんと読みたいと思っている。

五十鈴川だよりではくだくだ打たないが、本物は永久に輝きを放つ(ジャンルを問わず)渾身の著作であることは、氏にしかなしえない文体、新しい発見、表現、自分で解読した言葉に裏打ちされている。

私へのサプライズ贈り物である。

話は変わるが、この歳になってつくづく反省するのだが、数学という言葉を聴いただけで、アレルギーを持つような人生を送ってきた私であったのだが、氏の著わした岡潔氏に関する考察本を年明け早々に読んで、根底から数学という崇高な世界に挑み続ける(難しいのだが読んでいてすがすがしく気持ちがいい)岡潔という偉大な日本人の存在を遅ればせながら知らされたのである。

ずいぶんと遅ればせながらの気づきなのだが、気づいただけでも良しとしようと自分を慰める。繰り返し読みたくなる本が手元にある暮らしは、老いゆく時間を共に過ごすためにはまさにひっすなのである。

森田真生氏は1985年生まれである 。ということはまだ若干37歳である。(私の知らない何と素晴らしい人たちが顕れていることか)このような新しい才能、在野で独立独歩で未踏の地を開拓する数学者の存在というものをはじめて知らされた。この歳になっても、かろうじてこのような方の存在を感知できる間は五十鈴川だよりが打てるのではないかと思う。

ところで音読と数学との間にどのような関係性が、世代を超え点と点を結ぶこころの 通い合い、琴線のふれあい、彼の発する言葉になぜ自分がかくも反応するのかは、ようとはわからないのだが、何かを断ったり手放したりすることで、見えてくる世界の豊かさが在るのだという一点において、深く納得するのである。

まあ、こ難しいことは置いといて、困難な道をただただ自分を信じて歩み続ける孤高の数学者の志に、土取利行さんに共通する何かを感じたのである。送(おく)るという言葉と遅(おく)ればせながらの言葉について森田真生氏が著作のあとがきで触れているが、含蓄に富む。 習えば遅ればせながら、古希から再び何か見えない世界の崇高さを少しでも学び続けられたらと思わずにはいられない。手遅れにならないうちに。



 

2022-02-03

年が明けてチェーホフ作品の【白鳥の歌が聞こえる】を音読している。2月3日の朝に想う。

 寝起きの五十鈴川だより。キッチンにパソコンを移動、小さな空間なのですぐに暖房がとれる。落ち着いての朝のコーヒー一日の始まりをこよなく愛する私としては、なんとも言えずありがたきひと時である。

パソコンの前に座って一行を打ち始めたら、何とはなしに 一文が流れ生まれてくるようになってきたのは、手術後からのような気がしている。ちょうど一年前の2月の末に原因不明の発熱が突然襲ってきたので、コロナ下でのその時の大変さは、経験した者でないと、当事者でないと分かりえないのだ、と思える。

きっとそのような、いわば突然の病や、事故やその他もろもろ、痛みや苦しみを抱えておられる方が、この世には途方もないほど存在しているのだということが、古希を目前の人生初手術で、曲がりなりにもちょっぴり体験できたことは、あれから一年近くたち、本当に良かったのだと、今となっては感謝しかない。

まかり間違っていたら、もう私はこの世には存在していなかったかもしれないのである。そのことに思いをいたすと、もうこれからの時間は、日々が在り難いというほかはないほどに、私はどこか以前にもまして、どこか楽天的である。

書棚に眠っていた19歳の時の初版本

五十鈴川だよりを打つのがたのしくなったし、何より日々の生活が、コロナ渦中下でもあるにもかかわらず、たのしいのである。すでに打ったと思うが、手術しなかったら、遊声塾を続けていたであろうし、妻とのウォーキングも発心しなかったかもしれないと、おもうのである。

禍を転じて福と為す、禍福は糾える縄の如しともいうが、その言葉が沁みるのである。臆面もなく打とう。

これからは妻との時間を最優先で生きてゆくことにしたのである。入院中どれほど妻の存在、家族の存在に日々支えられていたのかが忽然とはっきり自覚できたのである。

間もなく亡き父の命日(亡くなって22年)がやってくる。敗戦で幼い姉と生まれたばかりの兄を連れて北朝鮮から引き揚げ、戦後を生き延びた父は、晩年どこに出掛けるにも母を連れて旅していた。そのわけが、ようやく私にも かすかに実感できるのである。

手術のおかげで、本当に大切な身近な人の存在が、はっきりと自覚できたのである。だからすべてをリセット、遊声塾もあきらめ、誰にもおもねることなく一人で自由にやれる音読自在塾を始めることしたのである。

長くなるのを端折って話を変えるが、年明けから、すこしづつだがチェーホフ作品 を一人で音読している。今の私の年齢で読むからこそ、チェーホフの作品が少しは実感して音読できるのかもしれない。あの登場人物の苦悩の深さや、痛みや、置かれた状況下の過酷な心理状態は想像を絶するが、音読したいという感情を抑えることができないのである。

そういう感情が、古希を目前にして湧いてくるということが 私には何よりも大切なのである。自分自身のレッスンのために、チェーホフ作品をこれから音読したいがために、自在塾を発露したのかもしれないとおもえるほどに、年が明けてチェーホフ作品をひとり音読している。

音読すればするほど、シェイクスピア作品と同じように引き込まれる自分がいる。翻訳日本語の【翻訳した方々のチェーホフへの愛、敬慕が感じられる】素晴らしさが堪能できる。たぶん、口と意識が連動できるこれからの老いの時間は、可能な限り、可能な範囲でチェーホフ作品を音読したいという新たな目的が生まれてきている。(さあ、朝の音読時間である)

短編小説も素晴らしい。今読んでも打たれる。とくに今読んでる【白鳥の歌が聞こえる】は主役の登場人物が68歳、もう一人は年齢不詳の老僕二人だけの短い芝居なのだが、これが今の私には悲しいまでに面白く、音読してみたいのである。理由はないし、わからない。ただ台詞がいいし、何より劇中登場人物がリア王やハムレット、オセローの台詞を口に出したりするのに驚いたのである。チェーホフは44歳で亡くなっているが、あの時代にこのような作品を書いていたことに。

おそらく手術もせず、コロナが出現しなかったらチェーホフ作品を音読することは、なかったかもしれない。いつ終息するのか判然としないコロナ、オミクロン変異株渦中、倦みもせず日々生活できているのは、チェーホフ作品との出会いが大きい。(のである)

2022-02-01

2月最初の、朝の音読時間前の一気打ち五十鈴川だより。

 今日から2月である。私の誕生日がすぐにやってくる。よくはわからないが間もなく古希を迎えるのだなあ、という感慨が心のどこかにあるからに違いない。

話は変わるが、今年からウォーキングを始めたことは再三打っているように思うが、一月無事に私は6回のウォーキングをすることができたことを五十鈴川だよりに打っておきたい。そのうち妻とは3回をともに歩いたことを。(一番長いのは朝食休憩をはさみ、出会った人と話したりして3時間半、月ごとに歩いた回数を記録してゆきたい)

妻と二人の時は、1時間から1時間半くらいだが、一人の時はその倍くらいは歩いているように思う。なにせ歩数などははかったことがないし興味もない、時折散歩風景はスマホで写真を撮るように心かけている。(後ほど写真を入れたいとは思う)

水仙を・すっくとまねて・冬散歩

多分まだはっきりはしないが、五十鈴川だよりも打ち始めた当初からすると、読み返してはいないが随分と変化しているだろうし(変化することが面白いのだとの側に、私は立つようになってきた)これから先も微妙に変化し続ける、生活雑記ろくあるがまま、わがまま五十鈴川だよりで在りたいと、超ささやかに願っている。(のだ)

やがて、五十鈴川だよりはウォーキング散歩での写真が多くなってゆくような気が最近している。文章はだんだん短くなってゆくのではないかという気がするのである。

だから、今一番欲しいものが実はカメラなのである。私などのとる写真は一日の中での心が動いた日録的写真なので、高価なものは猫に小判なのだが、できればちょっと高価で小さくて、精度のいいもので、近くと遠くがきちんととれればいうことはないので、義理の息子のレイさんや周さんと相談して買いたいとひそかに思案している。

スマホでも十分なのだが、俗物としての私は、晩年時間の楽しみにカメラで故郷の風景などを撮って五十鈴川だよりにアップしたいのである。 冬の人気のないわが心の五十鈴川、オミクロンが収まったらいの一番に帰還したい。

事程左様に超ささやかに緩やかに老いこころは微妙に変化しながら流れゆく。この流れをおいおい記録的に、打ち続けてゆく元気を持続する志を持ち続けたい、のだ。

今朝はこれから、朝の音読時間なので、これにて失礼します。