そのことを、わずかでも頭が新鮮なうちに少しでも五十鈴川だよりに綴っておきたい。数週間前、3年ぶりに突然私にK君からメールが入った。
内容は25日、大阪で槇峰会なるものがあるので参加してみないかとのお誘いであった。同窓会ではなく槇峰会のお誘い。しばし私は逡巡した。が、どこかで私は出かけてみたいとの思いが次第に湧いてきた。
槇峰会なるものが関東や、関西にあるとのことは、3年前槇峰の地にあった美々地小学校の同窓会にたまたま偶然参加することができたた時に聞いてはいた。
話を少し戻すが、私は父親が教師であったため生まれて就学前も含めれば、宮崎県の中を5回ほど引っ越している。生まれてすぐ高千穂というところに行き(私の最初の記憶は高千穂に雪が降っていた光景である)3歳まで過ごし、そこから生まれた門川に引っ越して、小学校の5年生までを門川小学校で過ごし、6年生の時一年間だけを、槇峰銅山のあった美々地小学校で過ごしたのである。
妻の最愛の花、五十鈴川だよりを綴るとやってくる |
この時過ごした一年間の途中から、槇峰銅山閉山のうわさが教室内に流れ、ぽつりぽつりと旧友が転校してゆき、私も一年後、父親が都城の近くにあった高城町立四家(しか)中学校への転勤と共に転校を余儀なくされた。
私が転校して後間もなく、槇峰銅山は閉山し、かっての級友たちは全国各地に離散した。が美々地小学校での鮮烈な記憶が私を槇峰へといざなう。高校生になった夏休み生家に戻った私は、ひとり槇峰の地を訪ねた。槇峰の地の風景は一変し、かって一年間住んだ中学校の下に在った桜が丘の炭住あとは無残なまでに雑草に覆われていた。
地元の子供だけが通う美々地小学校はまだあったが、私の中の面影、あの山間の地の槇峰は無残なまでに姿を変えていた。私は15歳になっていた。
わずか3年前とのあまりの劇然たる変化に茫然自失したといっても過言ではない。多感な思春期の真っ盛り、今考えると力が全身から抜けてゆくかのような虚脱状態に私は襲われたのである。
あの級友たちはいずこへ。あの時の虚脱感が私に与えた、今風に言えばトラウマが、その翌年高校2年生になりまたもや転校、生家から通い始めた富島高校で演劇部に入部することになるのである。
話を戻す。50歳を前にして父親が亡くなり、私はまたもや槇峰の地を訪ねた。長くなるので端折るが、そこで槇峰の地に今も住むT君に40年ぶりくらいに再会し、幸いなことに彼が私のことを覚えていてくれたことが、3年前静岡で行われた美々地小学校への同窓会に参加するという、思わぬ予期せぬ出来事へとつながるのである。
長女が生まれた時に植えたスダチ今年は当たり年である |
今日これから上京せねばならず簡略に記すが、槇峰銅山閉山後、日本各地に散った仲間がその後半世紀以上にわたって今もこのような形で、絆の確認とお互いの友好を継続持続しておられる会に、浦島太郎のように参加させていただいた幸運な出来事を何としても、五十鈴川だよりに書いておきたいのである。
未曾有の高齢化の中49名の方の参加、私やK君が一番若く、ほとんどの参加者の方が私より年上の方々ばかりだった。その後人生の修羅場を潜り抜けて今もこうして友愛を継続持続されている事実に、私は深く感謝の念を抱かずにはいられなかった。
高齢化し、関西槇峰会は継続不可能となり、有志9名で再び西日本槇峰会を立ち上げられたとのことである。その情熱の深さ念いには脱帽するほかはない。日本人の誇りここに健在である。
K君ぐらいしか話し相手がいなかったが、私の父親を覚えていた方もおられた。アルコールのおかげで、私もすっかりリラックスし、いろんな方がたった一年しかいなかった私に暖かく声をかけてくださり、本当に恐縮しながらも参加してよかったとの思いが、こうして私に五十鈴川だよりを書かせるのである。
人生は有限である。身体が元気な間は可能な限り槇峰銅山閉山後も、熱き絆の継続を実践されている諸先輩方との交友に学びたく、今後も参加したい。K君お声掛けありがとう。