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2018-08-02

8月18日まで覚悟の夏が続く。

母や遊声塾のYさんに頂いた夏野菜、特にトマトの丸かじりをしているせいか、草刈りで痛めた背筋痛もすっかり治って普段の暮らしが滞りなくこなせるほどに体調が戻ってきた。

何度も繰り返し書いているが、身体あってのわが暮らしなのであると、初老であるがゆえに、そのありがたさが、何やら蝉の声と共に染み入ってくる夏である。

これだから人生は面白いと言わざるをえない。66年も生きてきたわが体はあちらこちらにほころびが生じているが、ありがたいことに孫の望晃くんを30分くらいは抱っこしても大丈夫くらいの体力はかろうじてキープしている。

今日、我が家には誰もいない、妻は仕事、娘やレイ君たちは出かけている。我が家には私ひとり、だから五十鈴川だよりが書ける。

起承転結まるで無視、自由自在に気分のおもむくままに下手な一文がつづれる昼下がり、初老男の、ひそかな喜びというほかなしである。

さて、昨夜遊声塾のレッスンが行われた。ほとんど仕事をしながら、貴重な時間を費やしてオーバーではなく、足を引きずりながらやってきてギリギリのところで声を出している。昨夜は仕事で参加できない塾生もいた。

8月18日まであと2週間と、ちょっとである。私には塾生よりもずっと稽古する時間があるが、塾生の多くはは働いているので稽古をする時間が限られている。

その浮世の定めの時間の中で、必死に時間を見つけて 、塾生は声を出し続けている。このようないくらでも楽をすれば、逃げ道が見つけられるご時世の中で、あえて楽ではない塾に来られている。

私自身、楽ではない声出し時間を、今朝も早朝やっているそのこと自体が、実は私にもよくはわからない。
なんとシェイクスピアに魅入られている人の多いことか

よくはわからないけれども、終えるとさわやかな風がわが体を吹き抜けてゆく、そんな感じがあるとともに、昨日は出なかったような、思わぬ声が出るからこそ続けられているのではないか。(くめども尽きぬ発見)

稽古、反復することによって、身体がまだ意外な反射をする。(普段の生活では使わない息の長い言葉の表現が、シェイクスピア作品にはふんだんに出てくる、それに挑む。やがては叶わなくなるのであるから、いまにしがみつく)

頭で考えて生まれてくる音ではないのである。声が声を、音が音を呼ぶ、いったん声を出し始めたら、ただひたすら音に導かれて声を出すのである。

とにかく、8月18日までは、修行が続く、覚悟の夏である。




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