死というものは、そっと忍び込みあっという間に、その人の存在を不在にする。私が五十鈴川だよりを書きだしてから、この間、私が少年期から青年期にかけて瞼に浮かぶほどに、影響を受けた多くの方々が、年々その姿を見ることがかなわなくなってゆく。
昨年までは、なんともやるせない思いにとらわれたりもしていたが、今年から急に何やら恬淡として受け容れるというのか、摂理として受け止める感じ方の方が強くなっている。
死というものを特別なことではなく、当たり前の普通の自然なこととして、認識したい、するのだという思いがつよくなっている。
節目というが、いろんな意味で個人的に節目の年という気が、特に今年はする。これまでの自分とは、あきらかに変わりつつあるという自覚の深まりを感じる。
これまでかなり情熱を傾けたり、執着していたことに対しての達観的なうすまり、内的にかなりの変化がわが胸のうちに起こってきている。
静かに星野道夫氏に関する本、氏の文章をあらためて読む夏 |
喜怒哀楽の感情が弱くなってきているのである。これを老化と呼ぶのであれば、そうなのであると、(あるいは転向である)以前なら狼狽したかもわからないのだが 、正直に自然に老いたいとの思いの方が、強まっているのである。
老いにあらがわない、受け入れるという方にシフトしつつある。だが、とはいうものの、局部的に、還暦を過ぎてから始めた、シェイクスピア作品を声に出して読むとか、昨年から始めた弓をひくという営為に対しての情熱は、ますます深まっている。いままでとは異なる、旅もしてみたい。
早い話、遺された自分の人生時間の持ち時間がいかほどであるのかは、もとより知る由もないが、これからの未来時間を、ただただ思いのままに、よりあるがままに過ごしたいという思いが、強くはっきりとしてきたのである。
だから、きっとこれから人付き合いも含め、ありとあらゆるこれまでの人生時間の過ごしとは変ってゆく気がとてもする。不義理を生きる、義理を欠く覚悟である。
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