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2017-12-31

2017年、大晦日の朝に思う。

娘に命が授かり、今のところ順調に命は成長している様子である。無事に生まれると私にとっての初孫となり、私はお祖父さんとなる。正直、今はまだまるで実感がないのだが、私はその生誕を、待ち望んでいる。

私に孫ができる。父親にさえなれるとは思いもしなかった、人生を歩んできたので、いまこのような普通の感覚を自分が 持てることに関して、オーバーではなく万感迫るものがある。

お正月は時間を見つけて静かに本を読みたい私です
あまりに個人的な事であるので、ブログでこれ以上書くことは控えるが、まさに人生には、どのような運命が待ち構えているのかわからない。

娘だってレイさんとの出会いがなければ、このような人生の選択はありえなかったかもしれないので、人生そのものが、多種多様な人や物との無限の出会いの集積の上での、未知との遭遇の上に成り立っているというしかない。ヒトは出会いの運命に大きく左右される生き物である。

ある種の幻想に近いかもしれないが、ヒトは幸福感というものを求めさまよう生き物であると、私自身自認しているが、それを実現するために、なにがしかの日々を老若男女問わず生活しているのだろう。私だってそうである。

だが何をもってしてヒトは幸福を実感するのか、は、各人各様千差万別である。たまたま私は戦後7年目、五十鈴川のほとりに生を受け、この時代の渦中を何とか生き、いま無事に家族と共に、(おかげで)この年齢まで生き延びている事実に、ただただ感謝している一人の生活者である。

起きて書き始めたら、何とはなしにこのような一文を綴っているというのは、やはり大晦日のせいかもしれない。この歳になってみて初めて、足るを知る者は富む、という言葉が少しわかるようになった気がする。

早朝、冷え切った空にいまだ浮かぶまあるい月、静寂のひと時をこよなく愛する私である。コーヒーが沁みる。今年は個人的にいろんなことがあった、私にとっては節目の年になったが、何はともあれよたよたとではあれ、今年も五十鈴川だよりを書くことで、(救われ)一年を締めくくれるのはただただありがたいというほかない。




2017-12-30

年の瀬29日(30日だが)の真夜中に思う。

28日から娘とレイさんが帰ってきてから、我が家は一斉ににぎやかになり今夜から(いますでに30日だが)母も我が家にお正月帰りしている。

Sという造園業や剪定作業を中心に行っている会社で、8月28日から、基本的に週に3日ほど働いているが、今週だけは初めて五日働いて、昨日午前中が仕事納めだった。

年齢も省みず始めたこの仕事、とにかく3ヶ月は続けてみようとの思いだったが、何とか4か月は持続できた。我ながら良くやったとの思いだが、油断は禁物の感覚は、仕事を続けられる間はなくしたくはない。

おかげさまで体が動いてくれているので、何とか続けられている。体がもつかどうか不安だったが、週に3日であれば、持続可能、何とかやれるのではないかとの、自信のようなものが生まれつつある、有難い。
お二人の対談には刺激を受けた

幼少期は虚弱体質、身体がそんなに強いわけではなく、肉体労働には限りなく弱いコンプレックスを持ち続けてきた私だが、青春の終わりを富良野塾で鍛えられ、夢が原でも野外作業でずいぶんと足腰を鍛えら、そのおかげでの、いまかろうじてこの仕事がやれる果報を有難く受け止めている。

ともあれひと月でも長く、自分に負荷を与えながらの、肉体労働を続けたいとの念いが深まる。その中で何か新しい感覚が、晩年時間に見つけられたらとの、淡い思いが、幻想であってもいまだ私にはあるのだ。

守りに入るのではなく、今しばらく新しき世界(人や樹木との)での出会い時間を生きなおすことで、攻める感覚を、足腰をただただ動かしたいのである。

介護施設での仕事のお誘いもあったのだが、私としては、私よりも若い方たちとの一緒の肉体労働をすることの中で、過ごす時間を選択した次第。

いつまでやれるかは神のみぞ知る、悔いなく体を動かし続けたい、そんな私を妻や母や、家族全員が応援してくれている。

軟弱な私は、きっと家族の存在なくしては、この仕事は続けられない。

2017-12-26

年の瀬、週に5日初めて働くことになった火曜日の朝ブログ。

五十鈴川から戻った翌日の日曜日、頭を切り替え、こんなことは初めてのことだが妻がパソコンで作ってくれていた年賀状、100枚近くに一筆入れ、午前中に投函し、その後妻と母に3人で、あれやこれやの年末の買い物他の用事を済ませ、昼食後吊るしていた干し柿を収穫し、よいのを選び、友人知人に発送した。

数に限りがあるので、少数の方にしか送ることがかなわぬのだが、わずかながらも年末に長年お世話になった方に、手作りの品を送ることができるのは、幸せなことである。(今年はめったに会えない方にも少し送れた)
母の丁寧な干し柿作業に脱帽

この年末の作業を、妻と母の3人で今年もやれたことが、ことのほか私にとってはうれしいことだった。この日はクリスマスイブ、下の娘が上京していたので干し柿発想を終えた後、早めに入浴を終え3人でささやかにクリスマスイブを祝った。

妻がクリスマスの曲を、習いたてだが電子ピアノで弾いたので、記憶に在るところを私が歌ったら、何と母が躍ったのには驚いた。3人で大笑い、めったにないことなので動画で娘たちに送ったらレイさんからお褒めの言葉が届いた。

そして昨日から、遊声塾も今年は先のレッスンで終えたので、予定を入れず労働者に変身した。肉体労働は、週3日しかしていないのだが、今週だけは仕事納めの日まで5日間連続で働くことにしたのである。

ひと月は持たないかもしれないと思ったこの仕事、なんとか4か月続いている。65歳の私にとっては今もかなりのハードワークであることは確かだが、あくまでもささやか冒険心が私を支えている。

なぜ続けられているのかは、身体が持ちこたえているからだというしかない。それとわずかながら、何かを学んでいるといった 実感があるからだと思う。3ヶ月を過ぎるころあたりから、社長からずいぶんと声をかけていただいている。

私としてはお荷物にならず、会社にとってお役に立てる間は、週に3日であれ、一日であれ、家から2分のこの会社で働きたいという気持ちになっている。

集中力と持続力、根気のいる仕事の面白さは、やったものにしか わからないし、何よりも動く肉体がないとこの仕事は無理である。声を出すこと、弓をひくことに、この仕事は限りなく有効である。

だからなのである、私がこの仕事を続けられる大きな理由は。老いてゆくこれからを、有効に生きるためには、足腰の今一度の鍛錬をするのに、オーバーではなく大切な時間だとの思いなのだ。







2017-12-25

ふるさとで現在の命を洗ってをきました。

忙中閑あり、水曜日の夜中にバスで小倉に、早朝始発の特急日輪で日向市に午前中につき、木金と兄の家に滞在、土曜日の昼前に日向市を発ち、日輪と新幹線で午後八時すぎ岡山に戻ってきた。

前回のブログで書いたが、年内にお墓参りができたことで、なにゃら私の中に、いい感じで歳が越せそうなゆとりのような落ち着きが生まれている。
誰もいないこれほどのゆず湯につかったのは初めて

自分がなぜこうもふるさとの空気を吸わないと落ち着かないのかは、自分でもよくはわからないのだが、今の私には自己分析している余裕はない。

だが、この数十年必ず年に数回は必ず帰る私を、兄夫婦や姉夫婦の暖かく迎えてくれる存在があるからだということは、この五十鈴川だよりに、きちんと書いておかねばならない。

当たり前のことだが、この数年の帰省で感じるのは、私も含め兄たちや姉も随分と歳を重ねた事実である。今回も兄二人夫婦、姉夫婦私の7人で金曜日の夜ささやかに夕食会をすることができた。

このようなことは初めてなのだが、その席で私は、これからは毎回これが最後の帰省との気持ちで帰ってくるつもりなので、どうかよろしくとだけ伝えた。

みんな各々うなずいてくれた。私が65歳で一番若くあとは年上、70歳代が3人、一番年上の義兄が75歳。有難いことに皆さん元気で冗談が言えるくらいの健康体であるからこそできる夕食会である。

やがては叶わぬ人生時間の訪れを、厳粛に受け止めるためにも、良き思い出の数々を脳裡に刻みたいとのわが想いの深まりは深まるばかりである。

ところで都市部のあまりの風景の変容に背を向け、着いた日と金曜日私と長兄二人で宮崎探訪山間部ドライブに出かけた。

私以外誰のいなかった

金曜日は行ったことのない、門川から3時間近くかかる、西米良村というところの温泉に出かけたのだが、透明度抜群の一ノ瀬川のそばの素晴らしい温泉にゆくことができた。

ふるさとの大小含めた、透明度抜群の河川の美しさは、未来永劫残したい普遍の宝である。あの川を眺め、可能ならつかりたいという、私の欲求は老いても変わらない。だから私の体は、故郷に向かうのだ。

来年春、私に孫が授かったら、いつの日にか孫と共に五十鈴川を含めた 川巡りをしたいとの夢は膨らむのである。故郷の海山川に先祖返りするのである。


2017-12-16

五十鈴川のそばに在る、両親のお墓参りをしないと、落ち着かない年の瀬のわたし。

朝が来た。師走、何かと充実多忙で、一日がもう少し長ければと思うほどである。それと年齢のせいだと自覚しているが、動作がゆるゆるとしてきたのを特に今年から自覚している。
歳とと共に、あらゆることを落ち着いて、丁寧にやるようにこころかけている。五十鈴川だよりも、書く回数がずいぶんと少なくなってきたが、以前に比べたら丁寧にかいているなあ、という自覚がある。時間がかかっても、遅くても丁寧に。

何回か前の五十鈴川だよりで書いた記憶があるのだが、漸くにして日々の暮らしの中に、自分の中にうろたえない重しのような、いい意味でのかたくなさのような生まれつつある気がしているのだが、いまはこれ以上書くことは控える。

ともあれ、自己満足的にいい感じで生活できている現在を、キープしたいとの思いが募る師走の五十鈴川である。

時代の趨勢は、油断ならないほどに何が起こっても、たじろいでも仕方がないとのいい意味での諦観感覚をどこかでもっていないと、一方的な情報に振り回されるので、私は画面からの情報ではなく、地面や、自分の内側からおのずとわいてくる本能的な感覚情報や、私が信頼できる方の情報に、ますますすがって生活している。

以前書いたが、ますますもって超マイノリティの側に、自分がシフトしてゆくような気配である。
アーサービナードさんの御本、凄い素晴らしい。

時代はますますAI生活ライフにシフトし、言語化するのが不可能とさえ思えるほどに、世界は2極化してゆく気配、一体全体どのような未来がやってくるのか、どこか不気味さを感じながらも、生きて在る間は、地面近くからその世界を眺めてみたいという、業も私は抱えている。いまも絶対矛盾の渦中をさまよう私である。

ところで、まだわが故郷へのお墓参りが実現していない、何とか来週にはとんぼがえりであろうと五十鈴川が静かに流れるほとりに立ちたい。そこでしばし一年を振り返りたい。

それにしても、なぜこうも私は年に数回五十鈴川のある、故郷もうでをしないと落ち着かないのかは、自分でもよくはわからない。

2017-12-14

塾生Y氏の高梁のお宅で、遊声塾今年最後のレッスン、そして交流の宴が実現しました。

昨日、今年最後のレッスンを塾生のY氏の本宅がある高梁で、昼間行なった。こんなことは塾発足5年目にして初めてである。
とあるところで撮った銀杏の葉のじゅうたん

なぜこういうことになったのかのいきさつを少し。ひと月くらい前、 塾を続けるか塾をいったんお休みするか、私の中でいくばくかの煩悶が生じてきて、塾生とお話をする時間を設け、今のメンバーででの持続継続を確認した際、塾を立ち上げた時からの付き合いであるY氏が、塾生の交流も含め、一度高梁の我が家でレッスンをやりませんかと申し出てくださったからである。

参加したのは私と塾の熱きトリオ女性3人、岡山発9時17分の伯備線でY氏の待つ高梁へ。天気は最高、気分はすっかり遠足の趣。10時12分に高梁に着き、Y氏の運転するクラウンに乗せていただき、いきなり予定変更、氏の案内でぶらり備中高梁めぐりへ出発。

Y氏の名ガイドでたたずまいを外から眺める程度ではあったが、約一時間と少し、旧家の風情が今も残る頼久寺界隈、氏の通った高校、山田方谷が学問を指南した建物を車窓から眺めたりしながら、徐々に山の奥にドライブし、近年天空の城として名高い備中松山城を眺める展望台に到着。

そこには数日前に降った雪が残っていて、ちらりほらりと粉雪も雲間から落ちていた。寒かったが、皆童心に還って小さな旅時間を満喫した。

その小さな旅の最後を締めくくり、我々をほんわか気分にいざなってくれたのは、展望台近くに群生している、100匹いると確認されている中の、半数近くのおさるさんの群れ。老若男女の愛らしくもむつまじいしぐさで、我々を迎えてくれたのに驚き、しばし見入った。

おさるの集団がぞろぞろと森の中に移動をし始めるまで、我々は優雅この上ないおさるさんとの意外な出会いを楽しみ、小さな旅を終えY氏のお宅に移動した。

私以外は Y氏のお宅に伺うのは初めての3人は、Y氏の家周辺の山里の景観にしばし感嘆の声をあげたのち家の中に。

みんな相当におなかがすいていたはずだが、前もって温められていたこたつのある部屋に集まりリア王の一幕だけ、5人で輪読し今年最後のレッスンを終え、午後一時食堂へ移動した。

目に飛び込んできたのは、すべてのお鍋の具材が整然と器に盛られ、並べられそこにあったことである。準備万端あとは火をを入れるだけ、Y氏の心づくし牡丹鍋のおもてなしには、最敬礼するほかなかった。

 お鍋の具材は氏のひろい敷地の菜園場で調達された野菜がほとんどで 、サラダ、お漬物、まったく旨いというほか言葉がなかった。心も体もぽかぽか、芯から体がゆるみ、Y氏のゆきわたる細やかな配慮に、ただただ私は甘え、牡丹鍋の昼食宴会を堪能した。お酒もほどほどにいただき、全員和気藹々、最高の気分で昼食を終えた。

おなかがいっぱいになった後は、Y氏と私はお燗したお酒を持参、レッスンをしたこたつのある部屋に移動し歓談タイム。街の居酒屋などでは決して味わえない、穏やかで真摯な語り合いができた。

リア王の来年の発表会についても、塾生の忌憚のない意見を聞くことができたし、何よりもリアを読む覚悟ができた。こたつでの会話はいやでも家族的な雰囲気になる。みんなの弾む会話を、Y氏が満面の笑みで聞き入りつつ、氏の好きなクラッシックの曲が空間を包む。最後Y氏がおいしいコーヒー(とお菓子)を入れてくださり、焼き芋まで。

まさに至れり尽くせり(おまけに余った野菜までお土産に頂いた)愉しい時間は瞬く間に過ぎ、気が付くと4時を回っていた。お開きの時間、山の端に冬の陽が沈みゆく4時40分ごろタクシーがやってきた。

ただ一人、黄昏時Y氏が一人たたずみ、我々を手を振って見送ってくださった。このような貴重な機会を設けてくださった、氏の心広き優しさに感謝し 五十鈴川だよりに記しておきたい。

【本日はとり急ぎ文章だけアップしますが、A子さんが送ってくれた良き写真は後日、たくさんアップします、ご容赦を】




2017-12-03

娘の再出発、師走の朝に思う。

朝が来た。夢が原退職後は、日中のほとんどを家族と共に過ごすように心かけているのは、すでにご存じだと思う。
笹の根でつくったリース、飾りつけは妻。

実は下の娘が、思うことがあるらしく転職し、来年2月から東京暮らしを始めることになり、いよいよ来年からは妻と二人きりの暮らしが始まることになった。

母は今のところまだひとり暮らしを続けるとのことなので、まあそういうことになる。こうやって人生は過ぎ、廻ってゆきすべては移り変わる。摂理である。

娘には、悔いのないように生きてほしい。運命は自分の足で切り開いてゆくほかはないのであるから、親としては、ただただそっと見守るほかはないと、妻も私も娘の選択を応援する覚悟を決めた。

何かをあきらめ、何かを選択するほかに人生には道はないのであるから。いまだ若輩の私が言うのもなんだが、あれやこれやと、私も18歳から迷える子羊で今に至っているが、紆余曲折を経ながら、道は一本つながっているのである。

何はともあれ、逡巡を繰り返しながらも、ヒトと出合い助けられ、生き延びてきたのだから今はただ、運を天に感謝しありがたいというほかはない。娘も自分の足で地面を踏みしめ、広い世界の人と出会い、世間の風を浴び何かをつかむしかない。

だからあと数か月の家族時間を、今日も全員で過ごす予定である。私が18歳の時の山田洋二監督作品に家族というフィルムがある。思えば時代の行く末を家族の姿を通して見つめたフィルムであったのだと、思い知る。

これも妻が、体調が良くなり妻はてきぱきあれやこれや師走している。

当時風太郎の私は、よもや自分が家族を持てるなどとは、想像だにできなかったが、30歳を過ぎてから落ち着きたくなり、そんな矢先に現在の伴侶と出会い、家族が持てた。

現代社会の中での家族の在り様は、私の子供のころの家族観とは、まったくもって変容してしまったかのような、索漠としてきつつある感が否めない。(当たり前だが、家族は過酷な時代の影響をもろに浴びる。家族とは永久の普遍的テーマである)

私はそのような時代の趨勢には背を向けて、自分の中に何とはなしにある自分の親が示してきた姿にすがって、子育てをしてきたが、何とか二人が無事に巣立ってくれ、ただただほっとしているというのが、本音である。

子供が親にしてくれたのである。娘二人には本当に感謝している。世間は一気に師走モードである。その喧騒をしり目に、時間を見つけて来週あたり、帰省したくなった。お墓参りに帰りたく思っている。

2017-12-02

師走二日、朝の五十鈴川だより【アーサービナード】氏の記事に思う。

師走最初の五十鈴川だよりである。二日前のM新聞の特集ワイドに詩人であるアーサービナード氏が【日本語は消滅に向かっている】という記事がいきなり目に飛び込んできた。

一人のささやかな日本人として、この数十年のカタカナ英語表記の横溢の目に余る氾濫ぶりに(あたかもそれがいかにも今風でカッコイイかのような)その風潮に、絶望的な気分に陥っている自分としては、快哉を叫ばずにはいられないほどの内容だった。(五十鈴川だよりを読む方には氏の絶望の深さを知ってほしい、と願う)
一日に一つ何か思考の栄養を新聞で見つけたい私である

このあまりに素晴らしいというしかない、米国生まれ(1967年生まれ)でありながら、日本語による詩人としてのお仕事 をされている(日本語の素晴らしさを発見し続けている)氏のことは、以前(日本語ぽこリポこり)という本を読んでいたのでしっていた。

ひそかに話題になっている最近の氏の【知らなかった、僕らの戦争】という本も是非読みたく思っていたし、日本人がややもすると気づかない大切なことを、異国人の眼で、しかも素晴らしい日本語で指摘してくださる視点に、私は限りない信頼を置いている。

氏の考えは圧倒的な少数マイノリティの論考のように思える、今の日本の世相である。朝のきわめて個人的なブログでこれ以上書くことは控えるが、氏を絶望的なまでにまでに悩ませる氏の目に映るこの日本の世相。

逆に言えば絶滅危惧種的なまでに、憂える日本語への、日本人が紡いできた言の葉への愛の深さの裏返しのようにも私は感る。

22歳で日本語に出遭い、依頼27年間日本語の素晴らしさを真摯に探究し続ける、氏のような視点を持ちうる文学詩人の存在は、私に限りなく勇気を与えてくれる。氏の圧倒的なマイノリティの側に、そのお仲間に入り、静かに隠遁生活(時折郷に出て)を送りたいとさえ思うほどだ。(だが、絶望はしない自分の中に希望を見つけるのだ、愚直に)

氏は 今も携帯電話を持たず生活しているという、筋金入りの超マイノリティ生活者である。氏には遠く及ばないが、私も最少に使用する生活を心かけている。便利なものが、こころを育てるのには、懐疑的である。それより想像力、創造力、思考力が何よりも大切だ。

時間がかかり、手間暇がかかることの中でしか、人間の精神性の豊かさは育ちようがないのではないかという側に、徐々に徐々に私はシフトしつつある 。絶対矛盾を生きつつも、自分に対する懐疑というものを、(疑う勇気を)失いたくないと考える。私自身がこのままの生き方でいいのかと反省するのである。

だからこそ、こうやって一文を綴りながらささやかに考えるいっときの時間が、貴重極まるのだ。人間に優位がないように、言葉にも優位など在るはずもない。

言葉は、どんな邦の民族の言葉であれ、歴史的に築かれ、奇蹟的に生成された崇高で限りなく大切な、どんな人にもおのずと与えられている有形無形の遺産である、というしかない。一人のささやかに生きる日本人として、母語として私は日本語を愛し大切にしたいのである。日本人として生を受けた奇蹟に感謝するほかはない。

このM新聞の記事を書かれた藤原章生記者のことは 、しっかりと私の脳裡にに刻まれた。