弓を始め以前は読まないような本を手にしている |
日々是好日というが、そのように思える日々を、と心かけている次第である。何事も言うは易しだが、思いついたことを、意識して深くゆっくりと、努めてゆくと、動きはとろいのだが、なにやら意識の流れがスムースになって、身体もリズミカルに動き出すのが、経験として腑に落ちるのである。
これを自分では、気を乗せてゆくというか、上向かせてゆくというのか、要は、自分で自分を気持ちのいい方向に運んでゆくのである。
つまりは、何事も自分の内側から湧いてくる自然な流れに従う感覚を、ことのほか最近大切にしているのだ。
妻には、私が最近何か変わったといわれるが、それは彼女にとってどうもいい方向に、私が変化しているらしいので、私はそれをよしとしている次第である。
今年になって、よほどのことがない限り、あまり遠くに出掛けなくなったし、(でも私は旅が好きなので突然出かけるが、それ以外は日常を旅する)あらゆる、ものも含めた関係性をリセットしている。そのことが今後どのようになってゆくのかは、自分ではよくわからないというのが正直なところである。
この歳には、私も初めてなってみて感じるものがあって、その感覚はきっともっともっと歳月を重ねると、ますますもって否応なく変化してゆくのでは、という思いが深まっている。
いきなり朝から、ちょっと重い話になりそうなので、話題を変える。ご両親の面倒を見るために今は新見に住む、K氏から突然最近お葉書をいただき、ようやくお返事を書いたのだが、昨日再び氏からお葉書が届 いた。
普段ほとんどお会いする機会はないK氏(との関係)なのだが、五十鈴川だよりを読まれて、なにか触発されることがあって、小さな旅のことが記されてあった。(面白く読みました、この場を借りてありがとう)
足腰手の上に頭が在る、文字を書くのが最近愉しい |
富良野塾で同期だったO氏からも、30年ぶりに突然お手紙をいただき、驚いたことがある。わたくしごときの拙文を読んでくださって、お便りを下さるなんてことは、まことにもって生きている幸いといわねばならない。
生きていることは、まさに【未知の時間を旅すること】であるのだという 認識がますます深まる。縁という不可思議な何かに、導かれ関係性も深まったり疎遠になったりと大揺れ、大きく変化する。
その中で、急にまた縁が深まったり、薄まったりもするのも、天の摂理と今の私は受け止めている。長兄との関係性も、いっときは最悪だったが、私が変化したせいかもしれないが、今は気持ちのいい関係性が持続できている。
帰省するたびに、二人で(あるいは姉、次兄全員で )小さな旅ができるなんて、夢のようなのである。兄からも、メールばかりではなく葉書での便りが届くが、その兄にも万年筆でへんじを書いた。
直筆を楽しめる、関係性を深めてゆきたいし、直筆で書ける意識と体を老いながら磨きたいと、私は思考する。